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スピリチュアルな振り子にご用心

フィリップ 最近のアドヴァイタ(非二元論)の先生に何人か会ってから、私は、あなたがものごとを説明するやり方に本当に感謝しています。あなたはすべての先生の中で、いちばん意地悪です。あなたは最高の正直さでもって、ただちにその場でものごとを正す方です。私は、みんながそのことに非常に感謝していると思います。

ラメッシ あなたは、私がニンジンを差し出さないので、多くの先生の中でいちばん意地悪だと言うわけですね。私が言っているのは、得るべきニンジンなんてない、ってことです。多くの人たちは、何らかのニンジンを与えてもらいたがります。いまだにニンジンが欲しい人たちは、ニンジンを得ることができる場所へ行き、ニンジンを食べた後で、自分がまだ不満足であることに気づき、ここへやってきます。

『誰がかまうもんか?!』 ラメッシ・バルセカール, 高木悠鼓, ブレイン・バルドー 著

霊的な真理について教え、伝えるということを行ううえで、わたしが配慮していることは「わたしと、わたしが伝えるものがスピリチュアルな振り子にならないようにすること」です。

これについては一度どこかで書いておこうと思っていたんですが、下手なことを書くと意図していることとは反対の結果になりかねないため、ここまで控えていました。でも、トランサーフィンについての記事を書かせてもらったおかげで、「振り子」という概念を読者のみなさんと共有できるようになったため、今回ちょっと書いておこうと思った次第です。

トランサーフィンの記事を読んでいただいた方なら、わたしが言っていることを特に説明もなくご理解いただけるでしょう。しかし、あえて言葉にするのであれば、わたしは誰の師にもなるつもりはありませんし、ましてやどんな形であれ弟子や生徒というような人たちを囲う集団を作って、その上に立ったりそれでお金を得ようなどという思いがないということです。

なぜかというなら、そういうものはすべて「破壊的な振り子」であるからです。真理を広めているのに、それが破壊的な振り子になるなんて、そんなことがあるのでしょうか? そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも、そんなことがあるのです。なんらかの教えや考えがあり、それを信奉する集団があらわれた時点でそれは振り子になっていくわけですが、最初にあった教えや考えがたとえ純粋な真実に根ざしたものであったとしても、それが誰か特定の肉体精神機構の口や手から発信されるとき、それを受け取る人々は純粋な教えや考えだけでなく、必ずこの特定の肉体精神機構(でしかないもの)までも信奉してしまいます。

つまり、スピリチュアリティが振り子になるとき、その振り子の正体には教えの内容だけでなく、教えを説く者(グルだとか教祖だとかのあれこれ)が含まれるのです。

そして、ご存知のように、振り子は信奉者たちの周波数を振り子の周波数に固定し、彼らの人生ラインを振り子から逃れにくくなるようなところへと誘導転移させます。具体的には、なんらかの約束事(弟子になるとか、会費を払わせるとか、講演会に参加させるとか、あるいはもっとシンプルに「先生」と呼ばせること)を守らせることによって、振り子との絆を強化していくわけです。代わりにグルは信奉者たちになんらかのニンジンを与えます。ニンジンとは、信奉者のエゴを満足させるような甘い言葉です。「あなたはここにきてかなり成長を遂げた」とか「あなたの過去生は◯◯(まあまあいい感じのやつ)だった」といったものですね。

あるいは信奉者の質問に対して、探求者の質問とは得てして質問それ自体に誤りが含まれているので、基本的には質問そのものの否定が答えとなってしまうものなんですが、振り子のグルは信奉者たちの誤りを誤りのまま受け取って、その誤りの文脈のなかでもっともらしいことを答えます。これもニンジンですが、なぜそんなことをするかというと、ニンジンを与え続けているかぎり、彼らはずっと振り子の信奉者であり続けてくれるからです。

ちなみに、グルとその教えが非常に高い意識レベルで計測されるケースであったなら、たとえそれが振り子であったとしても、信奉者たちはむしろよりよい人生ラインへと導かれることになるのでは? と考えることもできそうではあります。でも、賢明な人なら、その考えはどこかおかしいということに気づかれるでしょう。

ラメッシやその師であったマハラジや、ラマナ・マハルシといった賢者たちは、彼らに教えを請いにやってくる人々に可能なかぎりの寛容さをもって相対してきましたが、彼らはどんな振り子も作ってはいませんでした。それは、彼らはそういう人々に対して、ニンジンを与えるようなことはしなかったからです。とはいえ、ラメッシのように質問者の誤りを即座にきっぱりと否定する賢者もいれば、そういうやり方はしない賢者もいることでしょう。

賢者が賢者なのは、ニンジンを与える理由が彼らにはないからです。もっとも、彼らの教えに感化された人々が、彼らの教えを世界中に広めるために対話集を出版したり様々な情報を発信したりしましたから、その過程において彼らの周辺には大小さまざまな振り子が発生したかもしれません。しかし、そういった振り子の内外でなにがあったかは彼らにはなんの関係もないことです。

わたしが最近知ることになったACIMについて言えば――もちろんわたしは詳しい実情は知らないのですが――直感的に思うところはあります。具体的には、ACIM はそれ自体が非常に霊的なものであり、それにまつわる振り子を極力産み出さないような在り方が当初から完成されているようにわたしには思えるということです。もちろん、ACIM教師のなかには自分の振り子を作ろうとしてしまう人もいる(いた)かもしれませんが、それは時間の中で見破られ淘汰されていく(きた)はずです。

また、勉強会なども大小のスケールで営まれているようですが、肝心なのは学習する個々人のコミットであり、ACIMの教えと学習者の間にはなにもなく、教師はこの教えと学習者の関係をサポートしているだけである、という形になっているようにも思えます。

そうしたことがわたしには感じられるので、わたし個人がこれからACIMを深く学ぶことはないかもしれませんが、こうして取り上げてお勧めしてもよいとは思っています。

いっぽうで、OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)は振り子だったと思います。わたしはOSHOの覚醒を疑ってはいませんし、彼は彼の生きた時代と場所において、そうすることが適切だと思ってあえて自らの存在とその教えを振り子にしていったと思っています。ただ、事実を指摘するなら、OSHOは破壊的な振り子のグルでした。実際に事件も起こっていますからね。とはいえ、現代のわたしからみてもOSHOは魅力的な存在ですし、実際のところ日本語で読めるOSHOの本の大半をわたしは読んでもいます。

でも、このいまの時代にOSHOのようなカリスマは必要ないし、そういうカリスマがいたらそれはもはや滑稽にしか見えないと、わたしは思っています。なぜなら、どんなカリスマであっても、カリスマで居続けるためにはニンジンを配り続けないといけないからですよ🥕

いまいちど書きますが、スピリチュアルな振り子によって幸せになれるのは、振り子自身であるグルと、振り子のお気に入りの高弟だけです。後の人は気の毒ですがニンジンを食べてこれは真理の味がする! と思っているだけです😌 辛辣かもしれませんが、でも本当にそうなんですよね。ニンジンにはくれぐれもご用心くださいませ🥕

この本は「意識は語る」よりもだいぶコンパクトで、編集も親切で読みやすいです。ラメッシから学ぶのでしたら、まずはこの本から読まれるとよいと思います。ちなみに「誰がかまうもんか?!」という邦題ですが、この訳だとちょっと意味が分からないと思います。「誰が(それを)気にするの?」という風にそのまま訳したほうが適切です。

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