ワインにおける正しさとは…?

ワインは知識で飲むものなのだろうか。と、よく自問する。

ワインに関する知識を売る本はとかく多いし。(私もそれなりに読んできた方だと思う。)
ワインを飲む上での「テイスティング知識」であったり、数多あるワインからいくつか(良いものと思われるもの)を抽出した「ワインバイブル」なるものは、数える気も起きないくらいあふれているのだけど、それらを読む時は必ず「正しさ」を求めている気がしてならない。
書き手がそれを求めるだけでなく、読み手にもそれへの理解を求めているのである。
内容の正確さ、書かれている知識が正しいかどうかに重点がおかれ、(本として販売するからにはある程度はそうであるべきなのだが…)、そしてその内容に叶ったワインが紹介されていて、それこそを飲みましょうという暗示も感じてならない。

これはFanatiqueであってPatriotiqueでない気がする。
(これはいつか別で書こうと思う。)
私は自身をワインに対してPatriotiqueだと思っているし、そうありたいと思っている。

私個人としては、ある程度の知識は大事だとは思うけど、知識があればあるほど何もわからない気がしている。
知識があるからワインを美味しいと感じたことも無い。

理由は大きく2つある。

1、前情報を持って試飲すると「そういうもの」「そうあるべきもの」という偏見を持ってワインを認識しようとするから。
自由がなくて、窮屈で、息苦しいテイスティングは好きじゃない。

2、知識はワインを、「出来上がったもの」ではなく「パーツの組み合わせ」のように思わせてしまうから。
私はワイン全体を感じたいと思う。香りを細分化しすぎたり、醸造の一コマを切り取って考えたり、硫黄の分量で、良し悪しを決めたくもない…。
それは車を見た時に、シートがレザー製かとかハンドルの大きさだとか、工場での組み立て段階を考えたり、燃費の良さだけを取り沙汰することに似ていて、その車が全体として自分にもたらしてくれるもの、自分が感じるものを見ていないのである。

ワインを工業製品と比較することが、必ずしも正しいとは限らないけど、木を見て森を見ずというような試飲は、、、もったいないと思う。

どんなにワインのスペシャリストやエキスパートが「これが美味しい」と言っても、私はそう思わないかもしれない。
そこには、テイスティングしたときの体調や雰囲気に起因することもあるだろうし、単純に味覚の好みが合わないだけなのかもしれない。
繊細な部分に気付ける教養が足りないだけかもしれないし、逆に言えば大らかすぎるのかもしれない。

ただ一つ分かっているのは、ワインを知ることは自分を知ることだということ。
自分が美味しいと思えるワインを見つけ、興味を持ち、楽しみ、教養を深め、また新たな出会いをする。
ワインを飲む時の自由を持ったこの一連のことが、何よりも私をワインに留めていると思っている。
加えてその原動力はきっと『好奇心』なのだろう。

ちなみにミーハー心ももちろんあって、有名シャトー、有名ドメーヌ、希少AOPのワインを飲んでみたいという気持ちがあるのも確かである。
だけど、無理に飲もうとは思わない。いつか時が来たら出会えるような気がするから。
ただ「●●ドメーヌのワイン開けるけど、一緒に飲む?」と誘われでもしたら、きっと万難を排していそいそと出かけると思う(笑)。

知識は後からついてくる。(ググれば5秒もかからずに分かるものも多い)
自由にワインを飲みたいと思う。

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