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クンダリーニ覚醒というストーリー

聖ブッダがそのときに使ったクンダバッファーという言葉に彼らが彼らのお得意の『悪さ』をしたのは、彼らが彼らの持ち前の知ったかぶりの才能を発揮して悪名高いいろいろな『修行』を発明してからのことである。
それは次のようにして起こった。たまたまこの言葉の後半は、当時の言語で『反射』を意味する言葉に一致していた。加えて彼らは、聖ブッダが言ったように長い年月を待つことなしにこの器官の物質的部分を短期間で消滅させる方法を称するものを発明していた。そこで彼らは、彼らのお粗末な《理性》を働かせて次のような解釈を行い、この言葉について次のように知ったかぶった……もしもこの器官が今でも活動中だったなら、この言葉には『反射』を意味する語尾をつけておく必要があるが、自分たちはその物質的部分まで消滅させつつあるのだから、この言葉の語尾を『過去の』という意味の単語で置き換えるのが適切である。そしてそのころ『過去の』という意味の単語は『リーナ』と発音されたため、彼らは『クンダバッファー』という言葉の語尾を『リーナ』で置き換え、『クンダリーナ』という言葉を使うようになった。
(中略)
惑星地球で『インド哲学』と呼ばれるものの全体はこの名高いクンダリーナに関する教えに基づいていて、そのなかにはこの言葉の意味に関する数千ものオカルト的な解釈や秘密の教えや『科学的説明』が含まれているのだが、それらが提供する説明は無に等しい。

『ベルゼバブが孫に語った物語』
ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフ (著),
郷 尚文 (翻訳)

昨年の秋に Kindle の6インチモデルを買いました。Kindle は他にも持っているのですが、仕事中の待機時間に外で読書するため、ボディバッグに入れておけて軽いこの6インチモデルを追加で買ったところ、これがなかなかいい買い物で、自宅で読んでいるもの(も常に複数ありますが)とは別の本を読むようにしています。

Uber の待機中のこま切れ時間の読書だと、普段わたしがよく読むようなノンフィクション(で括ってよいのかどうか分かりませんが)よりも、小説などのストーリー性がある本のほうが読み進めやすいことが分かってきて、最近までに『三体 Ⅲ』と『三体 X』やメーテルリンクの『青い鳥』を読みました。

それで次になにを読もうかということになって、三体つながりでSF作品にしようかなあ、と思ったときに「そうだそうだ、あれを読み返そう」と思い出したのがグルジェフの『ベルゼバブが孫に語った物語』でした。

グルジェフの人となりと、その思想についてはおそらく、ウスペンスキーの「奇蹟を求めて」を読んで知った人が多いのではないかと思います。わたしもそうでした。しかし、「奇蹟を求めて」はあくまでグルジェフに師事していたウスペンスキーが書いたものであり、その後ウスペンスキーがグルジェフと袂を分かった経緯やウスペンスキー自身の作家としての立ち位置などをもろもろ考慮すると、この本に書かれていることをそのまま鵜呑みにして、それでグルジェフを分かったつもりになるのは軽率以外のなにものでもありません。

一方で、グルジェフには3冊の自著があります。これは最初から三部作として構想されていたものですが、そのうちの最後の一冊は執筆途中でグルジェフが亡くなったため、未完の状態で刊行されています。この三部作の第一作目にしてもっとも重要な作品が、『ベルゼバブが孫に語った物語』です。

この作品はまさにSF小説の体裁をなしています。主人公のベルゼバブはある急用のため宇宙船カルナーク号に乗って母星カラタスを旅立ち、地球では北極星と呼ばれている太陽系パンデツノークへと向かっています。ベルゼバブはこの旅に孫のハシィーンを同行させているのですが、この長旅の中でベルゼバブはじっくりと時間をかけて、自身が経験した昔話を聞かせてやります。本作品はそのほぼすべてがベルゼバブとハシィーンの間で交わされる会話で構成されています。

ベルゼバブがハシィーンに語る昔話とは、ベルゼバブが若い頃に滞在した太陽系オースに存在する地球という特異な惑星と、そこで暮らしている風変わりな三脳の生き物(いわゆる地球人のことです)についてのものです。詳細は明らかにはされないのですが、ベルゼバブは若かりし頃に宇宙の中心部においてなんらかの反逆行為をした咎によってこの太陽系オースへと流刑の憂き目に遭っています。その際の本拠地は火星だったのですが、さまざまな理由でベルゼバブは地球を何度も訪れました。

このことについてはこの旅の以前にもベルゼバブはハシィーンに話したことがあったのでしょう。それで、ハシィーンはこの太陽系オースの惑星地球に暮らす奇妙な三脳の生き物にひどく興味を持っていたようです。そのため、この長い旅をちょうどよい機会だとして、ベルゼバブはハシィーンのお気に入りである地球人について彼が知っていることを惜しみなく話してあげることにしたのでした。

ちなみに三脳の生き物とは文字通り三つの脳を備えた生物ということです。いわゆる脳と脊髄と太陽神経叢(これは種族によって違うようで、ベルゼバブの種族は太陽神経叢に相当する違うものを備えているようです)がそれに相当するのですが、これは肉体(本能)・感情・思考の三つのセンターというグルジェフの思想における概念と対応しています。

これでいくと、二脳の生き物とは本能と感情のセンターだけを備えている動物で、犬や猫が該当します。一脳の生物は魚や昆虫といったより単純な生物のことを指しています。

さて、この物語においてもっとも重要なことはなにかというと、なぜ地球人がベルゼバブたちから見て奇妙で風変わりなのかというところにあります。これこそが、この物語をとおしてグルジェフが伝えようとしたことの核心であるといってよいでしょう。

ベルゼバブが言うところによれば、全宇宙に存在しているほかのすべての三脳の生き物が備えているべき資質とそれによって得られるところとなる成果物を、ある気の毒な事情によって、ほぼすべての地球人が持っていないそうです。この話はつまり、グルジェフ存命の時代から現代に至っても、その点においてはほとんどなにも変わっていない「なぜ人類はこんなにだめなのか」という問題の種明かしにもなっています。

この事情とは、要約すると以下のようなものです。

地球をめぐる天文学的な問題によって、あるとき地球からふたつの破片が分離しました。この分離したふたつの破片のうち、大きい方はわたしたちがいま「月」と呼んでいるものです。もうひとつはとても小さいのですが、こちらの存在を現代の人類は知りません。この分離したふたつの破片が地球の重力圏から逃れて宇宙へと放り出されてしまうと宇宙的な大災害を招く恐れがあると考えた宇宙の中心部にいる神聖な存在たちは、地球がこのふたつの破片を維持するために、神聖なる振動『アスコキン』を地球がこれらの破片へと安定して供給できるようにすることにしました。

この神聖なる振動『アスコキン』を地球がふたつの破片へと安定供給するために神聖な存在たちが行ったのは、地球に生物を発生させることでした。このあたり、どういうことなのか、この要約だけではさっぱり分からないと思いますが、詳しく知りたい方はぜひ本を読んでみてください。ここではごくごく簡単に、地球人とは、実は地球のふたつの衛星を維持するために必要な振動(波動=エネルギー)を生み出すための奴隷であった、とまとめておきます。

そして、もしこの真相を地球人類が知ってしまったら、彼らはその衝撃にきっと耐えられないだろうと危惧した神聖なる存在は、人類が現実をありのまま受け止めず、ものごとをあべこべに受け取ってしまう特質を与えるために、地球人の肉体の脊椎の一番下の部分にクンダバッファー器官というものを埋め込んだといいます。

引用文にあるように、クンダバッファーという単語のバッファーという部分はこの引用文で語っているアトランティス崩壊直後のころの真珠国(現在のインド)の言葉では「反射」という意味があったそうですが、いまの英語だと「緩衝」という意味になります。つまり、現実を直視するのでなく、それを反射(反対に受け止める)したり、緩衝となって衝撃を和らげる働きをもたせたものがクンダバッファー器官であると思われます。

つまり、もしも彼らが、彼らが生まれたのは彼らの惑星から分離した二つの破片が彼らの生によって維持されるようにするためだったことを理解し、そして彼らが彼ら自身とは何の関わりもないもろもろの状況の完全な奴隷であることを確信したならば、彼らは生きることへの意欲を失い、自滅するのではないかと。

実は、クンダバッファー器官を人類に植えつけるにいたった神聖なる存在の危惧は取り越し苦労だったことが後に分かります。そして、その時点でクンダバッファー器官は人類の肉体から取り除かれています。つまり、いまのわたしたちの肉体にはクンダバッファー器官は存在していません。

しかしながら、クンダバッファー器官が存在していたときにそれが人類に及ぼした悪影響(つまり現実を歪めて認識してしまうことから派生するあれこれ)は、すでに人類の中で結晶化してしまっていました。このため、クンダバッファー器官を取り除かれても、これらの悪影響はその後も人類に遺伝されることになったのです。ちなみに、グルジェフの時代には、まだこうした後天的な形質(おそらく気質も含まれるでしょう)遺伝については明らかにされていなかったと思います。

さて、これでようやく引用文の内容に触れられるところまできました。すなわち、グルジェフ(ベルゼバブ)が言うには、いわゆるクンダリーニ(本文ではクンダリーナとなっています)というものはクンダバッファーにまつわる人類の知ったかぶりによって生まれた妄想の類であるということです。

ちなみに、引用文にでてくる聖ブッダはクンダバッファー器官の後遺症ともいえる悪影響を人類から取り除くために宇宙の中心部から遣わされた神聖な存在(の魂を地球人の肉体に転生させた)なのですが、時代がまったく異なることから、これはゴータマ・シッダールタのことではありません。

それはともかく、こうしたクンダバッファーにまつわるエピソードが果たしてどれだけ真実を含んでいるのかはわたしたちには知るよしもありません。ただ、このエピソードを知る以前から、わたしは個人的に、クンダリーニとか、それが覚醒(上昇)してどうやらこうやら、という話は嘘だと思っていました。

クンダリーニなるものが「在る」としても、それを科学的に証明できない(すくなくとも現在において証明できていない)以上、それが「ない」ということも客観的に証明することはできません。ぶっちゃけると、「ない」と思うから「ない」としか言えません。

ただ、わたしが見知った限りの話ではありますが、クンダリーニが覚醒したとか上昇したとか言っている人にまともな人はひとりもいないという印象をもっています。また、共通しているのはエゴが肥大しているように見受けられるところです。

それに、各人が語っているクンダリーニとそれの覚醒の仕方、あるいは上昇のプロセスについても、話がまちまちです。そして、それが覚醒したことによって具体的になにが以前と変わったのか、それもよく分かりませんでした。ある種の超能力的なものが得られたようなことを仄めかしている人もいますが、それが本当ならわたしの目の前で見せて欲しいものです。(※超能力そのものを否定するわけではありません)

言うまでもないことですが、クンダリーニの覚醒は悟りとはなんの関係もありません。ラメッシ・バルセカールも「わたしは(クンダリーニについては)知りません」と言っていましたし、ホーキンズ博士の著作のどこにもクンダリーニという文字は出てきません。悟りが起きた肉体においては、神経系が変化する可能性はあると思います。それは知覚が進化することに対応する変化ですが、もちろんクンダリーニとは関係ありません。クンダリーニの覚醒=悟りではありませんし、悟りが起きるためにクンダリーニを上昇させる必要もありません。

ひとつ言えるのは、クンダリーニ覚醒は「言ったもの勝ち」だということです。悟りについていえば、「悟った」と公言することのおかしさはともかくとして、たとえ公言したところで、ある程度探求の進んでいる人がその人の言動をみれば、それが悟りの起きた肉体精神機構のものかどうかは一目瞭然です。もちろん、悟りといっても捉え方によってはある程度の幅のあるものですが、その幅にしたって、探求者によって判断可能です。つまり、真剣な探求者にたいして悟ったと嘘をついたまま時間を過ごすのは不可能です。

いっぽうでクンダリーニ覚醒は、そもそもそれがなにを意味しているのか誰にもよく分からないわけですから、自分はクンダリーニ覚醒したという人にたいしては、「そうですか」としか言えません。「してないですよね?」と詰め寄ったとしても「してますよ、あなたには分からないでしょうが」と返されてしまえば、それでお終いです😌 ですから、そのような人にはなるべく近づかないのが賢明だと、わたしは思います。

ちなみに、プラーナ(氣)の通り道とされるナーディというものはあるんだとわたしは思っています。また、もちろんですがチャクラも実在(といっても物質次元にではありませんが)するでしょう。ただ、仮にクンダリーニというものがこのナーディを通って上昇するのであれば、その正体はただのプラーナであるということになるわけです。突然、勢いよく上昇するというのが本当であれば、それまではめちゃくちゃ詰まっていて、ぜんぜん流れていなかったんだということになりませんか?

チャクラの開花とか活性化という話もそういうところがあって、そもそも7つあるとされる主要チャクラのうち、まったく動いていない(開花していない・不活性な)ものがひとつでもふたつでもあったとしたら、その人は人間として満足に機能できるでしょうか? もちろん霊的な進化の度合いによって、上部にあるクラウンチャクラやサードアイがより活性化するということはあるはずです。でも、そうかといって、普通の人はクラウンチャクラもサードアイもまったく働いていないかといえば、そんなはずもありません。

ですから、仙骨に潜んでいたクンダリーニの蛇が突然目覚めてナーディを急上昇し、それにともなって各チャクラが次々に開花していく、というストーリーは不自然なのです。もちろん、さっき述べたように、著しく詰まっていたプラーナの流れがなにかの拍子に急に流れるようになることはあるかもしれません。それは、もしかしたらその人にとっては強烈で神聖な感じのする体験なのかもしれません。でも、実際にそこで起きているのは、淀んでいた流れが正常になったというだけのことです。

本人にとっては強烈で神聖な体験ですから、それによって自分が神か超人にでもなってしまったと錯覚してしまうこともあるのでしょう。クンダリーニ覚醒とは、そういう個人的なストーリーだとわたしは思います。

一瞥体験というのも、これと似たような面があります。一瞥とはほんの束の間、垣間見るということですから、それが起きる人の通常の意識レベルは推して知るべきものです。ただ、一瞥体験をした人はほとんどがその経験を畏敬の念をもって受け止めている点で、クンダリーニ覚醒のあれこれとは違ってもいます。なぜなら、一瞥するのは本物の神聖な意識レベルの領域における現実ですから。


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