「回してみた」について書いてみた。

「回してみた」をカット有りでやるべきかノーカットでやるべきかの話。

結論から言うと、わたしは回してみたにカットはあるべきではないと考える。

理由は大きく分けて二つある。
まず、わたしは「回してみた」を新たなジャンルとして確立させたいからである。
音に合わせて回していても、カットや編集が加わっていては従来のCVや単発集と変わりのないものになってしまう。
新たなジャンルとして確立させるためには既存の文化との差別化が必要であると考える。

そしてもう一つは、わたしは回してみたを「踊ってみた」というカットがないのが当然である文化の亜種という認識で生み出したからである。
「踊ってみた」と「回してみた」は共に映像主体のジャンルである。わたしはペン回しと「踊ってみた」の間に近いものを見出し、行為としてのペン回しを「踊ってみた」に移植した。そうして生まれたものこそが「回してみた」である。

これらについて、以下でより詳しく説明していく。


まず、わたしはペン回しの発展・普及を心から願っているということを述べておく。


「回してみた」を投稿したところ、「回してみた」が投稿された
その際、こうなった。

本当にそうだろうか?
途中、流されかけて肯定したが、その後少し冷静になって、

わたしが思う回してみたのあり方について考えてみた。


上記やりとりの中にある通り、わたしは「回してみた」を一つの独立したジャンルとして成立させたい。そのために必要なことがノーカット音合わせだと考える。

“回しと音を合わせること”は、CV・SV等でも行われていることであるから、それをわざわざ回してみたと称する必要はない。つまり、カット有りの”回してみた”は、CV・SV等という括りの中にあり、新たなジャンルとして「回してみた」を成立させるには、その括りから脱し、既存文化と差別化をすることが必要である。

ちなみに、音合わせに特化したCVの企画が過去に存在した。

百花繚乱

これはCVであって、「回してみた」ではない。
音合わせを企画のメインとしているからと言って、そしてまた実際に音に合っているからと言って、それが「回してみた」であることにはならない。


ここで「○○てみた」系の動画について考えてみる。
ニコニコ動画の動画ランキングのエンタメカテゴリには、「歌ってみた」・「踊ってみた」・「演奏してみた」の3種類が小カテゴリとして存在している。
他にも、「○○てみた」系の動画には、「描いてみた」、「作ってみた」等があるようだが、これら全てを今回問題にしている「音合わせの伴う映像作品」として考えてみると、音をメインに提供するのか、映像をメインに提供するのかで以下のように大別できる。

音主体:歌ってみた・弾いてみた等
映像主体:踊ってみた・描いてみた等


では、回してみたはどちらか?
ペン回しの動画は視覚に訴えるパフォーマンスであるから、後者である。


「回してみた」のカットの有無について考えたとき、わたしはSV・デイセッション感、単発集感が出てしまうのではないかと予想した。
これらが出てしまうと、上記の通り、既存のペン回し界の文化と差がなくなってしまう。

そこで実際にカット有りの動画を撮って確かめてみた。(権利的な事情で動画を公開することはできないが、もし見てみたい方がいれば個人的に渡すのでその場合はツイッターにご連絡ください。)

確かめてみた結果であるが、大方予想通りであった。
音合わせを頑張ったデイセッション程度にしか見えなかった。

仮に繋ぎ目の編集を頑張ったとしても、それはそれこそSVや単発集の類だろう。


基本的に「踊ってみた」にはカットが入らない。
カット有りの文化は、音主体の動画にある文化である。


ここに示された例は音主体の動画であり、映像主体の「回してみた」と比較するのは間違っているが、それはそれとして、この音声パフォーマンスをカット編集無しで行うのは不可能に近いことは理解できる。
同じように音主体の「歌ってみた」も、パートを分けて録音して後から繋げるのが主流のようである。

音の要素を提供する場合、音は常に鳴り続けているわけではない(パートや小節で区切りがある)から、区切りに合わせてカットして後で繋いでも自然である。また、元の曲と自分がパフォーマンスとして提供するものは共に聴覚に訴えるものであり、曲の全体構造も連続性も維持されているから、編集したとて違和感は無い。

一方で視覚に訴えるパフォーマンスは、曲と一体に溶け合ったものでなく、視覚と聴覚それぞれに別の情報を与える構造にならざるを得ない。
その結果、シーンの転換が際立つことになり、連続性の気持ち良さが減少する恐れがある。


そもそも、わたしは「回してみた」を「踊ってみた」の亜種として認識したうえで始めた。
「踊ってみた」というジャンルとペン回しというジャンルは元々無関係で、それぞれが独立したジャンルとして存在している。
ペン回しには、”行為そのものとしてのペン回し”以外に、編集によって一つの動画を作り上げる文化がある。
しかしわたしは、ペン回しを手とペンを使った踊りのようなものと捉え、ペン回しというジャンルから「行為としてのペン回し」以外を持ち込まずに「踊ってみた」に適用した。そして、それこそが「回してみた」だと考えている。要するに、「踊ってみた」の踊りの部分を、行為としてのペン回しに変えたものである。

「回してみた」の第一人者として述べると、わたしの中での「回してみた」は、「踊ってみた」をペン回し側に寄せたものではない。「回してみた」の根源は、「踊ってみた」であって、既存のペン回しの文化ではない。

「回してみた」は音ハメのポイントや楽曲の雰囲気をもとに内容を考え、表現を工夫し、撮影するという技術的・また発想的な面が評価されるべきであって、既存のペン回しの文化にあるような意味での映像作品として評価されるべきではない。そのような映像作品として評価された時、それは、「回してみた」が既存のペン回し文化に陳腐化する瞬間である。「回してみた」は、CVでもPVでもない。

言葉狩りをするつもりはない。ただ、「回してみた」の生みの親として、わたしの手から離れた先にある未来が陳腐化したペン回しだとと思うとただ悲しい。


高難度技が「回してみた」に不要であることは既にKay氏が証明した。
楽曲の1番だけでも、サビだけでもいい。その間の技に熱を込め、その技術にアッと言わせることができるのが「回してみた」である。
今はTiktokという絶好の活動場所もある。ペン回しとしての手軽さは変わらない。

わたしの根底に「ペン回しが広まってほしい」「ペン回しの進化をすべて見たい」という思いがあるのもまた事実であり、だからこそ、この新たなジャンルを歪められたくない。

それ故に、「回してみた」が芽を出しつつある今、その新しい可能性が既存の文化に取り込まれ、代わり映えの無いものに成り下がってしまうことを危惧せずにはいられない。
そうならないための差別化の手段として、ノーカットを大切にしたいのだ。


Menowa*

ご覧いただきありがとうございます。よければサポートよろしくお願いします。よくなくてもお願いします。きっと誰も見たことのないペン回しをお見せしましょう。