最近の思考

自転車を乗り回しているときほど、
なぜか直感を受け取る。
物理的に行動するということは、オルゴールの取っ手を回すように
大事なことなのだと思う。


子がほしがって植えたエンドウ。
つるが宙をさまよって、拠り所を探していたので
わかるように伝う場所まで誘導する。
すると、反して逆の方に行き、また、誘導してやる。
と繰り返していたところ、どうにも掴まない。
あきらめて放置していたら、ついに自分で探し当てた。


しっかりつるが絡みついている。
自分自身で掴むことが、大事だ。
人も同じである。
人に言われたから、組織から決められているから、では
いつまでも自分の主体がない。
同じ先につかまるとしても、自分自身の意思の体験として
得た結果であることが、本人にとって財産である。
エンドウは、日々教えてくれる。



グラスフェッド、であることに深く興味を持ったのは
プライス博士の読み物からである。
ストレスの少なさと、日光の恩恵が良いのかもと漠然と思っていた。
ビタミンK2の豊富さから、豊かな成長へと導かれる。
満たされた栄養は、心身ともに健やかな成長を遂げる。

栄養、というものは、科学的に人が解明してきた分類である。
私は、それは序章でしかなく、その先があると感じている。
人として生きていく。
両親の栄養を満たせば、完全な子が生まれるのか?
それは不可能である。
人として生まれている以上、不完全である。
完全、というのは、神の領域である。
(神という言葉は全く都合のいい言葉である。源、サムシンググレートなど言い方はいくらでもある。)

今の名前を得る前の行動の結果が、心身に出ている。
そして、今の名前を得た後の行動が、拍車をつける。
それを、今のまま、栄養だけでなんとかしようと考える人もいる。
栄養を、薬や医療行為と置き換えても、同じだ。
パワーが強い行動によって、結果的に改善や寛解に行きつくこともある。
カルマによっては、不治の場合もあるが。
人の心身というものは、千差万別だ。
元素の配分がもとより違う。
ある人にこれが効いても、ある人には効かない。
ある人にこれは効かなくても、ある人には効く。
人体に成分表表記がない以上、やってみないと、わからないことだらけだ。
その成分が効いたのか、果たしてその行動が効いたのか、
はたまたダシャーのタイミングなのか、恩恵があったのか。
行動、実践は大切だ。
きっかけによって、変容し、精神性が上がる人もいれば、
頼る先を外に決めていて、いつまでも繰り返す人もいる。



私は、治療家になりたいわけではない。
ただ、青臭く、よくしたいという気持ちはある。
病を治す。
ただ単純に、それはいいことなのか、そうではないのか、わからない。
最近特に、疑問を持つ。

精神性の向上なしに、治った先には。
困難の事象は、かつて病んでいた場所を変えての病、
もしくは人間関係や行動の事象に代わるだけでは、と考えてしまう。
その人の課題が、何を通して経験するように計らいがあるのか、
人にはわからない。
外に求め、内をみることを知らず。
戦後の教育の限界を知りながら、あえて見直さない。
染まった世代の価値観を常識とされ、
公園の葉っぱも千切らせてもらえない子がいる世代。
室内で過ごし、外での遊び方がわからない子がいる世代。
幼少期からの主体的な体験の獲得が阻まれ、
結果が目に見えてわかる行動ばかり、毎日させている所もある。
どこで、豊かな精神性を身に着けられるのだろう。
どこかで、修正がはいることもあるだろう。


『大きくなってからの修正は、痛みを伴う』
子の習い事の、先生が言っていた言葉だ。
これは、精神的な痛みということであるが、
いわゆる病気も同じだと思う。
精神に出るのか、身体に出るのか、出る先が違うだけの話である。
思考の偏りは、結果として目の前の何かの事象に出る。



治るかどうかは決めるのは本人もしくは全知の管轄だ。
治すという表現ではなく、意識の向きを変える、という表現がいい。
実践には知識が必要だが、知識には実践が必要だ。
周囲の環境から得た向きでは、いつまでも揺られて掴まれない。
エンドウを見習いたい。



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