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「見事に死んで見せる」

寒い冬の夜、私の父は逝った。63歳だった。

夜中に電話。救急搬送。訳も分からず車で急行。そこにはスパゲティ※になった父がいた。酸素吸入、心肺維持、薬物注入、栄養注入のためだけにある複数の管がつながれている。

魂のない肉塊がそこにあった。

原因は、脳幹部で炸裂した血管の崩壊。即死だが、肉体はバイタル(vital signs)を維持している。

半世紀前、今とは法律が違う時代、私は生命維持を断った。なぜなら、その半月前の正月に父と約束したからだ。

「もし、俺が管だらけになったら、全部はずしてくれ。」

親族一同の同意を得て、父はスパゲティから解放される。バイタルは落ちてゆく。70、65、50、40、35……

いきなり母が私を動揺させる。

「ちょっと……」

「待って!」は同意を得る前に言ってくれ!だが、それが母の愛しいところだ。僕は、母のそんなところをユニークだと自慢に思う。

大往生とはこれ。父は私に死を教えてくれた。私の前で死んで見せてくれたのだ。

私も父の享年に迫ってきた。大往生を準備せねばならない。我が子ども達の前で見事に死んでみせる。これが私の最期の仕事だと考えている。

産まれる感動、死ぬやるせなさがない、人生の両端をちょん切ったような、ふわふわとした「生」は危うい。「人が生まれて、生きて、死ぬ。それがアフガンにある。」中村哲さんの言葉が響くのは、背景に私の「死」の経験がある。

※医師の鎌田實氏らが指摘した。延命措置を意味する。

写真は、最近読んだ永六輔さんの「大往生」

I have a dream. 私の「夢」は、日本に活動家を養成する学校をつくることです。 私の「モットー」は、Life is Art. Life is Play. -生活をアートできるようになれば既に幸せ-