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好きを紡ぐために

健康な体があり、仕事があり、あまつさえ優しく愛おしい家族さえありながら、まだなにか欲しがろうと言うなんて、欲深いね、と呪いの言葉を刻まれたものだなあと思う。

でも、そうだな、お花見をして、空気が美味しくて、日差しは暖かくて、小さい人達は仲もよく、それでもやりたいことをできないなんて思うのはたしかに贅沢で、何も言い返せない。自分で選びとったことなのに。って。

贅沢にも、ものを作り続けて生きていたい。、

さて、それでもこんな生き方を面白がられることもある。けれど、私にとってはどんなふうに思われていたとしても関係ない。興味もない。わたしは自分自身とにらめっこしているし、自分自身とにらめっこするということは、とりもなおさず自分を作り出している、自分の大切な人たちや好きなひとたちとにらめっこするということになる。私というインターフェースを通してインプットされる、あなたやあなたやあの子やあの人の、影や形や言葉などに。わたしは簡単に振り回されるし影響されるし感情的にさせられてしまう。

でもそこに、その行為をどうこう言ってくる他者の目線は関係ない。どうでもいい。私という人間への他者からの評価は。私が気になるのは、私が作ったものや、私の演奏が面白いか、人の心に触れるのか。その部分だけ。私という人間を誰かが好きでも好きでなくても、気に入っても興味がなくても、作品を作るという部分についてはハッキリとても無関係だなあと思う。

反対に、作品を通して触れ合ってくれる人とは結局深く結びついてしまう。

私にとって互いの作った音楽でつながるということは、とても無垢なことである。そこにあるのは音楽だけなのであって、難しく考えるものなんかひとつもない。とてもすき、か、どうか。簡単なことだ。
ガツガツするのも、単に、今は時間があるから。
時間があるからやるだけ。無ければやれないだけ。いつだって枯渇していて、常に欲していて、考えない時なんかなくて、それだけ。別に凄いことでも、なんでもなくて、ばかなだけ。

そこには、好きって気持ちしかない。最高か。

どうも、言葉の扱いが不得意で、言葉に揚げ足を取られるところがある。好きなひとに、好きだという感情を超えて好きだと言いすぎてしまって、あるとき急に「そこまで好きだったろうか」と、立ち止まってしまうことは無いだろうか。ない人は、言葉に揚げ足を取られずに、自分の気持ちを表現するツールとして上手に言葉と付き合えている人だと思う。

わたしはある。まあまあ好き、くらいのカレーを大好きだと言ってしまったり、あまり好きじゃないと言ってしまったり、気持ちと言葉の整合性があまりとれない。
どうでもいい訳じゃないことでも。特に、プラスの言葉の為替相場が安すぎる。

そういう齟齬はすぐに綻ぶ。

だから少しづつ、嘘をつかないように、言葉を選べるようになり、それが私にとって大人になるということのうちの一つだった。本当に好きな時にだけ好きだと言わないと、好きが摩耗して価値を無くすよ、と友人に指摘されたことを思い出す。

中学生の私には、まだ分からなかった。
今では、たぶん、わかる。

人からの、私という人間への評価には興味が無い。でも音楽に関しては別。だから私も音楽で繋がる人達に正直でいたい。

そう願って生きてきたのだった。いま、見渡すと好きな物や好きな音に囲まれている。もっともっとあるだろう。もっと、もっと。それが、嬉しいし、油断ならないし、楽しみだし、死にたくないなあと思うし、生まれてよかったなあと思う。

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