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「春と修羅」(『蜜蜂と遠雷』より)聴き比べ

 ピアノコンクールで競うコンテスタントたちのストーリー、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』。第二次予選で課せられるのが、このコンクールのために作曲された新作品「春と修羅」だ。
 映画のインスパイアード・アルバムを買ったので、原作を読みながらこの曲を聴き比べてみた。順番は、ストーリーと同じく、高島明石から。
 現代曲でほぼ無調だが、「自由に、宇宙を感じて」とだけ書き込まれたカデンツァをどう弾くのだろう。まずは左手。世界や宇宙に思いを馳せて浜辺を歩く宮沢賢治を表現したとある。落ち着いた響きは、生活者として地に足のついた毎日を過ごす、演奏者の明石そのものだ。
 右手は、Fisで始まる「あめゆじゅとてちてけんじゃ」。宮沢賢治の妹トシの台詞を乗せた、澄み切ったメロディだ。こういうリズム、こういうフレーズなのか。聴き終わると「あめゆじゅー とてちてけんじゃ」のメロディが口からついて出た。覚えやすくシンプルで、どこか懐かしいフレーズだ。これが作曲者賞の決め手になったんだろうなぁ。
 次はマサル・カルロス・レヴィ・アナトール。「オクターヴでのパッセージと、複雑な和音を駆使した超絶技巧のカデンツァ」だ。たしかに、両手共にフォルティシモでオクターブの和音が連打される。ダイナミックに超高音域まで上がり、また下がってくる音の彩りは、プラネタリウムで真夜中の星空を見ているようだ。あるいは、ダイヤモンドのプリズムを次々に光が通過していくような煌めきに、息を吸ったきり吐けない。ジュリアードの「王子様」から生まれくる音楽は綺羅星そのものなのだ。
 そして風間塵。500ページを超える本を読んで、もっとも「実際に聴いてみたい」音が、この「おぞましく耳障りなトレモロ」だった。いったいどんな音なのか。
 ああ、本にあるとおりだった。カデンツァに入った途端、凶暴性を帯びてドラムロールのようなトレモロが低音で小刻みに鳴る。続いて、いわゆる現代音楽っぽい不協和音。まさに「敵意を剥き出しに」している。突如として現れた天衣無縫な少年から、まさかこんな「修羅」が奏でられるとは。おそろしい、いやおぞましい才能なのだろうか。 
 最後が英伝亜夜。塵の「修羅」に応える「母なる大地」のカデンツァってどんなのだろう。この曲のなかで、どうやって「安心感」を表現するのか。
 聞いてみてわかった。4人のうちひとりだけ、流れるような音楽なのだ。スタッカートのように弾む箇所もあるが、それでも音がたゆたう感じ。これが「安堵感」であり「心地よいところ」。「心地よい」のではなくて「ところ」がついている。ああ、大地なんだ。20歳の女の子が「母なる大地」をカデンツァで表現するなんて。
 わたしはイルミネーション好きなので、4人のうちマサルのカデンツァが一番気に入ったし、いつだって聴いていたい。クリスマスや年末をひかえて街が輝く12月に一番聴きたいけれど、いま聴いても、幼い頃に連れていってもらった銀座のネオンサインを、デートで訪れた渋谷のプラネタリウムを、フリーランスになるときにひとりで見上げた足立の樹木イルミネーションを、ありありと思い起こせる。マサルの演奏を担当した金子美勇士でも、ほかの誰でもいい。コンサートで弾いてくれないかなぁ。飛んでいって「生のマサルカデンツァ」を聴くのに。

 
 

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