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女性との口論で、好きな曲のフレーズを出された日 KIRINJI『11』

「KIRINJI」に興味がなかった自分

 “大きく揺れたなら 逆さまに映る世界”

 このフレーズが彼女の口から出てきたときの驚きは、ぼくに次の言葉を吐かせることをずいぶんと躊躇わせた。KIRINJIの『11』に収録された「心晴れ晴れ」の一節だ。

 このアルバムが出たときのナイーヴな気持ちを言葉にするのはむずかしい。もともと、キリンジは、兄の堀込高樹が弟の堀込泰行を誘って、兄弟2人で結成されたバンドだ。キリンジのすばらしさは、言葉を尽くせば尽くすほど、逆に彼らの世界に絡め取られてしまうような奥の深さがある。

 国内外を問わず過去の名作たちの影響を幾重にも散りばめたメロディー、ペーソスと情緒をうつくしく切り取る歌詞。それらが合わさったことによる型通りではない熟練と若々しさの同居ぶりは、他のどのバンドにも見いだせない傑出した個性だった。

 そのオリジナリティーが唯一無二であるがゆえに、堀込高樹の世の中を生々しく描き出す視線と、堀込泰行のロマンティックさと苦々しさが混じった視点、この両者が揃っているからこそキリンジなのではないか、2人が結びつかないとあの世界が見えてこないのではないか、と強く思っていた(個人的には、それぞれのソロ作品に、あまりピンときていなかったこともあった)。

 2012年に堀込泰行の脱退が発表され(脱退したのは2013年)、キリンジは、堀込高樹を中心に新メンバーを迎えて、5人編成の「KIRINJI」になった。自分はあまり興味を持てず、堀込高樹のソロにゲストが参加したような印象(「偏見」としてもよいだろう)を勝手に感じていた。それまでの「キリンジ」とは違うものであろうと、あまりよい気分ではなかった。

 そういったわけで、このアルバムを初めて聴いたのは発売日ではない。御茶ノ水のディスクユニオンで流れていたのを聴き、「これは間違いなく堀込高樹の曲に違いない。キリンジの未発表曲か?」とレジの横をチェックしたら、なんのことはない、『11』のジャケットが鎮座していたのだった。

 申し訳ない、と思った。自分が勝手にキリンジの終わりを決めつけていただけだった。彼(ら)の音楽は、KIRINJIとして、意気揚々とスタートしていたのである。

最初から最後まで「らしい」傑作である

 『11』には、たしかに、堀込兄弟時代の若々しさは薄いかもしれない。それでも、端正なメロディーとハーモニー、「文学的」な歌詞による少し不思議な節回しは健在だ。KIRINJIはこのあと、『ネオ』『愛をあるだけ、すべて』と、いささか陳腐な表現をすれば、アーバンに、スタイリッシュになっていくのだけれど(余分なものがなくなっていく、というか)、自分としてはすこし手探り感もある『11』を愛好している。未完成だと言いたいわけではない。過去作品と比べれば、ずいぶん風通しがよくなっている。そして、若さゆえの直接的な艶かしさの代わりに、大人びた手練手管があらわれている。

 「進水式」の堂々たるポップさと”我らの船だ”と新しいバンドの出発を祝ってみせるメッセージ性の高さにまず驚くだろう。実のところ、ここまで「我々は新しい編成として始まっていく」とみごとに宣言するのは、いままでのキリンジにはあまりなかった。それでも、最後に「必ず生きて帰ろう」と言ってみせるところが、紛れもなくぼくの好きなキリンジだった。彼らは、歌詞の最後の一言がほんとうに効いてくる曲を作る。ペシミスティックな精神を、しかもそれとわからないように入れるのがうまい。

 堀込高樹の冷たい眼差しは、逃亡劇の果てに悲しい結果を迎える「fugitive」や、記憶さえ曖昧になった老人を見つめる「ジャメヴ デジャヴ」で明らかになる。どう考えても後味の悪くなる世界観でも、コーラスのアレンジなどで、決しておどろおどろしくしすぎないのが堀込高樹の技だ。

 キリンジ(そしてKIRINJI)の歌詞にはいつも聖と俗が絶妙なるバランスで混ざり合っている。幻想的なクリスマスの「千年紀末に降る雪は」に出てくる女性の誘惑は露悪的で、切ない愛を語る「メスとコスメ」に出てくる整形手術はあまりにも過激だ。そんな世界が、洗練されたAORのような音楽と共存していることによる異化効果も、彼らの魅力になっているだろう。

 他メンバーが加入した影響と、それまでのキリンジの歩みが共存しているのも、『11』のうれしいところだ。「雲呑ガール」のキッチュなポップ感覚はバンド編成のKIRINJIの新機軸という感じだし(しれっと電気グルーヴの歌詞を引用したり)、ムーンライダーズを思わせる「シーサイド・シークェンス ~ 人喰いマーメイドとの死闘篇」も忘れがたいユーモアがある。「狐の嫁入り」の音作りには、後期キリンジ(ややこしいな)のふわふわしたシンセの使い方を見て取る人もいるだろう。

 一方、ポップなところは思い切りポップになっていて、とくにラストの「心晴れ晴れ」のまっすぐな美しさはどうだろう。堀込高樹に子供ができたから(こういう曲になったのだ)という意見もあるそうだが、それはともかくとして、ストレートな歌詞は、やはり、深い知識と繊細な精神を持っている皮肉屋が呟くゆえに、いっそう力を増す。

 『11』は最初から最後まで、キリンジらしいKIRINJIの傑作である。まどろっこしい評価になるけれど、これについては、異論はそれほどないと思っている。

いつか、好きなフレーズがとつぜんに胸を刺す

 話を冒頭に戻す。ある日、ぼくは親しい女性と口論になった。いつもの悪いくせで、正論と理屈、あるいは「なにかおかしいところがあるか?」というロジックで潰すような意見をこちらが述べたときに、彼女が、「大きく揺れたなら 逆さまに映る世界」とぽそりと言った。あとから聞いたら、自分はそれだけ心が落ち着いていないのだ、と伝えたかったらしい。

 論争の最中に好きなバンドの歌詞を引用するというのは、どうも幼いと感じる人もいるかもしれない。しかし、そのときのぼくには、効いた。大好きな曲のフレーズで自分の動揺を打ち明けられる事実の生々しさに、ひどくうろたえた。

 同時に、自分がKIRINJIの『11』をどれだけ愛しているか、「心晴れ晴れ」を何度も口ずさんでいるのか、強く思い出して、まだ発売されて5年も経っていない作品に、強烈なノスタルジーを覚えたのだった。こんな経験は、他のバンドでは味わったことがない。

 彼女とそのあとどうなったのか、今はどういうふうに付き合っているのか、という問いに関してはわざわざ答えたりしない。おそらく、あなたにも好きな曲の、好きなフレーズ(メロディーでも、歌詞でも)があるだろう。人生には、その曲を聴いていないときに、フレーズだけを、ふと耳にすることがある。テレビで流れたり、家族がつぶやいたり。その経験は、たぶん、あなたの人生を豊かにする。その時はどうあれ。

 「要するに、お前の個人的な痴話喧嘩にまつわる音源だから、強く覚えているだけなのだろう」とからかわないでほしい。むしろ、普遍的な話なのだ。誰もが急に思い出してしまうような突然のフックと、未知のものへの期待が、これでもかと詰まったアルバムが『11』だ。キリンジ時代ほどねじくれてはいないし、最新作ほどシュッとしてもいないが、この音楽が駄作だということにはけっしてならない。

 『11』をこれから聴く人がうらやましい。2010年代の日本のポップ音楽で、これほどまでに心に引っかかるきらめきたちを、歌詞とメロディーの両方で兼ね備えたものはめずらしい。学校の理科室で、花園通りで、地上げされていそうな土地の前で、きっと、ふとしたことで、ここに収められているさまざまな音と言葉のフレーズが、あなたの胸をとつぜんに刺していくだろう。あのとき、ぼくが混乱し、その感情の強さゆえに『11』への愛情を再確認されらせたように。良きにつけ、悪しきにつけ。

(ところで堀込高樹は、「普通の古着の、なんてことのないボタンダウン・シャツを着ていても、ブルックス・ブラザーズに見えていたと思う」と自らのセンスを語ったことがあるらしい。これはもう、ぼくにとっては「憧れ」のエピソードだ)

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