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質問箱への回答⑦「ホーキンズ博士の『意識レベル』はなにをレベリングしているのか?」

おそらく前回と同じ方からご質問をいただきました。前回の回答を読まれた方なら引き続き気になってくるかもしれない内容ですので、ここに前回の質問と回答をリンクしておきます。

さて、今回のご質問はこちらです。

そして以下が回答になります。


こんにちは。もうすぐクリスマスですね。うちから歩いて5分のところになんばパークスとなんばCITYがあるのですが、ちょうどその間にあたる遊歩道的なスペースがあって、カーニバルモールと呼ぶらしいのですが、そこに先週からクリスマスまで色々な露店が出ています。

毎年やっているイベントなのですが今年はシュラスコ料理のお店が出店しているらしく、これは絶対に食べに行かないと! と思って今からちむどんどんです。(金曜日に行く予定です)

さて今回のご質問は前回と同じ方からでしょうか? 内容的には繋がっていると思いますので、その体で回答してみたいと思います。noteに転載する際には前回の記事をリンクしておきますね。

ご質問は『”意識レベル”という時の意識はこころでしょうか』というものです。意識レベルというのはホーキンズ博士の意識のスケールの概念において用いられる指標ですね。

前回、わたしは「意識は分割することのできない一つのものであり、あなたの意識もわたしの意識も同じ一つのものである」という趣旨のことを書きました。その上で、ゆえに意識はどの肉体精神機構においても本質的に違いはないが、(エゴであり、意識のコンテントである)心のほうは意識レベルによってその中身や性質が変わってくるということをご説明しました。

ここで、誰の意識もおなじ一つのものであるのなら、なぜ肉体精神機構ごとに意識レベルが違ってくるのか? という疑問が生じてくるかもしれません。質問者さんもおそらくそのように感じられたのでしょう。

この物質世界は一なる意識(これをワンネスと呼んでもよいです)の中に創造されたものですが、その世界の中ではすべての物質が個々バラバラに、つまり分離して存在していますね。しかし、これは見かけ上のことであり、本質はおなじ一つの意識がそれ自体の中に、不均一な状態を作り出しているのです。

これをエネルギーの観点でいうなら、この世界には意識のエネルギーの高い部分と低い部分とがあるということになります。このエネルギーの高い低いはそのまま意識レベルの高い低いを表しています。エネルギー的観点で高いエネルギーの場所を物質的な観点でみると、そこには意識レベルの高い肉体精神機構が存在しているわけです。

ちなみに聖典のようなものはその教えのバイブレーションがエネルギー的観点においては時空を超えて存在していますが、物質世界における個々の書物としての聖典自体にそのパワーが宿っているわけではありません。

ですから、まずご質問の答えとしては意識レベルという時の意識はまさに意識のことであり、心のことを指してはいないということをお伝えしておきます。

その上で、ここからが大切なのですが、意識レベルの概念はホーキンズ博士自身も仰っているように絶対的ではなく相対的であるということです。どういうことかというと、そもそもあれやこれ、あるいはあの人やこの人の意識レベルを測定して、それぞれ異なる数値が出てくるということ自体、分離的なのですね。

これはよくよく考えればおかしなことだと分かるのですが、このおかしさに少しでも気づけた人はすでに相当高い意識レベルに到達しているはずです。しかし博士の意識のスケールについて知っているほとんどの人はこのことに疑問を持ってはいないはずです。なぜかというと、彼ら自身が分離的に世界を経験しているため、人はそれぞれ個別の意識レベルを持っているという考えにはまったく違和感がないからです。そして同じ理由で、ほとんどの人にとって意識レベルの概念は非常に便利で有用です。

しかし、意識レベルが600を超えている人は二元性(分離)を超越しています。つまり自分と他者の分離さえなくなっていくのですが、そうなると、この人の観点にはもはや個々別々の意識レベルというものはなくなってしまいます。覚者や賢者が「あなたとわたしは同じである」と話すとき、「あ、でも意識レベルは違うけどね😉」なんて付け加えたらおかしいでしょう? まあ、仮にそう言ったとしても、それは便宜的に言ったこと、つまり方便でしかありません。いずれにしても、意識レベルの概念が有効なのは599以下の人までなんですね。この領域の人たちはまだ二元性のなかで相対的に生きているわけです。

さて、それはそれとして、ここで意識を太陽の光にたとえてみましょう。太陽の光は地上のすべてのものに等しく降り注いでいます。しかし、物陰やなにかの下に存在している場所には光は届きません。また、曇の日や雨の日には光そのものが遮られ、地上に届く光の量が減ってしまいます。

個々の肉体精神機構において、この意識の太陽光を遮っているのがいわゆる煩悩です。煩悩とは自己中心的な思考や感情、欲望のことですね。言ってみればこの煩悩は、太陽の光を遮る雨雲や邪魔な遮蔽物や、あるいは心にのしかかる重荷のことです。こういったものを取り去ることができれば、頭上には太陽が燦然と輝いているでしょう。

意識レベルとは、この太陽の光がどれくらい遮られずに心と体へと届いているかを表している指標であると言えるでしょう。意識の太陽は常にそこ(人の内面)にあって万人を等しく照らしているのですが、その光が実際にどの程度ちゃんと届いているかは肉体精神機構によって異なるのです。意識レベルはこの肉体精神機構ごとの差異をレベリングしているのではなく、その差異を生み出している光の明るさをレベル分けしているのです。

もっとも、博士の本を読むと意識レベルの異なる人々がそれぞれどのように世界を見ていて、どのように考え、どのように行動するかということが書いていますから、まるで心のことについて語っているかのように思えるかと思いますし、実際に本の中で博士も、用語として心と意識をそこまで厳密に使い分けてはいません。しかし、意識レベルといったときにそれが意味しているのは、このような意味です。

今回の回答はこれで以上になります。お役に立てましたなら幸いになります。


読んでくださってありがとうございました!

ちなみにホーキンズ博士の意識のスケールについてご存知ない方はぜひこちらの本をお読みください。絶対に読んだほうがよいです。

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