プラン75(の感想というよりは最近思ったことのただの記録)

気になっていた本作をようやく観終わった。
ブクログの方に書いてもよかったけど、純然たる作品の感想というよりは、
話がいろんなところに飛びそうだったのでこちらを選んだ。

本作は相模原の障害者殺傷事件を彷彿とさせる描写から始まる。
障害者施設で働く私にとって、あの事件はいろんな意味で衝撃であった。
施設で働くといっても、いわゆる直接処遇職員(直接関わり合いのある仕事につく人)ではないため、そういった意味においても
私はおそらく、世間と犯人の、ちょうど半分のところにいるのではないかという気がしている。
世間ほど綺麗事は言えず、だがまた、世間ほど無関心ではない。
施設で働いている以上、世間一般の人よりは障害を持った方(特に事件の被害者の方のような重症心身障害者の方々)に接する機会は多く、
そのご家族や、周りの環境、そういったものに触れる機会も多い。

だが、ある日、息子が熱性痙攣で救急搬送された。
その日はとても暑い日で、テレビでも熱中症の危険性が連日報道され、
息子が泡を吹いて痙攣している、という旦那からの連絡を受けた時真っ先に熱中症であると思い込み、
最悪の事態を想像しながら搬送された病院に向かった。
ここでいう『最悪の事態』とは、脳に何らかの後遺症が残り、障害児となってしまうということだ。
あれほど、障害者の方々やその家族と触れ合い、心を通わせていたにも関わらず、
その時、私が心から願ったことは『ああはなりたくない』であった。

これに似た葛藤が、高齢者問題にも、障害者の事件に関してもあるのではないだろうか。
この葛藤を抱もせず、遠い距離を保ちながら偽善に走ることは、
極端に言えば犯人と同類であると、個人的には思っている。

施設で働き始めて少しした頃、いつもニコニコして毎日のように我が子に面会しに来ていたお母様が言った言葉。
『何度一緒に死ねたら楽なのにと思ったか知れない』
胸を突かれたような思いがした。
当事者ではないことを、その偽善を、全て見抜かれたような思いがした。

あの事件以降、貪るようにして障害者関係のドキュメンタリーを観ている。

重度の障害を持った娘を自宅で介護してきた、とても気丈で、明るくて、元気なお母さんが、
その娘の将来を不安に思い、夜中、泣きながらもう1人の娘(健常者)に電話している。
もう1人の娘には(障害を持った娘のことは気にせず)自分の人生を生きてほしいと願いながら、それでもこの子のために近くにいて欲しいと懇願している。
『本当だったら近くの温泉入りながら孫の面倒見るよくらいの、気楽な母子だったらいいのにとか思っちゃう。
何でこんなことお願いしてんのかな。』
子供のように泣きながらそう言う。

生まれつき障害を持って生まれてきた子供を受け入れられず、育てることを放棄してしまった親から子どもを引き取り、新しい家族へと繋げる活動をしている牧師さんの話も観た。
母の愛情のこもった記録に溢れた母子手帳は、生まれた日から白紙だ。
同じ養子縁組でも、障害児を、という人のあまりの少なさ。
生まれてから一度も母に抱かれたことなく、施設のベッドで暮らしている子供。
養子縁組の当日、『やはりもう一度育ててみたい』という生みの親からの連絡。

こういった葛藤の中からしか見えてこないものがある。
いや、はっきりした答えなんて見えるものじゃない。
この葛藤を『感じつづけること』
当事者ではない私たちが、白でも黒でもない葛藤を抱えながら生きること。

そのようなものを、感じさせてくれる作品であったように思う。
あくまでも、何を思うかはこちらに任せられている感じ。

ただ、そういった意味では、もっと高齢社会の影響なり、いわゆる『老害』的な描写ももっと入れてもいいのかなと思った。
高齢者施設もあまりに綺麗に平和に描かれすぎているし、
最後の病院も、きっと本当にああいった施設ができたとしたら、
もっと吐き気がするくらいのそれこそ『偽善』に満ち満ちた施設になると思う。
さもそれが良いことであるかのような、『安らかに』逝けるような施設に。

それにしても賠償千恵子さんの演技は素晴らしかったなぁ。
最後の終わり方も好きだった。

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