ウィル・スミス称賛への違和感

ウィル・スミスとクリス・ロックの一件

事のあらましはもう改めて語るまでもないだろう。アカデミー賞において一際注目を集めてしまった今回の一件。日本のテレビニュースではアカデミー賞と言えば「ドライブマイカー」よりも「スミス氏ビンタ」であった。

ニュース番組で司会者やコメンテーターがどのようにコメントしているかは見ていないが、おそらく「暴力はいけないけれど、愛する人を守ったウィル・スミスかっこいい。」といったところだろう。ほんの少しまともな人であれば「ジョークであれ、人の身体を侮辱することは許されない。しかし暴力で応戦したことは正しかったのだろうか。」程度のことは言っているかもしれない。

一方、ネットでは賛否が吹き荒れている。しかし個人的な印象ではスミス氏擁護がかなり目立つ。多くの意見は大体は以下のものに集約される。

愛する人のために立ち上がることは人として素晴らしい。

という美徳派

暴力以外の手段で抗議すべきだった。

という穏便派

いついかなる時も暴力はいけないけれども、彼のしたことは立派なことだ。

というイクスキューズ派

心無い言葉によって自殺する人もいる。ビンタで済んでむしろラッキーだ。

という過激派に分けられる。この問題の本質と問題点をあげたうえで、順々にこれらのそれぞれの主張も見ていく。


賛否が生じる理由と問題点

上ではスミス氏に賛同する意見を多く取り上げたが、もちろん反対する意見もある。もそもなぜこのように意見が分かれることになるのか。

これは人間では処理の難しい、異なる概念2つを比べているからだ、と考える。片や言葉の暴力、片や実暴力。単体ではどちらも悪とされる概念である。しかしこれを、片方はジョークというベールに纏って、もう片方は反撃というベールで応戦しているのだ。また、アカデミー賞という場での壇上と客席、暴力の行使者が直接被害を受けたわけではない、ということも判断を難しくさせる。

ここで私の意見を述べておきたい。私自身はどちらの味方もしない。しかし、今の現状である、スミス氏を称賛することはやり過ぎである、と考えている。というのも、これを称賛していては人間が長い間信じてきた人と人とは分かり合える。話せば分かる(死亡フラグ)話し合いが大切だ、という概念が否定されてしまうではないか。
男 (21歳)「もちろん俺は抵抗するで、拳で。」
これを認めてしまうことになるではないか。

言葉というものは非常に利便性の高いものである。これほどコミュニケーションにおいて多くの情報を載せられるものはない。そして、コミュニケーションのうち最も伝わりやすいものである。だが、だからこそそれ故に、言葉というものは万能であると思われがちだ。実際そうでないにもかかわらず。

自分の思い→自分の言葉に変換・発話→相手の聞き取り→相手の解釈

と、いくつかの変換経路を経由するため、どんな会話も必ず齟齬が生じる可能性を内包している。そのために、話し合いは大切だと言われているのだ。相手がそれを誤解、誤読していると感じたらその都度訂正、説得、修正を行うことにより会話というコミュニケーションスタイルの欠点を補うのだ。

今回の一件で言えば、ロック氏に言い分はないのか。彼にどういう意図があり、なぜそのジョークを言おうと思ったのか。とにかく二度とそんなジョークは言ってくれるな。淡々と詰めていった方がずっと「かっこよくて、称賛される」行為だったのではないか。そして、スミス氏は暴力を悔いている。そんな彼の行為(過ち)を我々が擁護することはスミス氏のためになるのだろうか。

守ったという表現への違和感

さらに私が気になったのは欧米と日本の反応の違いだ。当然どちらの国でも賛否は割れていたが、比較的50 : 50 であった欧米に対し、日本ではスミス氏賛同の声がはるかに大きいように感じた。これはスミス氏のことを知っている日本人が多い一方でロック氏のことを知らない、即ち、より親しみのある方に寄り添いたくなる気持ちも少しは影響しているのかもしれない。

とはいえ、それにしてもこの反応の違いは面白い。なぜこのような違いが生じてしまうのか。それは欧米のロック氏擁護派の意見を見ていると少しは理解できるような気がする。彼らはこう言う。

ジョイダ氏は自分の意思を持っている。

つまり、そもそもアクションを起こすべきは攻撃を受けた(とされる)ジョイダ氏(妻)であり、彼女が反論を行うべきである、そしてウィル・スミス氏は第三者である、それを支持することこそが必要な行為である、という意見だ。これは実に欧米の、特にアメリカの価値観をよく表しているのではないか。アメリカ人の学生はよく授業中に手を挙げる。質問をする。これは彼らが他国の人に比べ特別優れているからではない。彼らにとって社会の一員であるということは、絶えず参加してアクションを起こし、自身が有用であることを証明する必要があるからだ。アメリカは人種やルーツが不問とされることも多いが、それは裏を返せば能力主義であるということでもある。自分が優れたパフォーマンスを発揮することを相手に示さなければならないのだ。
よってこの場合、ジョイダ氏は不快であることをアクションを起こして示さなければならないのだ。声を上げられない人だっているはずという意見もあるかもしれない。しかし世の中そんなに甘くない。個人の権利を声高に叫ぶのであれば、それを侵害してくるものとも闘わねばならない、他でもない自分自身が。それに、今であればいくらでも方法はあるはずだ。SNSを使った発信も行えるし、声明を出すこともできる。そういった可能性も考えず、頼んでもいないのに弱者(とされる)人を勝手に代弁、代行することが本当に正しいと言えるだろうか。

しかしながら日本ではこのような個人主義な考えをする人はまだまだ少ない。むしろ、未だ女・子供は弱い存在、守ってあげなくてはいけない、とさえ考えられている。確かに子供であれば、まだ未熟であり、どのようにアクションをすればいいか、わからないかもしれない。だが、女性は立派な大人だ。弱くもなければ、未熟でもない。必要なことは守ることではない。

各自の意見への反論

まず美徳派。彼らは意見の中でも比較的多数派であり、大衆の認識に最も近いように思う。そして、最も危険だ。彼らの主張を一般化するなら、傷つけられたならその程度・手段は問わず、その人のために立ち上がった行為であればそれは無罪放免であり、英雄だ。というものだ。なかには正当防衛という声もあった。正当防衛だと言うのであれば、中傷された(と感じた)ジェイダ氏自身がアクションを起こすべきだ。代理戦争を認めてしまうと事態がさらにややこしくなる。当人の本意でないことが引き起こされる危険性もままあるからだ。彼らは理屈でなく、感情に反応している。感情を否定するつもりはないが、感情は揉め事には何の解決にもならない。どちらに共感出来るかで物事を決めてしまうことは客観的でなく、人によって判断が大きく分かれてしまう。

続いて穏便派。あえて自分がどの立場にいるかというと最も近いのは穏便派ということになるだろう。なので批判はしないが、何か他の方法とぼかして何も言わないのは何も言っていないようでどこか他人事だ。

次にイクスキューズ派。彼らは自分自身の自己矛盾に気付いた方がいい。暴力はいついかなる時も許されないという定言明法を使うのであれば、彼の行為を称賛してはいけない。あくまで暴力を咎めた上で、ロック氏を非難すべきだ。そしてスミス氏に対しては同情でとどめるべきだ。

最後に過激派。彼らはあらゆる事象に極論を用いるのだろうか。言葉の暴力が人を殺すこともあるし、暴力が人を殺すこともよくある。むしろ、こう言った連中が不祥事を起こした芸能人のところへ寄ってたかって袋叩きにするのは暴力ではないのだろうか。あらゆる行為は暴力性を含んでいる。意図したにしろ、しないにしろ人を傷つけることは、残念ながらよくある。問題はその程度だ。またそれが起こった時にどう対処するか、それが大切なのである。

まとめ

事の発端はブラックジョークだった。人の身体や弱みもいじる笑いをすべて否定したいとは思わない。"誰も傷つかない表現"などというものも同様だ。残念ながら、どんな表現を使おうとも誰かは傷つきうる、誰かが傷つく表現を都度禁止していけば、あらゆる表現が禁止され何も言えなくなってしまう。大切なのは関係性だ。ロック氏が事前にスミス夫妻ともっと親しければあのジョークを選んだだろうか、仮にブラックなことも言ったとしても怒っただろうか。「誰が言うかではない。大切なのは何を言うかだ。」そういう言葉があったように思う。いいえ、違う。誰が言うかも同様に大切なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?