見出し画像

「自分は死なないという謎の自信」を持っていこうぜ!

毎週、日曜日か月曜日に1200字以内のnote記事をアップすると決めた矢先から、すっかりそのことを忘れていた。もう火曜日だ。ADHDを舐めてはいけない。

さて、昨晩、以下のようなツイートを見かけて、こうコメントした。

本来は自分は死なないという謎の自信を持つことと、コロナウイルス拡散防止に協力しないことは直結していない。自分が死なない自信を持ちつつ、コロナウイルス拡散防止に協力することも十分にありうる。

実際、ぼくはそのタイプだ。根拠なんかまったくないのに「まあ、大丈夫だろ。俺は死なないだろ」となぜか思ってしまう。一方で、自分が感染者である可能性を想定して、マスクはするし、手洗いなどもボチボチやってはいる。黒マスクの彼女もそうかもしれない。

死なない自信の有無から、コロナ拡散防止への協力の有無を確定することができない。このような2つの出来事の関係を独立事象と呼ぶ。

しかし、「自分は死なないという謎の自信」の持ち主に対して「早々に地球から出て行ってほしい」という気持ちになる人は、おそらくそう考えていない。「あちらを立てればこちらが立たず」という排反事象に見えているからこそ、憎悪が燃え上がる。死なない自信のある人間は、コロナ感染拡大を防止する行動をとらないのだ。少なくとも彼らの頭の中では。

スライド1

スライド3

長文読解力が国語教育ではよく話題にのぼるが、長文読解の手前にある短文読解の時点でうまくいかなくなっている人も多い。「自分は死なないという謎の自信がある」というわずか一文であっても、そこから何が読み取れて、何が読み取れないのか?どんなことが確定事項で、どんなことが外れる可能性のある推測なのか?そういう判断が危うい人もいる。

今回のケースのようにある2つの事柄は独立事象であるのか?排反事象であるのか?というのも短文読解のポイントの一つだ。

読解力はシンプルな国語力ではない。心の状態とかなり密接につながっている。心に余裕がなくなればなくなるほど、読解力は落ちる。視野が狭くなり、様々な可能性を見落とすようになる。

コロナ感染が爆発的に拡散中であり、いよいよ緊急事態宣言か?という今の状況であれば、普段以上に読解力が落ちる人間が多数出るのも当然のことであろう。まあ仕方がない。

それはそうと「自分は死なないという謎の自信」というワード自体はなかなか良い言葉だ。

「人間いつかは必ず死ぬ。だから、常に死を意識して生きなければならない」こんな深淵な哲学的な生き様も悪くはないが、普通の人はこんなの耐えられない。鬱になる。

だから、我々の多くは死を意識せずに日常を送るし、他人の死はいつでも他人の死であって自分の問題とはならない。そうしないと、心が耐えられない。それを避けるために無意識の叡智が自分の死を見えなくしてくれる。環境への適応反応である。

せっかくこんな便利な機能があるのだから、それを享受して、生きている間は楽しく生きることだけを考えたらいいじゃないか。死を意識して生きようが、意識せずに生きようが、どうせいずれは死ぬんだし。「自分は死なないという謎の自信」を持って生きていこうぜ!マスクと手洗いは一応しつつね。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?