TLが苦しい

私はX(旧Twitter)が好きだ。私にとって一種の逃げ場だと思っている。周囲の子には言いづらいこともツイートできるし、趣味の情報を得ることもできる。

しかしながら、最近そんなXに対して苦しさを感じるようになった。理由は「女性の生きづらさ」を推進する法律が制定されたことに伴い、男性による女性への性的な視線、レイプなどの性被害に対する罪の軽さ、どうしても育てられない赤ちゃんを殺してしまった女性が逮捕されるのに対し、父親の罪は問われないこと、バイアグラが女性の経口避妊薬よりも早く承認されていることへの非難ツイートが私のTLを埋めるようになったことだ。

TLは自分の興味関心がもろに現れる場所である。そのため、上記の議論に一切興味のない人にとってはこれらのツイートは話題にはなっていないのかもしれない。だが、フェミニズムを学んでいた私のTLにはこれらのツイートが沢山流れてくるのだ。

TLがこのような議論で埋まることは悪いことではない。むしろ、これだけ多くの人が声を挙げられる場所が存在し、声を挙げる人がいる事には本当に意味がある。これらの議論は私にも関係があるし、無視できるものではない。
上記に書いたものは全て解決しなければならない問題であるし、これだけ女性の権利が侵害されていることはおかしい。

だからこそ、色々なツイートを見ていると、イライラしたり、悲しくなったり、気持ちの振れ幅が大きすぎて疲れてしまう。なんでこんなことが起きるんだろう。なんで声を挙げている人がいるのに声を聞いてもらえないんだろう。こんな風にいろいろと考える。考えて苦しくなる。

苦しいなら見なければいい。見ないこともできる。自分の趣味の関係で「推しが燃えている」とか「不愉快なツイートを見た」とかならSNSとは距離を置いて自分を守る必要があると思う。でも、これらの女性の生きづらさに関する議論を「見ない」という選択肢をとってもいいのか。これが現実なのに。自分が部外者になることも一種の罪なんじゃないか。そんな風に感じてしまう。フェミニズムを学んでいる時も、なんでそんなに女性が自由にふるまうことに制限を設けるのかと苦しかった。でも、苦しいからこそ勉強する意味があると思っていた。もちろんXの情報をすべて鵜呑みにするのはネットリテラシーが足りなすぎる。だからこそ、もっと自分自身も勉強する必要がある。TLの苦しさから抜け出すには女性の生きづらさを減らすことが大事なのか。自分でも今書いていて気が付いた。


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