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『日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション』と表象の文化研究

はじめに

 『日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション』に足を運んだ。日を空けて2回。2階分の展示スペースを埋める115作品は見応えがあって面白かった。美術非専門家・表象と文化研究の学生としても色々と考えさせられた。私は浅学であるため、美術に詳しい方がこの文章を目にして顔をしかめるところが思い浮かぶ。しかし、アートが語りかける大衆の中のひとりの読み手として、表象と社会批評について思考を巡らせてみたことを、メモ書き程度に残しておきたい。

戦後日本美術を概観する美術(私)観

 今回の展示は、ひとりのコレクターの目に映った戦後日本の美術の振り返りがテーマだった。1946年生まれの精神科医・高橋龍太郎氏が収集した3,500を超える美術作品の中から「時代に対する批評精神あふれる作家」の作品を抽出していた。キーポイントはタイトルにもある通り、高橋龍太郎氏の「日本現代美術"私"観」だろう。コレクター自身の半生と戦後の日本美術の交差点を想起させる解説文と作品が並んでおり、ユニークな試みに見えた。多くの企画展ではコンセプトや作家性が主題的な枠組みとして切り取られるが、ひとりの人間の経験的な時間に絡み取られた多様な作風のアートを一気に概観するのは贅沢な体験だった。また、一般的に、作家・作品と比べるとスポットライトを浴びることが少ないコレクターの重要な役割も実感した。作家の意思が実体化した作品をありのまま残すための空間をつくる収集家は、物質性が要である美術界の支柱と言って過言ではない。高橋龍太郎コレクションは、全体のうち、たったの3%の作品を陳列しただけで東京都現代美術館の展示スペースを占めてしまうほどの収蔵量を誇る。スケールの大きさに圧倒された。

 時代・ジャンル・作家を横断して手広く作品を並べたコレクションに感服する一方、「戦後日本美術」としてアーカイブ化される作品群の語りに違和感を感じるシーンもあった。歴史に残される作品を取捨選択する権力者としてのコレクターと作家の「神の視点」から紡がれる「戦後日本美術」や社会批評の語りの中には、時としてあまりにもその政治的位置性への自省を欠いていると思わざるを得ないものもあった。だから良くも悪くも今回の展示は「"私"観」の提示だということを主旨としているのだろうけれども、大きな意思決定を含んだナラティブをプライベートなものの見方のひとつとして享受するだけで止まってしまうのでは、その問題点が取り上げられることはない。美術作品は資産的な価値の称揚のみならず、社会問題に絡めた批判的な検討も必要だ。社会構造と表象を伴うコミュニケーションの立場性と再帰性の視点から少し検討を重ねてみたい。

前置きはここまでとして、要点を見ていこう。

立場性(ポジショナリティ)と再帰性(リフレクシビティ)

立場性と再帰性とは?

 立場性(ポジショナリティ)とはすなわち政治的位置性を指す。社会学研究の文脈において、研究者の特権性や社会経済的地位、ジェンダー、人種などを生きるうえで蓄積される経験的な知識が、研究実践にどのような権力性を行使しうるか、またどのような視点的限界をもたらすか検討する際によく言及される用語である。立場性を省みて自己を言及の対象とする自省的な態度こそ、再帰性(リフレクシビティ)と言われる。立場性と再帰性の議論は社会学の分野を超え、社会相互行為のあらゆる側面で問われることで、マイクロアグレッションをはじめとした差別的な発言の抑止力に繋がる可能性がある。公のコミュニケーションとして遂行されている今回の展示でも立場性と再帰性は一考の余地を見せる。

「ネオテニー・ジャパン」の「人工早産」のセルフオリエンタリズムと歪んだジェンダー観

 展示を通じてひっかかったのが妙なセルフオリエンタリズムである。オリエンタリズムとは、非西洋社会を「稚拙で」「野蛮な」「未開発文明」として捉えて偏見を醸成する主義・傾向である。主に西洋社会における差別の根本を占める「他者化」のレトリックを批判する際によく取り上げられる概念だ。セルフオリエンタリズムとは、非西洋社会において、オリエンタリズムのロジックが内在化される現象を指す。今回の展示におけるその言説を検討していきたい。

 分かりやすい例として、「新しい人類たち」の展示項目がある。以下に解説文の一部を抜粋する:

[…] 日本独自の表現を模索する作家たちに着目し収集を続けた高橋は、2008年に美術館で開催された自身のはじめてのコレクション展のタイトルに、「ネオテニー(幼形成熟)・ジャパン」と名付けました。「人類は猿人類の胎児がそのまま成熟したものである」という説を引きながら、彼は、日本の美術の新しい動きを、西欧文明の移入によって「明治期に人工早産させられてしまった胎児が、100年の眠りから覚めたもの」と形容します。[…]この自由で時に暴力的な「こどもの王国」の全能感あふれるエネルギーを、彼はコレクションを通して社会に示してきました。

日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション

 まず、この説明文に着目する際、近現代の日本美術を「西欧文明」と比較して未発達、ないしは幼稚なものとする語りに注意を払いたい。「100年の眠りから覚めた」「日本の美術の新しい動き」とは、美術文化における明治期以降の変化を指していると読めるが、「西欧」を「文明的」で「純粋」な手本とみなし、それ以外の社会文化を「未成熟」と捉えてしまうのは、オリエンタリズムの再生産・内在化に他ならない。それぞれの社会や歴史に応じた美術的な表現の違いを、あたかも本質的な優劣の証拠かのように取り上げて周縁化することは、西欧優位の世界観を助長することに繋がるため、問題視されるべきだ。さらに、アートは流動的に変化するものだからこそ、西欧の美術技法や表現も、日本の版画や浮世絵の影響を受けてきた側面もあるので、西洋文明による一方的な侵略関係を彷彿とさせる表現は素人ながらも懐疑的に思えた。美術"史"にも強い影響を与えうるコレクターが公然と「西欧文明」の優位性を紋切り型に語ってしまって良いとは思えない。そもそも未だ美術界に「西欧優位」が蔓延っているのだとしたら、その問題に斬り込む鋭利な批判こそ、直感に訴えかける表現が可能なアートに求められるのではないだろうか?

 さらに、「人工早産」という言葉にも、差別的な社会構造と地続きの歪なジェンダー観を感じた。一見、詩的に昇華した表現に思えるかもしれないが、「人工出産する主体」が何を指しているのか、もはや理解ができない。そもそも、人工早産とは、妊娠中にトラブルが発生し、母体や胎児にリスクが想定される場合に行われる処置を指す。その過程に伴う壮絶な痛みや命を失う恐怖に対する想像力を働かせた痕跡がないメタファーは、批評の血が通っているものとは到底思えなかった。出産する身体を道具的に記号として消費する権威的なまなざしの暴力性は批判に値する。いくら"私"観といえど、コレクターがつくり上げる世界観とナラティブにもリフレクシビティと責任が追及されるべきだと思った。

 このような差別・偏見の再生産を促す表現は注意されるべきにも関わらず、結果として展示のナラティブの根幹に表れてしまっているのには正直かなりガッカリしてしまった。せっかくいいところもたくさんある展示だけにもったいなさを感じた。では、社会構造と表象の観点からは、展示の語りと作品に対してどのようなアプローチが求められるのだろうか?答えは既に本展示で印象的だった作家・作品も提示している立場性へのリフレクシビティが提示していると私は考えている。論旨としては問題点を検討する過程にあるが、立場性と再帰性を出発点にしている作家の作品も勿論たくさん展示されており、それぞれがとても面白かったことにもきちんと触れておきたい。本展示の目玉のひとつでもある草間彌生作品群は、まさにその好例だ。

草間彌生の無限鏡とファルスのインスタレーション

最初の大きな展示室に足を踏み入れた瞬間、鏡の立方体と銀色のファルス(象徴的男根)に覆われた立方体が合体した不気味な様子のオブジェが目に入る。他の作品とは異なり、この不思議な形状のものだけ、接近が規制されていない。よく見ると、ファルスがびっしり生えた箱の一面に小さな覗き窓。箱の中身を見ると、小さな赤い丸柄のファルスが下の面にこれでもかというくらい生えている。左右に視線をずらすと、下以外全面鏡となっており、無限にファルスが増殖していく。目の両脇には、少し大きめの銀色のファルスもちらついている、少し目線を上げると覗き窓から覗いた自分の目が見つめ返してくる。あっと驚いて一歩引くと、鏡の下の立方体の鏡に自分の下半身が映っていることに気づく。まるでファルスに自分の身体や顔、個性が取って変わられるような没入的感覚に陥る。

 この作品は、草間氏が日々経験している世界観、すなわちアーティスト本人の立場性から出発して、鑑賞者の主体性を問うているように感じた。ラカン派精神分析の鏡像段階を思わせる作品群は、わたしたちの主体性とファルスの関係性、つまり、わたしたちが常日頃感じている確固たる<自己>であるという感覚と家父長制社会の中での<権力・支配・特権性>との密接なつながりに対して強烈な問題提起を行っている。

 Untitledと題名のない水玉ファルスとハイヒールの作品も同様に我々の社会に対する疑問を投げかけているようだった。#Kutoo のムーブメントでも盛んに批判されたように、家父長制社会下の職場では、いくら身につけている本人が不快だったとしても、足を長く見せ、胸を突き出す姿勢を女性に強要するハイヒールを履くことが「マナー」となっていることが多い。作品としては、社会規範と同一化するファリックなフェティシズムによって生み出される靴(苦痛)を言外で表現すると同時に、反復する水玉模様の脅威でオブジェを包み込むことで支配的な決まりごとに対する抵抗の兆しも提示している。さらに、題名なし、"Untitled"とすることで鑑賞者本人に作品のメッセージを自省的に考えさせる作品だと評価できる。

「私」への脱構築的アプローチとポストヒューマニズム

 他にも、展示終盤の "「私」の再定義” の展示は総じて面白かった。人新世の根幹を成すデカルト的な理性を伴った自己認識に依らない、ポストヒューマニズムの考え方を連想させられる作品が多く並んでいた。

 アート技法の人間中心主義に異を唱え、モノに突き動かされるように描画した作品や、ルーマンのオートポイエシス理論をイメージさせられる作品、理性的な身体観を脱構築して経験的身体の多層的な捉え方を表現した作品、これまで理性が優位とする社会において、劣位に置換された物質性の重要性を際立たせるニューマテリアリズムを実感できる作品など、関心を持って「自己」と再帰的に向き合うことを促す作品が並んでいた。

 これらのアート作品に触れ、情動的に突き動かされる鑑賞者のわたしたちも展示の一部である、とまで言えるかもしれない。

性表象と立場性・再帰性の話

 批評精神に長けた戦後日本美術の代表作を集めたところが今回の展示のウリで、実際前述の通りとても興味深い作品が多いのだが、中には残念ながら作者の立場性(ポジショナリティ)が不明瞭なものもあったことにも再度問いを投げかけたい。

 例えば、会田誠氏の『大山椒魚』は巨大なオオサンショウウオの横に2人の全裸の少女を配置した作品である。解説文いわく、「やんごとなき場所のロビーに飾られているような保守的な絵画」をイメージして制作されたそうだ。意図としては、批判的に家父長制社会における性的客体化を風刺したと読める。

 しかし、作者の意思が社会批判だったとしても、アートはあくまでも相互行為の上で意味が完成するということを忘れてはならない。もっともらしい御託を並べられても、鑑賞者にとって「どう見えるか」ということを抜きにして作品の社会的意味を考えることはできない。特に、会田氏は加虐的な性描写を含んだ作品を多く公開しているが、残念ながらご本人の立場性へのリフレクシビティを微塵にも感じることができない。私みたいな世間一般の人間からすると、結局会田氏の作品は「社会的権威」でもある「有名男性アーティスト」が「少女を性的に客体化」して描いて既存の社会構造の中の略奪的な側面を再生産しているようにしか見えない。たとえ、美術界に「一石を投じる誰もやっていない表象」なのだとしても、ご自身のアーティストとしての権威性を際立たせるために、いかにも正当的に聞こえる理由をつけて、他者の性を利用するのはあまりにも配慮を欠いていると言える。性暴力は変わらず、根深い社会問題だということはずっと訴えかけられているのに、人の痛みや経験を自身の箔づけのための道具にしないでほしい。批判なら他の表現方法を取っても可能なはずだ。

 同様に、やなぎみわ氏の『案内嬢の部屋 3F』に関しても違和感を覚えた。この作品には以下の解説文が添えられていた:

本作は、百貨店という近代商業空間で日本独自に誕生した案内嬢、つまりエレベーター・ガールをテーマとして取り上げる。作品には、同じ制服を着た複数の女性が登場し、マネキンと見紛う均質化された美が表現されている。彼女たちはエレベーター中央に開いた鏡面の穴に、気怠げに足を放り出している。ナルキッソスが水面を見つめるかのごとく自己陶酔する女性たちを写し取ることで、女性が無自覚そして無批判に他者からのイメージを引き受けざるを得ない日本社会への痛烈な批判となっている。

日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション

 高いところから見下ろすように、エレベーター・ガールたちを撮った作品からは批評を行うアーティストの視座の高さと労働者のエージェンシーの否定が読み取れてしまい、不穏な気持ちになった。エレベーター・ガールは、必ずしも「無自覚そして無批判に他者からのイメージを引き受けて」「自己陶酔」しているだなんて言えないのではないか?労働の特性によって主体の無さを規定してしまうのは、労働の時間外の生活や愉しみもないことにしてしまう危険性はないか?そもそも、他の苦労はもちろんあるとはいえ、一般的な労働規範に束縛されない、ある種の社会的権威とも言えるアーティストが「主体性を失った女性たち」とは飛び抜けて異なり「正しいことを教示的に言ってしまえるかのような」目線を有してしまうとも捉えられかねない構図はいかがなものなのか?と思ってしまった。

 アートが社会的な相互行為であるという前提に立って考えると、作品のコンセプトづくりのみならず、アーティストとしての権威的な立場性や受け手の読みを想定したリフレクシブな表現の丁寧な検討こそ、アートの社会批評にとって重要に思えた。文化研究の文脈では、ポジショナリティやとリフレクシビティを明示することを必ず求められるが、これらの考え方は学術的なシーンを超えてコミュニケーション全般にとって有益だろう。

まとめ

 1人のコレクターを含んだ戦後日本美術界の中での立場性と再帰性の検討実践という視点から今回の展示と向き合ってみた。作家・作品、キュレーションのナラティブによって全く異なる解像度での批判的アプローチが取られていたため、今後の日本美術批評のコンテキストにおいて、どのように立場性と再帰性が組み込まれていくか、表象と文化研究の学生として注視していきたいと思う。

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