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アンチテーゼ~『いい人』はいらない

 ある年齢を過ぎたころから『いい人』と言われることに抵抗感があり、今となっては嫌悪感に近いものを感じてしまう。

 たとえば人の魅力に『いい人度』があるとすれば、それは重要なパラメーターでないと僕は考えている。数多存在するスーパースターは『いい人』であるからスターでもそこがスーパーなわけでもない。

 なろうと思えば人は誰でも『いい人』になれる。それはRPGでいうのなら絶対に何もなしえない人であり、登場人物としてはある意味必要悪のような存在で、悪を引き立てるための道具になり下がる。

 マーベル作品のヒーローたちは、だいたい『いい人』たろうとして挫折し、人を超越した能力の扱いに四苦八苦をしながら、悪と戦うことでしか存在意義を見いだせないという時期を大体過ごしているのではないだろうか。

 アイアンマン、スパイダーマンは年齢や立場がかなり異なっているのでそのまま比べることはできないし、キャプテンアメリカに至っては軍の兵器という人としては最悪のスタートを切り、絶対的な悪に対しては存在意義を見出せるが、社会的な正義と悪を問われた時、彼は迷い、苦しむ。

 DCではバットマンとジョーカーの関係がまさにそうで、あるコミックではバットマンが死亡したとき、ジョーカーは悪事を働く意味を見失い構成するという展開になる。

 そう、いい人がいるから悪い人がいるし、悪い人がいるからいい人がいる。つまりそこに絶対的な価値はなく、価値がないから魅力にはつながらないのである。

 と、ここまでは極端な例をあげたが、正義と悪を語るつもりはない。

『いい人』であると他人に知られることはとても危険なことだと僕は理解している。なぜならそこには甘えようとする人が集まりかねないという危惧があるからだ。僕は根がいい人ではないので、若いころはいい人であろうとしていたし、甘えてきた人に対して度を超えたときには大きなしっぺ返しをしてきた。それさえも、いい人度をさげないようなお膳立てをしてきたのだと思う。

 ありていに言ってしまえばいい人と思われることはなめられることになる。なめられて得なことは「反撃」が前提ならともかく、基本的にはそんなことばかりだと僕は考える。

 行きつけの居酒屋、ありがちにちょっと人に迷惑をかけてしまう人たちに対して僕は寛大だ。そのかわりある一線を越えた瞬間に寛大さを打ち消すほどに相手を遠ざける。だいたいそこ頃にはお店としてもその人を出入り禁止にする段階に入る。
 僕は根がいい人ではないので、そうなっても仕方がないと思いながらもそうならないようなアドバイスはする。優しいからするのではなく、うまくできない様をただ見ているのはどうにも落ち着かないので、できるだけシンプルな警告(やってはいけないこと)と推奨(やったほうがいいこと)を伝える。
 まず怒られる人は勝手に他人同士の会話に入って、しかも盛り上がらない。だから「じっとしていなさい」と警告をする。あなたが楽しくしたいように他の人も楽しくしたい。盛り上がったほうが楽しいなどと、勝手に自分の価値観でだれもかれもに話かけていたら高い確率で失敗をする
 推奨は一人で楽しめるようにすること。人は楽しそうな人には声をかけたるものである。無理にこちらから話しかけずに楽しそうにしていたら、すぐに声がかかるし、次にあったときにもちゃんと挨拶をしてくれるだろう。

 さて、僕をいい人だと思い、次の店も行こうと誘うのは勝手だが、こちらも断ることもあれば、付き合うこともある。断ったからと言って不機嫌になるくらいなら、もう話しかけないで欲しい。

 そして次の店に行ったときに前の店の悪口を言い始めたらいよいよアウトである。「俺は聞きたくもない話を聞くために酒を飲んでいるわけじゃない」とはっきり言う。びっくりされようが泣かれようが関係ない。

 これをやらないとどうなるか。
 僕が付き合っている人にもその人は甘えるようになり、迷惑をかけ、大惨事になる。そういう様子を僕はあちこちで見てきているから、わかりきっていることはちゃんとする。

 ところがである。
 僕は好奇心からそういった人たちが「なぜそうなのか」を確かめたくて仕方がなくなる。

 つまりそこにいるのはちゃんと断るいい人の僕ではなく悪い人の俺なのである。

 だから勝手にいい人と言ってくれるのは非常に困る。
 こんな僕でも良心の呵責はあるのだ。
 いい人でもないのに、そう思われるのは苦しい。

 というわけで、実はここ最近、バッサリと付き合いを切った人たちがいる。概ね勝手に無害認定して、面白いから、優しいからと勘違いして俺と付き合ってきた人はもう必要なくなった。
 なぜなら俺にとってのその手の人たちに対する好奇心はもう満たされてしまっているからだ。

 時間の使い方を変えていくのに一番大事なことは誰と付き合うかだと俺も僕も思う。

 ありがとう。

 素材はもう十分集まった。もう必要ないんだ。

 なんてことができるような人間であれば、僕にはもう少し違う道もあったのかもしれないが、僕は結局のところ、いい人の枠からはなかなか出れないでいる。

 だからね

 切られた人にはもっと違う理由があるのよ。俺じゃなく僕の側のね。

 結果的にどうなったかと言えば、それによって交通整理ができて、違う人たちと過ごす時間ができるようになった。僕は俺の後始末をすることばかり気にしていた観たいだけど、やっとフラットな感じになれそう。

 人は無理にいい人であろうとする必要はない。そこにはきっと嘘があり、ほころびが来る。期待に応えようとすればするほど、自分はいい人なんだから、あーしなきゃ、こーしなきゃってなってしまう。

 それはきっと自分にとってもフラットな関係性でつながっている周りいとっても不幸なことだと思うな。

 いい人であろうとする必要はないんだよ

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