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コメダ珈琲店とブルーベリーの人 ショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第3番」

いうほど安くはないけれど、思っていたより大きい

 喫茶店で流れている音楽といえば、ジャズか、クラシックか、そのあたりをイメージされることが相場かなと思う。これも決めつけと言われればそれまでで、中には、カンタベリー系でないと仕事がはかどらないとか、自分の行きつけはLAメタルしか流していないとか、そういう声もあるだろう。ただ、そのような店舗は、自分の知る限り、それほどサンプル数は多くないと思われる。

 ともかく、喫茶店で、くつろいでいたり、何かの作業をもくもくとこなしていたりするときに、イヤフォンをして、その手の音楽を流してみることはめずらしくない。

 ところが、そもそもイヤフォンをした時点で、店内と流れているものとは無関係に、好きな楽曲を聴けるわけだ。だから、別にジャズでもクラシックでもなくてよいわけなのに、やはり場所がもたらすムードは大きいのか、自分の場合、落ち着いた音楽を選びがちである。

 落ち着いた、というのがまた重要で、火が吹き出るように熱いインプロヴィゼーションや、1時間を超える雄大な交響曲を聴くには、ジャズ喫茶や名曲喫茶ならまだしも、たとえばチェーンの喫茶店のような場合は、すこし重たい。そこで、ジャズならさっぱりとしたピアノトリオ、クラシックなら軽妙な室内楽曲あたりを選んだりする。今回は、後者の話。

 シロノワールなどでおなじみのコメダ珈琲店が、ここ数日、ネットで取り沙汰されることが多いようだ。やれ、量が多すぎて驚かされるだとか、いやいや価格を考えるとそれほどではないとか、あるいはコーヒーそのものがおいしくないとか……。

 結論から言うと、自分はコメダ珈琲店がかなり好きで、ほかと比べて、どうのこうの、などとは気にしたことがなかった。

 ぼくにとってコメダ珈琲店は、夕方ぐらいに軽食を取ろうと、たとえば「カツカリーサンド」(傑作!)を注文して、うっかりお腹を満たしてしまい、「やっぱり食べすぎた、なにが軽食だ」と思いながら、季節限定のシロノワール(ミニサイズ)をつまみつつ、甘すぎる「たっぷりミルクコーヒー」をゆっくり飲むのが醍醐味なのであって、コーヒーの品質や価格などで、他チェーンと比較検討することはほとんどない。

 シロノワールが、ミニサイズなのがポイントです。注文する前は、軽食のサンドイッチとコーヒーだから、デザートも食べられるだろう、でも、まるまる1つは多いかな、ぐらいに思う。そんなものだから、ミニサイズぐらいなら大丈夫だろうという、甘い妥協で頼んでしまう。いうほど安くはないのに。

 ところが、コメダ珈琲店のサンドイッチやハンバーガーはなにしろ大きいので(価格と比べれば、おかしくはないのだけれど、そこは喫茶店のメニューという錯覚もある)、注文しているときは余裕があったのに、シロノワールにスプーンを伸ばす頃には、ミニサイズでさえも、後悔していることが、しばしばある。とはいえ、豆菓子もなんとか食べきってしまったりして。

渋谷宮益坂上店でのできごと

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 不思議な思い出がある。後輩の服を選びに、原宿から渋谷までをゆっくり散策したことがあった。探していたのは上着だったはずだから、夏も終わる時期か。もうだいぶ日も暮れた頃、そろそろ休憩しようと、コメダ珈琲店の、渋谷宮益坂上店に入った。傘をさすか、ささないか、迷うほどの小雨だったと記憶している。

 席に案内され、店の入口から、空いたテーブルまで歩く間に、なにか、曰く言いがたい雰囲気の、男性の前を通りすぎた。

 言い方は悪いけれど、まれに、飲食店の中に、いらっしゃるでしょう。見た目がよい/悪いとか、店内の格調にそぐわないとかではなくて(そもそもコメダ珈琲店にふさわしい、あるいはふさわしくない格好なんて、ありえるだろうか)、明らかに、「なぜ、そこで?」というオーラを出している人が。

 とにかく、ぼくは席について、注文をして(そのときも、カツパンとシロノワールを頼んでしまい、ずいぶん満腹になってしまった)、後輩とたわいもない話をしながら、どうしても気になって、振り返ってしまった。そちらの方を。

 その男性は、とくに、みすぼらしい身なりというわけではなかった。ひとりごちて店内に緊張を走らせているわけでもない。どうということのないシャツに上着(ウインドブレーカーのような)を羽織っていて、ひどく酩酊した様子でもなかった。カバンにうまく収まらなかったのか、机の上に飲みかけのペットボトル飲料を置いていたのは、ひどく感心しなかったが、まあ、異常といえるほどではない。

 しかし、なぜか、その人は、フードパック(スーパーの惣菜とか、縁日の焼きそばとかを入れる、透明なプラスチックのアレ)に、山盛りのブルーベリーを乗せて、それを、ちびちびと、ちびちびと、食べていたのだった。

 喫茶店で、持ち込んだブルーベリーを食べ続ける。めったにあることではない。

 だからといって、彼が、他人の言うことを、もういっさい聞いてくれない風情だったかと言われれば、そういうわけでもない。なんだか、妙なほど、落ち着いているように見えた。そういう行為をする人は、「なにが悪いんだ、こちらはお客様だぞ」とふんぞり返っているようなものだけれど、もう少し、申し訳なさそうな態度でもあったかもしれない。

 そちらをあまり凝視するわけにもいかなかったので、その様子をすべてはっきりとは見たわけではないし、仕草や顔色の一つ一つなどをきめ細かく覚えてはいない。けれど、とにかくブルーベリーを食べていること、そして、周りがひどく恐れるような感じでもなかったことは、たしかに覚えている。あのとき、店内にいた人たちは、彼を見ていたのかどうか。

 今にして考えれば、だいぶ不思議なのだけれど、店員は、その客に注意したのだろうか。すくなくとも自分が店内にいる間は、そうしたことはなかった。もう、何度も注意したのか、それとも、ブルーベリーを食べている異質さにおののいて、声がかけられなかったのか。

どうしてブルーベリーだったのだろう

 それにしても、どうしてブルーベリーだったのだろう。コメダ珈琲店の豆菓子だったら、まだ理解の範疇であったのだったけれど。誰かにおすそ分けしてもらったのか、自分で買い込んだのか。視力の低下を、気にしていたのかしらん。いずれにしても、マナー違反といえば、もう、その通りとしか言いようがないし、自分も、注意するべきだったのかもしれない。

 ただ、もう少し想像を膨らませてみると、彼にとって、言い訳しにくい災難が降りかかっていたのかもしれない。たとえば、友人からブルーベリーをもらったが、特段に好きなわけでもなく、持って帰っても持て余すので、やむをえず、喫茶店で渋々食べていた、という可能性も考えられる。マナー的には、もちろんよろしくないが。

 そうだ、他のお客さんも、彼には注意していなかった。うるさくもなかったので、迷惑かどうかと言われると、それほどでもなかったはず。

 いろいろな謎が解けないまま、自分と後輩が店を出ようと会計しているそのときも、ブルーベリーを積んでいた男性は座ったままだった。あ、ブルーベリーそのものは、それなりに減っていたような気がする。確か。

 あれは、なんだったのだろうな。コメダ珈琲店でデザートを食べていると(とくに、季節のシロノワールなどで、ベリーのソースが使われているとなると、よりいっそう)思い出してしまう。その人を二度と見たことがないので、確かめようもない。確かめたいかと言われると、それはそれで、ちょっと悩ましい。

ショスタコーヴィチで思い出すコメダの風景

 話を冒頭に戻して、コメダ珈琲店で聴く音楽について考えてみる。普通に、喫茶店で聴くようなもの、と考えればよいかというと、自分の場合は、どうも、そうでもなさそうだ。

 古きよき喫茶店を人工的に模した雰囲気と、どうにも(前もってというより、結果的に)頼みすぎてしまう食事のボリューム、コーヒーのぼんやりした味わい、上に書いてきた珍妙な記憶などが相まって、よい感じにまとまらない。個人的に愛好してきた名盤たちも、なんとなく、コメダ珈琲店にはしっくりこないような。

 落ち着いているようで、変なところで盛り上がっていて、ちょっと現実離れしたこともあって……となると、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲のことなどを考えてしまう。とくに、第3番あたり。

 クラシックの室内楽などというと、身構えてしまう人もいるかもしれない。あるいは、弦楽四重奏曲の精神的なところが好きなのだ、という人もいるだろう(そういう人は、もう、知っている曲でしょうけれど)。そんな人たちの思惑を、ショスタコーヴィチは脱臼させる。

 弦楽四重奏曲第3番は、なんというか、きょとん、としてしまうような、味わいのある曲だ。ショスタコーヴィチらしい軽妙な(というか、諧謔的、滑稽でさえある)雰囲気で始まり、妙に醒めた感じがあったり、急に沈痛になったり、ところどころ古めかしかったりと、作曲家が1年前に書いた、交響曲第9番と似ているところがある。

 その第9番は、第二次世界大戦後すぐに書かれた。戦勝ムードもあって、ソ連当局はベートーヴェンのような壮大な交響曲を期待していたのに(なにしろ「第9」ですからね)、肩透かしを食らわせたようなユーモアのある作品だった。とはいえ、それはどこか冷たい、皮肉なユーモアである。暗いハイドンといった感じ。その雰囲気は、この弦楽四重奏曲にも濃厚だ。

 とくに、第5楽章は、あのブルーベリーを食べていた人を彷彿とさせる(自分以外に、こんなことを考える人は、そうはいないのだろうけど)。少しずつ盛り上がるのかと思いきや、とくにクライマックスらしい展開を迎えることなく、フェードアウトしていくように終わってしまう。なんとなく、予想外に満腹になってしまい、自分自身にあきれながらコーヒーをすすっているいつもの姿を、この楽章に重ね合わせたりもする。

 弦楽四重奏曲というのはむずかしいジャンルで、オーケストラに比べれば音の色彩は(物理的に)少ないと感じられやすいし、各演奏者の音の受け渡しが、ともすれば、わざとらしくクローズアップされがちになることもしばしばだ。

 4つの声部を1つに組み上げていくのはなかなかむずかしいのだが、ショスタコーヴィチのそれは、ある楽器のからかうような語りにほかの声部がくすんだ色彩の背景を付けたり、各々が落ち着きなく動き回ったりと、習熟した技法で書かれていたことがわかるのに、どこか、寄る辺ない。弦楽四重奏曲というフォーマットを、それまでのイメージと違った方法論で、うまく利用している。強い集団でもなければ、確立された個でもない、不安と冷笑に包まれた人たちが見えるような音楽。

 おすすめは、ボロディン弦楽四重奏団の録音。ショスタコーヴィチは、冷たいまま素材を活かす演奏がよいと自分は思うのだけれど、あんまり冷酷にやりすぎると耳に厳しいものになるし、かといって楽天的に過ぎるのもよくない。そのあたりのバランスが、彼らはよく取れている。

 たとえば第2楽章の、弦の細かい刻みにあわせて、ヴァイオリンで旋律が歌われるあたり。彼らはこの刻みを、小さく(ピアニッシモの指定だから当然そうなのだが)、でもかなり固めの音でやる。第1ヴァイオリンの高音と、くっきりコントラストが付く。そのような曲の魅力に合わせた配慮があるので、過度にギスギスした演奏にならないのがよい。

 とはいってもこの弦楽四重奏団は、70年以上におよぶ歴史を持ち、所属したメンバーは10名以上。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲も何度も録音しており、すこしややこしいが、自分が所持しているのは1983年、Melodiaに録音したもの。この1978〜83年に録音したのが(おそらく)2度目の全集。これはショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲が聴きたいなら、真っ先にお薦めできる録音といってよいだろう。

 コメダ珈琲店の、メニュー名とか、サイズとか、肝心のコーヒー自体のとぼけた風味とか、そのあたりのちょっとしたシュールさに、ショスタコーヴィチの作風は、意外に合っているように思うが、どうでしょうか。ちょっと冷たすぎる? それとも、あのブルーベリーの人の記憶が、そう思わせているのかしら。

(推薦しておいてなんだけれど、CDは国内盤が出ておらず、輸入盤も入手しにくいのは困ったもの。中古でも見かけるが、Veneziaというレーベルから出ているものは、ちょっと音の感じが違う。昔は全集の国内盤がJVCケンウッドから出ていたけれど……)

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