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神秘体験は増えている!?

調査によると、二十人に一人は臨死体験をしていると言う。でも数え切れない人が別の体験によってでも、顕著な人生の方向転換の体験をしている。人生の方向転換は、黙想の中、中毒から回復する中、礼拝の最中、非常緊急事態の中、強制的な戦闘の中でも起こったりしているのだ。
ハワード・ストーム『臨死 そして与えられた二度目の人生』kindle版 位置no.2274-2276

救急医療や延命治療の進歩によって、現代では数多くの人々が臨死体験をしているそうです。もっとも、臨死体験にもさまざまなケースがあり、肉体から抜け出して周囲の状況を見ていたというものから、さらにその後、光のトンネルようなものを抜けて、天国と思われる場所に行って、そこで先立っていた家族に会ったり、あるいはイエスキリストや天使といった存在に邂逅するといった体験をしたという報告まであります。

そして、そのような体験をした人は健康を回復したのちに、それまでの人生とはまったく違ったスピリチュアルな生き方をすることが多いともいわれています。

ここではそれを、顕著な人生の方向転換と呼んでいますが、このような方向転換のきっかけとなる霊的な体験を、わたしは神秘体験と呼んでいます。いわゆる聖人と呼ばれる人々の目覚めのきっかけにも、このような体験が伴うことは往々にしてあるようです。

もっとも、人生がスピリチュアルな方向に転換するために神秘体験を経験することは不可欠ではありませんし、また、神秘体験をしたからといって、その人の人生にスピリチュアルな方向転換が起きるとも限りません。さらにいえば、神秘体験はたった一度しか起きないわけでもありません。

実は、わたしがこれまで体験した神秘体験は五度あります。そのうちの、わたしが覚せい剤から離脱していくプロセスとして起きたことや、石垣島の群星御嶽でのプレアデス星団にまつわる啓示、それから龍族の魂が自らの肉体にウォークインするという体験については、はてなブログの方に詳しく書いています。神秘的という意味では、この内の覚せい剤からの離脱体験がその後に続く様々なことの事のはじまりでしたからもっとも神秘的でしたが、わたし自身の人生はこのときより前に、すでに方向転換していました。その方向転換のきっかけは、まさに引用部分にある『中毒から回復する中』にあったのですが、そのプロセスにおいては、とくにこれが神秘体験! というようなものはありませんでした。強いていうなら、覚せい剤中毒からの回復というプロセス自体が神秘体験と呼べるかもしれません。

これから書く二つの神秘体験はいずれも「非常緊急事態の中」で起きたものです。

最初の神秘体験は、24歳くらいの頃です。ある朝会社に行くと、上司から大急ぎの納品を命じられました。当時は名古屋で働いていたのですが、入社間もないわたしはその頃ほぼペーパードライバーでした。上司から場所の説明をされ、名古屋高速を使えと言われました。それが人生初の単独での高速道路走行になったのですが、名古屋高速は都市高速で、制限速度は時速70キロです。

運転に不慣れなので、そんなことも理解しておらず、ただただ急がなければという思いで気がつくと100キロ以上のスピードを出していました。その時に急なカーブがあったのですが、当然ながら曲がり切れず、後輪がスリップしはじめました。あ、これはヤバいな、そう思ったその瞬間のことでした。

とつぜん、すべてがスローモーションになりました。目の前の光景がほとんど静止ししてしまったかのようにゆっくりになりました。そして、ハンドルを握っている手が勝手に動いて、いわゆる「逆ハンドル」を切ったのです。この動作によってわたしの乗っていた車はスピンを免れ、ドリフトと呼ばれる状態でカーブの外側の外壁へ向かって横滑りしていきました。

不思議と心は落ち着いていました。相変わらずスローモーションでしたが、「このままいくと車の横っ腹が外壁に衝突するな」ということは分かりました。でも恐怖心はありません。それどころか、どういうわけか「衝突して車は多少ダメージを受けるけれども、この事故で死ぬことはない」ということも分かっていて、妙な安心感さえありました。

すると、さらに不思議なことが起きました。目の前に、映画のスクリーンのようなものが見えて、わたしが生まれてからその瞬間まで生きてきた人生のすべての記録が、そこに映し出されていました。実際にそのようなものが現れていたのか、それとも脳内で起きたなにごとかが、そのように見えたと感じさせたのか、それは分かりません。人生の記録といっても、それは時間でいうと24年分ですから、それを一瞬ですべて見るというのも、どんな早送りをしたって不可能です。

でも、わたしにはその一瞬で、それまでの人生をすべて回想できたのです。人が死ぬときに、自分の一生を走馬燈のように思い出すとよく言いますが、わたしが見たのも、これと同じだったと思います。この走馬燈は臨死体験でも見られるそうですから、人が死を強く意識したときや、強制的に肉体との結びつきが解除されるようなときに、起きるのかもしれません。わたしの場合は、逆ハンドルが切られた(わたしが切ったのではありません)時点で死の危険は回避できていたと思いますが、それはおそらく、わたしを守護してくれている存在による介入であったと考えています。つまり、その介入がなければ、わたしは死んでいたのでしょう。

わたしはさまざまな体験から、どんな人にも、その人を守る存在が最低でも一体はついていると考えています。その存在がいわゆる守護霊や守護天使、あるいはハイヤーセルフと呼ばれるものです。

この時の体験では、その直後に人生が大きく転換するというようなことはありませんでしたが、一つだけ確信したことがあります。それは、「わたしはまだ死ぬべきではない」ということでした。でなければ、守護存在による介入はなかったでしょう。そのため、この時以来、わたしは「人生における使命」を探しはじめました。

二つ目の神秘体験においても、やはりこの守護存在からの介入がありました。この話はあまり大っぴらに書くことではないので、かいつまんで書きます。

単刀直入にいうと、そのときわたしは大阪の西成という土地で覚せい剤を買ったのでした。いわゆる「現場」と呼ばれるいくつかの場所がその界隈にあるのですが、そこで路上で取引されていました。その近辺には常に警察官が自転車で巡回しており、運が悪いと職質を受けて、そのまま逮捕されてしまいます。実はわたしはこの場所で、この時の前に一度、職質されたことがありました。

実をいうと、職質(職務質問)というものは、あくまで任意で協力するものです。ですから、持ち物検査などは拒否することができるのです。そもそも、取引の現場を見られていたのなら、その場で現行犯逮捕となります。そうならずに職質であるという時点で、建前としては警官は取引の場は見ていないということにもなります。

ほとんどの人はそういうことを知らないので、覚せい剤を持っているときに職質を受ける=逮捕は免れないと思い込んでいて、勝手に観念して、持ち物を調べさせてしまうのです。また、知っていたとしても、実際に警官に囲まれてしまうとパニックになってしまい、冷静に協力拒否の意思表示をすることはかなり難しいものです。わたしの場合、一度目のときはパトカーの中で協力拒否を貫いて15分ほどで解放されました。

二度目の職質になるこの時は、人通りの多い路上で7人の警官に突然取り囲まれ、わたしもかなり狼狽してしまいました。それでもかなり長い時間、持ち物検査を拒否して粘ったのですが、一人の警官が警察署に詰めている裁判官に逮捕令状を請求すると言い出したので、そこで観念して持っていたバッグを渡してしまいました。

ところが、そこから出てきたのは道具に使う注射器のみでした。注射器は、それ自体持っていたところで法に触れるわけではありません。状況的には、注射器がそこから出てくれば、覚せい剤もあるはずですから、小さなバッグを何人もの警官が寄ってたかって引っ張ったり裏返したりしてどこかに隠していないかと探しますが、なにもでてきません。

これには、当のわたしが驚いていました。わたしはてっきり、いつものようにそのバッグの中に、注射器と一緒に覚せい剤も入れたつもりでいました。そのときに、不意に直前のことが思い出されました。実は、その取引現場ではすでにわたしは常連であったので、そこにいる売人の何人かとは顔見知りでした。いままでの取引ではそんなことは一度もなかったのですが、なぜかそのときに限って、その顔見知りの一人が「今日は寒い(警官の巡回が多い、つまり逮捕されるリスクが高いという意味)から、ネタ(覚せい剤のこと)だけは口の中に入れときや」とわたしに言ってきたのでした。わたしはなぜかその時、特に深く考えることもなく、ああそう、と言いながらに彼に従って、覚せい剤の入ったパケット(小さなビニールのフィルムを密封したもの)を奥歯の裏あたりに隠したのでした。

思い出すと同時に、奥歯の裏に隠したパケットの感触がよみがえってきました。それまでは動揺していて、まったく忘れていたのです。そのパケの感触を得た瞬間、また目の前の光景がスローモーションになりました。そして胸の奥から深い安堵感と多幸感がこみあげてきました。まだ状況的には切り抜けていないのですが「もう大丈夫だ、口の中まで調べられることは絶対にない」という不思議な確信がありました。さらにいえば、顔見知りの売人にあの言葉を言わせたのは、前にわたしの手に逆ハンドルを切らせたのと同じ存在であることも、そのときに感じていました。

実際、バッグを調べつくしたあと、ズボンのポケットや靴の中も調べられましたが、口の中は誰もチェックしようとさえしませんでした。最終的に、警官のリーダー的な男性の「どこにうまいこと捨てよったんや」という言葉とともに、わたしは解放されました。

この時は命の危険に晒されたわけではありませんが、もし逮捕されて前科者となっていたら、わたしの人生はそこで大きく落ち込んでいたと思います(もっとも、そうでなくてもすでにこの時期のわたしは人生のどん底にありましたが)。そうならなかったのは、守護存在がわたしに、そこまでの痛手を負わせるべきではないと判断してくれたからだと思います。

この経験によって、わたしは本気で覚せい剤をやめようと思いました。が、実際にやめることができたのは、それからもう少し先のことになります。そのあたりのことはblogの「プロローグ」という記事の中で書いています。

以上、長い記事になってしまいましたが、わたしの場合はこのように、何度も不思議な存在による介入と導きがあって、ようやく目覚めることができたことを思うと、相当重いカルマを背負っていたのかなと思います。

このような神秘体験が意識の目覚めのストーリーとして語られることはよくありますし、わたし自身も自分に起きたことをそうしたストーリーとして解釈して語らせてもらっています。でも、目覚めには、あるいは悟りには、決まった道やストーリーというものはありません。ほかの人のやり方やストーリーに重要感をもってしまうことは、その人自身のプロセスにとってあまり有益ではありません。

ただ、いわゆる神秘体験、あるいは超常体験といってもよいと思いますが、こうしたことは実際に起こるのだということは、知っておいてよいと思います。起こそうと思って起こせる類のものではありませんが、起こるべき人には自然と起こるものでもあります。でも、それが起こったからといって、自分が特別な人間であると考えてしまうと、魔境に陥ってしまいます。

こうした体験をする人はいま、とても増えているのではないかと思います。そのような体験をされた人にはぜひ、臨死体験やその他の神秘体験について書かれた本を読んでみることをおすすめします。大切なのは、神秘体験をすることではなくて、それがその人の人生に、なにをもたらすかです。


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