取引先の受付のひと(思い出話し)
昨年まで常駐していた出版社がある。古き良き時代の会社らしく、小さなビルの入口には受付が設けられていた。そこには、とても感じのよい人がいた。
今日は、彼女のことを書いてみよう。
ビルに入ってドアを開けると「こんにちは!」といつも満面の笑みで迎えてくれた。受付という仕事だけあり、服のセンスもよい。「きれい目のオフィスカジュアル」だ。本作りも終盤にかかるとよれよれになり、身なりもかまわなくなるわたしとは大違いだった。
当時、わたしはある教材のライティングを担当していたが、スケジュールは押しているのになかなか工程が進まない。版元担当は再設計すると毎日言っているが、こんなに内容を入れ替えて大丈夫なのか。新しい構成になって、自分の執筆は終わるのか。校閲者戻しの反映は、そして組版は間に合うのか。
あとにも先にも、そこまでプレッシャーのかかった仕事はない。精神状態が極限まで落ちていた。自分でもそれに気づいてはいたが、どうしようもなかった。
そんなある日、席でゲラに向かっていると、後ろから声をかけられた。振り向くと彼女が笑みを湛えて立っている。
派遣社員という雇用形態で受付業務に就いている彼女が、ビルのオフィスフロアに入って来ることはない。どうしたんだろう。
「こないだヨーロッパ旅行に行ったのでどうぞ」と差し出されたものは、絵葉書のような写真の入った小さい包み。中身はチョコレートのようだ。「えっ!?」「ちょっと甘い物でも食べてがんばってください。じゃあ、わたしは今日はこれで失礼します」。時計を見ると5時を過ぎている。仕事が終わってから、わざわざ来てくれたんだ……。
正規雇用の社員たちはみな、外注者にすぎないわたしを下に見て通り過ぎていく、といつも感じていた。ただでさえ人が嫌いなわたしはどんどん偏屈になっていき、誰かと業務以外の会話をすることなどなかった。だが、派遣社員の彼女は違った。いつだって、そんな風に思いやりをかけてくれた。
「今度ご飯一緒に行きましょうね!」と互いに何回も口にした。だが、受付業務で昼休みがきっちり定められている彼女と、食事に出るのは本の進行次第、その日そのときにならないとわからないことが多いわたしとは、一緒にランチに行くという、たったそれだけのことがなかなか叶わなかった。
そんな彼女とやっと昼食を一緒に食べたのは、それから3年後、会社がコロナ禍と経営難で受付を廃止する、つまり彼女の職がなくなることが決まってから。
「お別れランチ」になってしまったが、会話も弾み、楽しいばかりでなく、安らかな気持ちにすらなれた会食となった。
いまはどうしているだろう。次の派遣先もすぐに決まったというが、いまこうやって思い出したら、連絡をとりたくなってきた。
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