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『完全無――超越タナトフォビア』第三十三章

さらにさらにさらに、ウィッシュボーンがきつねさんに成り代わって、裸形の声を反トポロジカルに構成しながら下手糞ながら演説を強行させていただきます。

もちろん、トポロジカルという数学にその根拠を持つことばの使用は不適切かつ不正確かもしれませんので、アラン・ソーカル氏のような物理学関連者からツッコミをいただいてしまうかもしれませんが、無名のウィッシュボーンの語りに身を入れて聴き込む学者さんなどいるはずもございませんので、機を見計らってガシガシと数学用語なども使っていきたい所存でございます。


さて、巷にはさまざまな宇宙論がその顔面を光らせてデンと腰を下ろしておりますが、きつねさんの【理(り)】を宇宙における宇宙性そのものに適用するならば、それは「世界の世界そのもの性」と同じく、終わりなどない、ということになりますね。

「終わり」が無へのプロセスだと仮定するならば「ある」そのものは、前-最終形真理であり、【理(り)】へのマスターキーであり、すでにしてなにもかもが終わることなく在ってしまっている、という事態ですから、よくある巷の宇宙論のように「終わり」に向かって、どのようなシミュレーションが可能か、などというプロセス論には意味がありません。

現在・過去・未来という区分け、すなわち物理学的にシミュレートし得る、あらゆる経路としてのプロセスというものは、「世界の世界そのもの性」への通過点である前-最終形真理の段階で、容赦なく四方八方に跳ね飛ばされるところの頽落的発想の極みに過ぎないのですから、きつねさん的には。


要するに、いえ要しているかは読者の方々の優れたご判断に委ねると致しまして「ある」そのものにおいては、なにかが終わる、などという洒落たことは決して起こり得ない、ということをこの作品における前半の段階で(ウィッシュボーンごときが主張させていただいてる段階なのですから、きっと作品全体における前半部であると、ウィッシュボーンは推定します)、酸っぱいメッセージとして読者の皆様にお伝えしておきたいのです!

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