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33歳になりましたが、卵を片手で割れません Everything But the Girl『Idlewild』

どうして片手で割ろうとしてしまったのか

 ぼくは、生卵を片手で割れない。

 卵を片手で割ろうと思ったのは、たしか、元・光GENJIの、諸星和己の話を知ってからだと思う。こんな大事な話を、たしか、と前置きするぐらいに、うろ覚えなのは、誰に対してでもなく、申し訳なく思うのだけれど。

 彼は5人家族(父、母、兄、妹)ではあるけれど、育ったのは祖父母の家で、家族で食卓を囲んだことはなかったという。そのような環境で、料理をする機会が多かったために、生卵を片手で割るテクニックを身につけた。ところが、長い芸能生活で、台所に立つことがなくなっていった。

 アイドル生活が落ち着き、事務所から独立して、ふと、あるときに、卵を片手で割ろうした。ところが、うまくいかない。「くそ、もう1回」と、何度やっても、失敗してしまう。そこで「自分は、こんなに日常の生活から離れてしまったんだ」とショックを受ける。そんなエピソードだ。

 これを知って以来、自分は料理をするときに、ときどき、卵を片手で割ることを試みる。大抵はうまくいかず、手を汚すか、ボウルの中の白身と黄身から、粉々になった殻を菜箸で取り出す羽目になる。

 調理に限らず、説明を受け、実践して、1回でコツがつかめる人と、そうでない不器用な人がいる。自分は、後者に入る。

 仮にだけれど、鶏卵が、2倍ぐらい大きかったら、まだ片手でもなんとかなると思う。あのサイズ感だと、どうしても割るときに卵を「カパッと開く」ようにできない。自分の指が太すぎるのだろうか。

 単に、手先が器用でないだけなら、それほど問題はない。ちょっとしたお遊びの問題なので、気をつけるべきときに、両手を使えばいいだけの話で(ここで、両手を使えば問題なく割れるのだと思う人は甘い。10回に1回ぐらいは、なぜか失敗する)。

 問題は、つい、いきがって、片手で卵を割るような真似を、人生で何度も繰り返してしまったことだ。みなさんもありませんか。仕事、買い物、ファッション、恋愛、食事、創作、ほかにもいろいろ。

 自分の心の中にある台所には、割り損ねた卵が山のようにある。それらが腐ったのは、他ならぬ、自分のせいだなと、考えたり、悩んだり、恥じたりする。ときどき、まとめて、ゴミ箱を空にしているつもりなのだけれど。

 器用でなくてもいい。普通に生きたい。普通になりたい。若いときはそう思っていた。しかし、たとえば「卵を片手で割る」ようなことを、毎日の生活の中で、やすやすとこなしていく人は、普通ではないのではないかしら。

 かといって、「昔は自分もやんちゃしてさ……」「あのときは迷惑かけちゃったな……」などと、話の種にして、自分のエピソードとして都合よく昇華するのは、さすがに失礼だと感じ、苦しくなることだってある。

 自分が「あの苦い経験で成長したんだ」と前向きに、その経験に巻き込まれた人は、「一生忘れないからな」と恨んでいるかもしれない。トラブルがあったとき、自分の視点から話せば自分が正しいように思われる可能性は高く、相手の視点から見れば相手が正しいように思われる可能性は高い。Bob Dylanではないけれど、“You’re right from your side I’m right from mine”なのだ。

 普通の人たち。普通の世界にある、小さな出来事。そこにいたるまでの道は、けっして平坦ではない。どんな人も、失敗がいっぱいで、あまりにも多くの出来事が積み重なった、その上にいる。そこに、ささやかな物語がある。

 あなたは人生の中で、何度、卵を割って、中身を確かめようとしただろうか?

大人を演じるほど、若さが見える

 普通の大人の醜さを憎み、それなのに、大人しか持ちえない心を持とうとした音楽がある。たとえば、Everything But the Girlがそうだ。

 Everything But the Girlは、ネオ・アコースティック(そしてニューウェイブ)の牙城だった、Cherry Red Recordsから作品を発表したTracey ThornとBen Wattの2人で結成された。Cherry Red Recordsは、いまでは「誰がこんなものをまた買うんだ?」という音源を、鬼のように再発しているレーベルになっているけれど……。

 ネオ・アコースティックの代表格のような扱いをされるときも多いが、彼らの音楽に触れたことがあるなら、いわゆる単純なギター・ポップではないことを知っているだろう。

 かつては日本で「おしゃれな音楽」と扱われることもあったというものの、Everything But the Girlは、実のところ、それほど圧倒的に洗練されているわけではなかった。パンクに幻滅した青年たちが、反発心から「大人びた音」を目指そうとしたのがネオ・アコースティックの始まりの一つだとするなら(これもまた、すこし紋切り型ではあるけれども)、彼らはまさにその系譜にいる。

 とくに、活動初期の、Ben Wattの洗練されていない、すこし野暮ったい指弾きのギターの音色。若者が精いっぱいに気取って大人を演じれば演じるほど、どうしようもない若さが露呈することに、聴き手は気づく。そもそも、彼らのデビュー・シングルは「Night And Day」なのだから。若さを正面から衒いなく誇れる人が、これを選びますか?

 一方で、トレイシー・ソーンの歌声は、イギリスらしい翳りと憂いを帯びたものだ。この明るすぎないボーカルは、垢抜けないアレンジであっても、豪奢なオーケストラの中であっても、変わらない個性を主張する。これが、どのような音楽性の変化を経ても、彼らの音楽をEverything But the Girlたらしめた大きな要因でもある。

 見せかけだけのパンクの荒々しさを信じられず、ときにはソウル・ミュージックの余裕に、ときにはメロディアスなギターの音色に魅せられながら、どうしようもない若い青さの火が燃える。少なくとも、Everything But the Girlの初期作品は、それがいかにボサノヴァ風であっても(でもボサノヴァではない)、ジャジーであっても(でもジャズではない)、ネオ・アコースティックなのだった。

ネオ・アコースティックが大人になると

 ところが、1988年の『Idlewild』になると、いわゆるネオ・アコースティックではなくなってくる。自分としては、彼らの作品の中でいちばん好きなアルバムなのだけれど、どうして好きなのかと言われると、すこし困る。

 あまりにも、1980年代後期の音なのだ。「こんな音楽は、いくらでもあっただろう」と言われると、否定しきれない。でも、よく言えば、これはもう、1980年代にしかなかった「手作りの音」だと思う。

 派手ではないシンセの音、ドラム・マシーンの固いビート。ずば抜けてポップでもないし、なにかが際立って洒落ているわけでもない。それほど凝ったアレンジでもない。いかにも宅録的な雰囲気を持っているけれど、一方で、ピアノやギターは生だったりして、デジタルでバキバキに作り込んでいるわけではないのが、また、独特だ。

 次作『The Language Of Life』は、トミー・リピューマがプロデュースした、クリアでヌケのよく、アレンジがほぼ完璧な、みごとなAORになる。しかし、メロディーやフレーズ自体は、それほど大きく変化するわけではない。

 このあたりにも、彼らの音作りの骨格がわかる。がむしゃらにロックの魂を燃やしたりなどはしない。真っ当でポップな曲作り。

 ネオ・アコースティックと言われていたバンドやミュージシャンが、こういう作風になっていく例は、決して少なくない。彼らのように、激しいロックでもなく、ヒリヒリしたニューウェイブでもなく、「大人」びた方向性を目指した人たち、ソウルやフォーク・ロックなどを志向していた人たちなら、あの時代を生きていく中で、メロウで、コンテンポラリーな音作りに歩みを進めていくのは、むしろ自然だろう。

 洗練しきれないところが、逆に、もう取り戻せない青春のきらめきを感じさせる。そして、徐々に、いろいろなことがスムーズにこなせるようになると、今度は、みずみずしさが欠けていると評されてしまう。しかし、いつまでも若々しくギターをかき鳴らしているほうが、めずらしいともいえるのではないか。これは、よい悪いの話ではなくて。

 実際、ブルー・アイド・ソウル路線のネオ・アコースティックは多く、逆に言えば、ブルー・アイド・ソウルの派生系がネオ・アコースティックなのだと言えるかもしれない。Aztec Cameraなど、どうだろう。Danny Wilson、Andy Pawlak、The Big Dishなども思いつくし(十把一絡げのように思えたら許してほしい、それだけ、手当り次第でも挙げられるということだ)、Blow Monkeysあたりも、そうかもしれない。

 あるいは、Pale Fountainsの楽曲を聴き、トランペットが鳴り響くとき、Burt Bacharachへの憧れを、こんなに胸を焦がすように表したものは他にあるのかと思う。

 そんな若者たちが、経験を増していけば、どのような音楽を作りたいと考えるようになるのかは、自明の理というものだろう。

 つまるところ、若さが疾走するような衝動にあふれた作品を世に問うていた作り手が、「普通の、落ちついたポップ・ミュージック」になっていったとしても、そこに至るまでには、成長や熟練、あるいは、なにかしらの喪失が含まれていることがあるわけだ。

普通の人たちの、普通の生活

 『Idlewild』には、少なくとも、向こう見ずな若さはない。かといって、無味乾燥な手癖だけになったわけでもない。ある程度の年を重ねてきたけれど、すぐれた感受性は変わらないままだ。

 「I Always Was Your Girl」や、「Shadow on a Harvest Moon」で聴ける、無機質なビートの反復の上に、まるで波のように寄せては返すギター、そしてサックスが控えめに鳴り響く瞬間の、つつましい喜び。これは、あのデビュー・アルバム『Eden』を作った、ナイーブな美しさを表現できる人たちによる音楽なのだと、はっきりわかるだろう。

 ちなみに、この曲がそのままゴージャスになったのが、たとえば『The Language Of Life』の「Me and Bobby D」だ。ここでは、腕利きのドラマーによる跳ねるようなビート、フュージョンのようなキーボード、あまりにも上手すぎるサックスにより(クレジットと音色から判断するに、たぶんMichael Brecker)、洗練されきった楽曲が組み上がっている。

 それに比べれば、『Idlewild』は、もう少し、個人的なものに聴こえる。普通だ、と表現してもよいかもしれない。しかし、平坦ではなくて、いろいろなことを乗り越え、あるいは引きずってきた人たちの、繊細で、優しい、そんな普通さだ。

 歌詞を読んでも、そのことはわかる。彼らの初期の作品は、総じて、世間を斜めから見て、ちょっと冷笑するような歌詞が多いのだけれど、この『Idlewild』では、もっと、ありふれた人たちの視点になる。

 不器用な人を励ます応援の歌ではない。うまくいかない心理を描いた嘆きの歌でもない。ただ、いろいろな人たちに、普通の生活があるという、当たり前だけれど、まっすぐで強い世界を歌う。

 彼らはかつて、傷つきやすさゆえの気難しさを持っていたかもしれない。大人になっても、物分かりがよくなってはいないし、昔の武勇伝を語ることもない。ささやかな幸福と不幸を、地に足をつけて、しっかりと見つめている。

 その普通さが、とても強く感じられる。

卵を割ってみなければ

 卵を片手で割れる人もいるし、そうでない人もいる。世の中には、自分が卵を両手で1つ割る間に、片手で3つ4つと割っていくような、才気走った人もいる。器用なのか、経験が多いのか、あるいはその両方か。いずれにしても、自分は敬服してしまう。

 もう10年以上もお付き合いがある、shachiさんが、新しく本を出した。

 shachiさんは、幹が太い、大樹のような人だ。枝も多く、そこに実る果実も大きい。そして、その木に茂った葉の1枚だけを取ってみても、細かい葉脈が隅々まで通っている。

 内容に関しては、ここがよかったとか、登場人物がどうとか、そんな褒め方はそぐわない気がする。まっすぐな話だ。手にとって、数ページでも読めば、きっとわかると思う。ときどき、こちらが照れてしまうほど。一言だけ添えるなら、「人を励ます」本です。読んでみてください。

 賢い人のまっすぐさは、とても強い。賢いから強いのではなくて(とくに若いときは、そう思ってしまいがちなのだけれど、そして、それは間違いではないのだけれど)、深い背景を持つ人が、あらためてまっすぐ見つめる視線が、強い。普通の世界を、平凡だと切り捨てたりはしない。

 多くの、知り合った人たちが、それぞれの業界で生きている。10年ぐらいの付き合いがある人からは、本を出しましたとか、結婚しましたとか、心が暖かくなるニュースも、ちらほら届いている。そうはいっても、難しい境遇の人もいるだろうし、希望や野心を砕かれた人もいるのだと思う。

 自分は(そして、おそらく、少なくない数の人は)、何度も卵を片手で割ろうとして、失敗してきた。みっともなくて、どうしてこんなこともできないのだと、己を何度もなじる。そんな心根はいまさら大きく変わることもない。

 そうはいっても、割り損ねたばかりの人にも、それなりのものがあるのだ。傷付いたり、悩んだり、額を床につけて謝りたくなったりしても。

 最近は、卑怯な世界をにらみ続けてきた人が歌うような、才能に満ちあふれた人が書くような、大げさではない、ささやかな幸せのある普通の世界を、そして、そこにある普通の強さを、噛みしめている。

 人生に勝ち組や負け組などは(たぶん)なく、ただ、生きている人たちが、各々のありふれた現実から物語を作っている。普通に歩むことの強さ、偉大さに思いを馳せる。いまさら何を、と思うかもしれない。しかし、普通の人たちが生きていくだけで、十分に物語になることを、そろそろひねくれずに肯定してもよい年齢になってきている。

 片手でうまく割れなかったとしても、結局、割ってみなければ、卵の中身はわからないのだし。また1年、自分の不器用さにあきれながら、誰かを悩ませないように筋を通そうとしながら、いろいろな卵に手を伸ばす毎日が始まる。

 とりあえず、生きている。そんなことを考えながら、朝食を作るために、卵を一つ、割った。両手を使いました。

(今日で、33歳になりました。次の目標は34歳です)

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