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質問箱への回答⑲『状況に対して人間は完全に無力であること』

今日は二ヶ月半ぶりに散髪に行ってきました。

以前、この散髪屋さんで髪を切ってもらっていたときに「近所にチキンライスのお店が出来て、すごい流行っているんですよー」という話を聞いたことがありました。そのことを今日行ったときに思い出したので、髪を切ってもらったあとで詳しい場所を教えてもらって、そのお店を確認しに行ったんですね。ちなみにこの散髪屋さんは、わたしの家からは結構遠くて自転車で15分位の場所です。

そしたらびっくりしました。そのお店はなんと、沖縄にいらっしゃるわたしの超大切な友人の知人がやっておられるお店で、今度その人が大阪に来られる際に一緒に食べに行きましょうという話になっていたのです。

まあ、地図でざっと場所は確認していたんですが、まさかそんなに散髪屋さんから近いとは思わなかったんですよね。すごい偶然。これは絶対にその店のチキンライスは美味しいに違いないです🤤 ちなみにわたしは半年くらい前からカオマンガイや海南鶏飯にハマっています。カオマンガイはお店によってタレが結構違ってて当たり外れがある印象ですが、海南鶏飯はわりとどこでも美味しいですね。

さて、今回いただいた質問はこちらです。

今回も回答は note にのみ掲載し、質問箱にはこの記事へのリンクを送信させてもらいます。以下が回答になります。


Fさんこんにちは、そしてはじめまして。ご質問ありがとうございます。順にお答えしていきますね。

「本質的な内容のサイトやブログが、埋もれてしまっていて」

霊的な探求に限らずどんなことでも言えることですが、なにかを学ぶというとき、そこには教える人と学ぶ人がいます。そして、学ぶ人のレベルが様々である以上、それに対応する教師のレベルも様々になります。

霊的な探求といっても、おっしゃるように表面的な流行りのスピリチュアルを一生懸命学んでいる人もいれば、瞑想やヨガにはまっている人もいますし、Fさんのように非二元にたどり着いている人までいます。あるいは危険なカルトの教義に魅入られてしまっている人も、本人としては霊的な探求をしているつもりでしょう。

ホーキンズ博士の意識のスケールを学ぶと、どの意識レベルにもそれぞれの真実があるということが分かります。簡単にいえば「お前がそう思うなら、お前にとってそれは真実なんだろうよ」ということなのですが、実際にそれはそうなんですよね。そして、これは霊的な探求においてもそうです。

なにが言いたいかというとつまり、本質的な内容のサイトやブログを埋もれさせているようにFさんには思えるさまざまな情報源もまた、探求のある段階にいる人々にとっては真実を伝えてくれる本質的なサイトやブログであったりするのです。もちろん、そうした情報源が伝えている内容は、わたしから見れば統合性を欠いているように見受けられるものが多いです。かといって全部間違っているというわけでもないし、また、情報として価値がないというわけでもありません。

それに、わたしが書いた記事を読んでその内容が分かる人の多くは、過去にはこうした情報源が伝えているものを熱心に学んできていると思います。ですから、これもすべては繋がっているんですよね。わたしはわたしという個人が幻想であることを知っています。ですから当然に、わたしが書いたものも他のすべてから独立して存在してなどいないことも知っているんです。

わたしは記事の中で色々な本から引用しますし、優れていると思う本をみなさんに勧めることもよくしています。それは、わたしの理解やわたしの伝達能力には限界があると知っているからです。わたしは生きているうちはずっと、他の誰かが意識レベルを向上させようとして取り組まれることの手伝いをしたいと思っていますが、それは別にわたし自身の成果である必要はまったくありません。わたしはこの時代の日本にたまたま存在している霊的な機能でしかありませんから、むしろその機能を果たすためなら手段を選ばないのです😆

さて、前置きはこのくらいにして、ご質問の本題に入りましょう。

質問は、非二元の感覚に在りながら、この二元の世界リアリティーショーの中でどう生きるか? ということです。(※正確に言うとどう生きればいいのか? というフェーズに自分がぶち当たっているのです)

どう生きればいいのか? というフェーズが具体的にはどういう状況であるのかは分かりませんが、どんなものであれ、状況とは自分の頭の中にしか存在していないものであるということはお分かりでしょうか? そしてまた、状況が頭にあるということはその状況と一体化しているということも理解されていますか?

国際的な問題であれ、誰かの人生の問題であれ、状況とはそれについて考えている個人が想像するあれやこれやのことです。例えば会社のプロジェクトに参加しているメンバーは同じ状況を共有しているかのように見えますが、実際には一人ひとりまったく違ったことを「状況」として認識しています。

つまり、状況とはただの観念であり、コンテントであり、それゆえ状況は幻想です。ここですこし基本的な話をしましょう。

霊的な探求における基本的な事実として、エゴは幻想だということが言われます。これはもちろんまったくその通りなのですが、これが意味しているのは、わたしたちは「無力」だということです。なぜなら、行為者であるはずのエゴが幻想なのですから、わたしたちは実際には「なにもしていない」「なにもできない」からです。エゴが幻想だということは多くの教師やスピーカーたちが言っています。でも、わたしたちが無力であると正面切って言う人は少ないです。

無力だという代わりに、「(すべてが幻想なので)なにも起きていない」などという教師がいますが、それもすこし違います。たしかに、なにかが起きていると認識しているわたしたちが幻想なのですから、起きていることも幻想だというのはその通りです。これは状況について先ほど述べたことと同じ話です。

でも、実際問題として人生には色々なことが起きています。それは状況と同じことで、ここになにかがあって、そこには誰かがいて、そしてそれらに動きがあって、というとき、エゴにはそこで「なにかが起きている」というように思えるからです。

ポイントは、この起きてくると思える様々なことが幻想であれ真実であれ、われわれのエゴはそれに対してまったく無力だということです。間違った教師はそれを幻想だと指摘したことによって問題がなくなると思っていますが、そんな答えで納得する生徒は一人もいないでしょう。ですから、大切なのはエゴの無力さを受け入れることなのです。受け入れるために、本当にエゴが無力なのかどうか、徹底的に調べることです。優れた教師が教えるのはこのことだけです。

話を戻しましょう。状況とはエゴの生み出す立ち位置であり、立ち位置はなんであれすべてコンテントです。ゆえに、コンテントである状況の中にいるあなたには、その状況をコントロールできません。そしてまた、肉体精神機構を備えた人間として生きていることそれ自体が状況であり立ち位置なので、人生と状況はイコールです。したがって人生はコントロールできません

コントロールできると思っている(普通はそうですが)から、うまく行かないと苦しいし、なんならうまく行ってないのにうまく行っていると思いこんで痛い目に遭う人も少なくありません。ブッダが一切皆苦と言ったのは、このことです。そして昔のわたしも痛い目に遭いました。

さて話が長くなりましたが、Fさんの「どう生きればいいのか?」という問いは「どうコントロールすればいいのか?」と同義なのです。ですから、答えとしては「どうしようもない」ということになります😆どうしようもないので「どうこうする必要もない」ということになります。

どう生きていくかが問題なのではなくて、どう生きていくかについて考えずにいられない状況があることが問題なのです。ですから、解決するには答えを探すのではなく、問題そのものをなくしてしまうしかありません

Fさんがこの先どのように生きたとしても、いまのその状況はいずれにしても変わってはいくでしょう。しかし、その時にはカタチを変えた新しい状況が生まれているはずです。そして、その新しい状況についてもFさんは完全に無力です。状況はよくなることもあれば悪くなることもありますが、いずれにしてもそれはFさんの力でどうにかなったのではありません。なぜなら繰り返しになりますが、個人の力というのは幻想だからです。たまたま思った通りになったとしても、それはそうなるようになっていただけなのです。そうでないのなら、すべてうまくいくはずですね。

そのうえで一つだけ言うなら、Fさんの肉体精神機構がこの先も意識レベルの上昇を実現させていくことになっているのなら、すくなくとも状況を深刻にとらえることは徐々になくなってはいくでしょう。深刻でないのならそれはもはや問題ではありませんから、その状況はいつの間にか消えていくでしょう。

人間における悟りとは「◯◯という名で呼ばれる肉体があり、その肉体を使って世界とコミュニケートしている意識としての『わたし』がある」ということ以外にどんな状況もないという境地のことです。言い換えると、ある名前を持った肉体精神機構以外のなにものとも意識が一体化していない状態のことを悟りといいます。※ここでの肉体精神機構との一体化は辛うじてこの世界と意識をつなぎとめるための一体化のことで、一体化はしていても同一化はしていないというように理解してください。

なんであれ、それ以外の状況を気にする(それ以外のなにかと意識が一体化している)なら、それは悟りではありません。ですからもちろん、わたしも悟ってはいません。でも、Fさんがいまリアリティを感じておられるような状況は、わたしの頭の中にはもうすでにありません。ですから、わたしはどう生きるかを考えません。

Fさんにおいても、これからどのように生きるにせよ、そこで運良く意識レベルが上昇することがあれば、いまお考えのような質問は消えてなくなることでしょう。どのように生きるかについていえば、それには答えはありませんので生きたいように生きればよいでしょう。ただ、どう生きたにせよ、意識レベルが現状と変わらなかったなら、その時もまたその時なりの状況のなかで「どう生きるべきか?」と自問しているはずです。

質問があるということそれ自体、なんらかの状況が頭の中にあるということを示しています。探求の終わりは質問の終わり、と言われるのはそういう意味となります。どう生きていくか? という問いはたしかに質問としては最後の方にあるものですが、その質問を発しているのは誰かというと、それはFさんのエゴですね。このエゴが完全に黙ったとき、そこにはもう質問をする人はどこにもいません残るのはこの世界で機能するために必要な心だけになります。機能するための心はどのように生きるか? どのように在るべきかを気にしません。ただ肉体精神機構に定められている機能を果たしていくだけです。その機能がどんな機能であるかも気にすることはありません。そして意外かもしれませんが、それはとても幸せなことです。

この二元の世界の中に正解はない

これはそうです。ただ、もしかしたらFさんは「二元の世界には正解はないが、非二元の世界には答えがあるはずだ」と思っておられるかもしれません。だとしたら、それは違います。非二元の世界というか、意識が二元性を超越すると、問いと答えという二元性も超越されるのです。問いと答えははじめから一つなのです。

非二元なんてそれさえも幻想だよってことがわかったら、立ち直れないと

二元性が幻想なら、非二元は真実であるはずだとお考えのように思いました。しかし真相はというと、実は非二元というのもただの観念ですから、それも幻想なのです。非二元とは「二つにはあらず」という意味で、要するに「すべてはひとつである」ということを言っているわけです。ただし、それは実相における真理を人間が言語を使って指し示そうとして出来るギリギリの観念であって、決して真理そのものではありません。例えば真理を月だとするなら、非二元という言葉は月の方を指して伸ばした指先です。指先は月ではありませんね。その点で、非二元もまた幻想に過ぎません。

こう聞くと幻滅されるかもしれませんね。もっとも、言葉通りであれば幻想が滅されるのですからそれはよいことかもしれません。いずれにしても、言いたかったのは言葉で真理を理解することはできないということです。真理は理解するものではなく、知覚するもの、直接体験するものです。直接体験すれば、それが幻想かどうかなんて問題にすらなりません。

「すべてはひとつである」ということを知覚できるようになってくれば、それに脳が抵抗することなどできません。というより、脳は知覚しているものを認識することしかできませんからね。

いくら非二元の感覚にいながらも、五感を脳で感じるリアリティは二元の感覚なので、どのように二元の世界で肉体で生きればいいのかモヤモヤしています

ここまでの話でもうお分かりいただけたかと思いますが、脳で感じているリアリティが二元性のそれであるのなら、それがFさんの知覚だということです。つまり、非二元の感覚というのは実は感覚ですらなく、頭の中でそう思い込もうとしているだけの知的な理解なんです。なぜなら、感覚と知覚は同じことですからね。非二元を感覚しているなら、それは知覚が二元性を(部分的にしても)超越しているということです。

さて、ここまで書いてきましたが、もしかしたら辛辣なことを言っているように感じられたかもしれません。質問と答えははじめから一つであるとさっき述べましたが、探求者の質問はそれ自体が探求者の現在のレベルを示しているのです。つまり、わたしの回答はそのままFさんの現状の意識レベルを示すものです。

ここははっきりさせておく必要があるのですが、質問文から受ける印象では、Fさんはご自身の意識レベルを過大評価してしまっています。Fさんにとって探求の終わりはまだ近いとは言えません。もっとも、それは突然やってくることもありますが……。わたしにはFさんのエゴをおだてる義理はありませんので率直に申し上げておきますね。

がっかりさせないように申し添えておくと、Fさんの意識レベルは決して低くはないですよ。ただ現状は、これからの人生でなんら特別な努力や神秘体験といったものの必要なしに、まだまだ飛躍できる余地がある程度のレベルであるとお伝えしておきます。その点でいうなら、どのように生きるかといえば「意識レベルを向上させることに集中してコミットする」ことをおすすめします。

ただし、意識レベル500を超えるには、なんらかの外部の力が関与する必要があります。わたしのこの回答がその力になるかもしれません。そうなればわたしは嬉しいですが、そのためにはホーキンズ博士の著作やラメッシ・バルセカールの対話集に加えて、わたしの書いた記事をさらに読みこんでいただく必要があると思います。

わたしのこうした助言を受け入れようと思うかどうかについても、Fさんのエゴは完全に無力です。わたしの助言を受け入れるということがFさんの肉体精神機構のカルマ(プログラム)なら、Fさんは受け入れるでしょう。それがプログラムになければ受け入れないでしょう。そして、わたしもこの状況に対して完全に無力なので、この回答が役に立ちますようにと祈ることしかできません🙏

今回はこれで以上になります。お読みいただいてありがとうございました。

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