メンタル不調の書かれ方|魂を分け合う往復書簡。『急に具合が悪くなる』/宮野真生子・磯野真穂

 まず、タイトルにひかれて本書を手に取った。「なんで急に具合が悪くなっちゃうんだろ?」、と。これは哲学者と人類学者の往復書簡であり、急に具合が悪くなる可能性があるのは哲学者の宮野真生子だ。ワークショップ開催のためにメールのやりとりをしていたところ、人類学者の磯野真穂に宮野が「がんを患っているため、急に具合が悪くなるかもしれない。イベントの講師を引き受けていいものか」と打ち明けるところから始まる。

 磯野は当然のごとく驚き、戸惑うが、「急に具合が悪くなるとはいったい何を意味しているのか」と考え始める。

私だって来月突然何か起こるかもしれないけれど、単に病気を診断されていないからであって、もしかしたら私が何もできなくなる確率の方が、宮野さんのより高いかもしれないですよね……。リスクってなんなんでしょう。よくわからなくなってきました。

 

 そのような磯野からの返信を受け取った宮野は「みんな等しく『急に具合が悪くなる』かもしれないんだ」と気付く。そして主治医から「急に具合が悪くなるかもしれない」と告げられたことによって、そのリスクを前提とする人生についてこのように考えるようになる。

患者は、いま自分の目の前にいくつもの分岐ルートが示されているように感じます。(中略)患者たちはリスクに基づく良くないルートを避け、「普通に生きてゆける」ルートを選び、慎重に歩こうとします。けれど、本当は分岐ルートのどれを選ぼうと、示す矢印の先にたどり着くかどうかはわからないのです。なぜなら、それぞれの分岐ルートが一本道であるはずがなく、どの分岐ルートもそこに入ってしまえば、また複数の分岐があるからです。(中略)分岐ルートのいずれかを選ぶということは、一本の道を選ぶことではなく、新しく無数に開かれた可能性の全体に入ってゆくことなのです。

私が「いつ死んでも悔いがないように」という言葉に欺瞞を感じるのは、死という行先が確実だからといって、その未来だけから今を照らすようなやり方は、そのつどに変化する可能性を見落とし、未来をまるっと見ることの大切さを忘れてしまうためではないか、と思うからです。

 二人は書簡の往復を続け、「生きることとは何か」「関係性をつくりあげるということはどういうことか」「当事者とは何なのか」といったことを語り合う。磯野は常に「あいつは簡単には死なねーよ」と自分自身の心の中で叫び、また同時に宮野に対しても「宮野にしか紡げない言葉を記し、それが世界にどう届いたかを見届けるまで、絶対に死ぬんじゃねーぞ!」と率直に投げかける。そんな関係性について宮野は「やっぱり待っていたのだと。磯野真穂という魂を分け合った人と出会うことを」と表現している。

 それだけを読むと、2人の関係はとても深刻で緊張感あふれるものに感じられるかもしれない。しかし磯野は「舞台裏」と称したあとがきでこう述べている。

もちろんそのような側面があったことは事実です。しかし振り返ると私たちのやり取りのほとんどは、宮野さんがケンタのフライドチキンを再現しようとしたとか、磯野がジムで無駄に追い込んでヘトヘトになっているとか、しょうもないものばかりで、そこには時には他者も介在する、笑いに満ちたものでした。

 磯野は宮野を「病に侵されたかわいそうな人」「こちらがケアしてあげる弱い存在」としてではなく、「病をもち未来をどう進もうともがきながらも、自らの役割を忠実に果たし日々のちょっとした楽しみを貪欲に探していこうとする人」として、正面を向いて付き合っていく覚悟を決めていたのだろうとわたしは想像する。そのような関係性だからこそ、宮野も磯野を「魂を分け合った人」と評したのだろう。

こころに残った一文

(宮野の言葉として)磯野さんがこの出会いを引き受けて、「共に踏み跡を刻んで生きることを覚悟する勇気」を発揮してくれたからです。同時に、私が自分を手放さずに、出会ってくれたあなたに向き合おうとしたからです。そこで私たちは、おそらく互いに出会うと同時に自分に出会い直した。磯野さんが「そもそもこういう関係性を結ぶ場所が私の中にあることを最近まで知らなかった」というように、私は、死に接して業深く言葉を求める自分を知らなかったように。

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