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関典子ダンス公演「牧神とニンフの午後」(2月13日改訂ver.2)

「牧神とニンフの午後」のチラシ


 2022年2月12日に投稿したものにさらに加筆し、関さんから指摘いただいた以下の事項を修正しました;動員数は200名!出演者の人数は全部で12名、録音はデュトワのものではなく、パブロフ→パブロワ。

 2022年2月12日、オミクロン株が雨季の大雨のようにあたりを覆うさなか、開場した18:30にはすでに100名もの人々がすこしでもよい席をとろうと列をなしていた。開演前には200名を超す人々が席をうめていた。

「肉体の迷宮」(2010)の和栗由紀夫さんと関典子さん
「肉体の迷宮」のチラシ裏

 わたしがいままでに鑑賞したダンスの数などとぼしいものだが、それでもひそかに、舞踏「肉体の迷宮」を観たことは誇りにしていた。その初演は2010年12月3日から4日。関典子さんはその小柄でかぼそい身体つきながら、ディドロが『逆説』でアグリッピーナの名演がその身体に大きな幻影をまとわせた重層性を指摘した事態を想起させた。バレエが重力を感じさせない跳躍の踊りだとして、対蹠的に舞踏は地を重々しく踏み鳴らす。しかし、「肉体の迷宮」ではあえてどちらにもかたむくことなく、彼女の奇麗でいて妖精のように俊敏な動きが壇場をかけめぐった。
 初演に先だって、國學院のゼミ生たち7名と企画を練っていた。当時谷川渥先生の新著『肉体の迷宮』が、『幻想の地誌学』と同じく、土方巽の直弟子である和栗由紀夫さんによって舞踏化されると聞きつけたので、お二人に対談をしていただいたのだった。
 対談のためにあらためて舞踏を調べなおし、また『肉体の迷宮』と『幻想の地誌学』をふまえて、和栗さんにいろいろな質問や疑問をぶつけた。その様子は雑誌として関係者に配布され、映像も一部公開している。

『美学雑誌 Viva La Vita 2011』「特集」より


 和栗さんは土方巽の直弟子と云う位置に甘んじることなく、舞踏を体系化し、同時に、舞踏の殻に閉じこもらず、世界的に広まる舞踏の趨勢は自身もふくめ、良いものは良いものとして淘汰されていくと冷静に自覚されていた。だからこそ、コンテンポラリーダンスですでに勇名を馳せていた関典子さんをはじめ、舞踏以外のダンサーたちと共演する舞踏を創作された。男を安住しない旅するオデュッセウスに、女を定住するペネロペに仮託して、両者が対立、混淆するさまを美事に舞踏化してみせた。


 初演の2010年からまもなく東日本大地震が関東一帯をも小さからず震撼させ、谷川先生は忽然と大学を離れ、和栗さんも2017年に亡くなった。その別れの会で谷川先生が弔辞を述べ、関さんが踊ったとゼミの先輩からずっとあとになって、飲みの席で訃報とともに耳にした。自分はなにかなしとげることもなく生き延びている。いまや関さんは神戸大学で教鞭もとられている。たまたまご同僚の大田美佐子先生がfbで公演を告知されていて、わたしにとって12年ぶりの鑑賞がかなった。

 一作目の標題作のあとに、お茶女で関さんを教えていたと云う、バレエ研究の大家、鈴木晶さんが登壇された。fbで萩原朔美さん(なつかしいお名前!)が「関さんが動きを禁じたなんて!」と新作の新境地に驚いたと云う投稿を紹介しつつ、楽譜のある楽曲と異なって、ダンスは記録が困難であり、伝承されなければたやすく消滅する事態を指摘された。だからこそ、ニジンスキーの舞踏譜が自筆で残り、後世の研究者によってその暗号が緻密に解読されたことは奇蹟だと説明。現象の移ろいやすさにいまさらながら慄然とした。

牧神を踊るニジンスキー

 関さんがニジンスキーの自著や批評史を博捜し、写真とギリシャの壺絵を忠実に模倣して実現した「牧神とニンフの午後」は、圧巻だった。振付と演出を構成したうえで踊りきった新作は、ドビュッシーの同題のピアノ連弾ヴァージョンをかたわらに、牧神パンとそれを袖に振るニンフを、紙一重、ヴェール一枚で演じ分けており、というよりも渾然と輻輳しており、鈴木さんが類例のないユニークさと評したのもうなずける。関さんは正方形の大きな、しかし狭隘な台の上から一切はなれなかった。昼寝からさめたパンが腕をとめ、あるいはニンフが仰臥しながら太腿を真上に屹立させた姿態は、なんと雄壮かつ甘美だったろう。

 つづく、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」中の「白鳥」にあわせて、ニジンスキーの先輩にあたる伝説的なバレリーナ、アンナ・パヴロワのために創作されたバレエ「瀕死の白鳥」を若林絵美さんがオーソドックスに踊って観衆の惻隠の情を誘った。それから関さんがブラックスワンとして対照的なかたちでコンテンポラリー・ダンスをおどった。スワンというよりは、レイヴン(カラス)を彷彿とさせる黒い衣裳に黒い羽を舞い散らせ、瀕死の鳥がバサバサともがき苦しむさまを生々しく踊り切ることで、死の禍々しさがより目に焼きついた。

 大団円には神戸大学の教え子たち、男子2人、女子10名がおもだって、「動物の謝肉祭」を全曲踊りきった。演出も振付も関さんが手がけた。正直なところ、踊りや演出に物足りなさを感じた。それも致し方ない。技術の順序で云えば彼らは前座で公演してからオオトリの華をもたせるものだ。
 草原に見立てた芝生のマットを、敷いたり、踏んだり、鞍にしたり、望遠鏡にしたりと、ブリコラージュしながら、舞台、客席、2回席を縦横無尽に駆け抜けた。動物になるとはこういうことなのか。ほがらかで闊達な様子は伝わったが、野生の苛烈さが見えなかったのはなぜなのだろうか。あるいは、「白鳥」のパートでだけ、ピアノ連弾の生演奏がやんで、流れはじめた録音とともに、突如関さんが出現して、「瀕死の白鳥」の再生と死のモチーフを挿入してくりかえす演出に瞠目してしまったために、かてて加えて両者の差に目が行ってしまったせいかもしれない。また、曲中白眉のパートであり、そして同時に超絶技巧が要請されるフィナーレの連弾が必ずしも功を奏しなかった印象をもってしまったからかもしれない。
 しかしそれでもなお、師に続いて果敢に有志たちが跳躍し、かれら彼女らの足踏みがこだまするたび、ニジンスキーの魂が、アンナ・パヴロワの息づかいが、そして和栗さんの足踏みが、まるで眼前に復活し、舞踊の遠き後輩たちを盛りたてているようだった。和栗さんは、いい踊りとは観ていると自分も舞台に駆けあがって一緒に踊りたくなるのだと話していた。関さんの踊りの影には、和栗さんはじめ、死者たちがその生と記憶を託すように在(いま)し、力添えをしていたことだろう。これこそが伝統である。

いい踊りとは何かを力説する和栗さん

 舞踊という、芸術のなかでもとりわけ記録と伝承がフラジャイルな分野が、脈々と次代に受け継がれているさまを老若男女の観客とともに見届けられたことに、わたしは感慨を隠せない。わたしの2列ほどまえの席には小学校低学年くらいの、きちんと髪を三つ編みに舞いた、小さなバレリーナたちが目の前の神秘に驚き、信じがたいように、たがいに見合っていた。その様子をはたで垣間見て、命脈は芸術によってこれからもきっと受け継がれ、その度に、偉大な踊り手たちの栄えある生はよみがえることだろうと安堵したものだった。微笑ましく、また頼もしかった。パブロワが「瀕死の白鳥」を舞い続けて死と再生をくりかえし上演したことがいつしか伝説となって後世に語り継がれているように、予定調和ではない迂路を経てもなお、復活と再興をとげる希望としての未来が舞踊に、そして関典子さんたちに夢見られる。
 “Viva la vita!”(生きていてよかった!)。自分もそう思ってもらえるような仕事がしたい。

瀕死の白鳥のポーズをとるアンナ・パヴロワ

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