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平凡な殺意を読んで

今月の「新潮」に掲載されている、村田紗耶香さんの「平凡な殺意」を読んだ。
まさに、まさしく、私が最近考えていたことだったので震えた。
とはいえ、今回は表現の自由について述べたいのではない。
「他殺願望」についてだ。

最近、大きな事件が二つ起きた。
一つは、京王線で起きた事件。
もう一つは、北新地で起きた放火事件だ。
こういった事件は、定期的に、しかも数多く起きている。
池田小の事件や、秋葉原の事件などもそうだ。
こうして今思いつくだけでも片手では足りない。

けれど、報道されるのはそのショッキングな犯行詳細や犯人の人物像のみで、
犯人の生育環境や犯行動機(供述しているものではなく、犯行に至る心の傾きのようなもの)についてはほとんど触れられないのが現状だ。
ましてや犯人(または犯人予備軍)の心のケアなんて考える方が不謹慎、といったような風潮である。
だが、このあいだ(私が知る限り)はじめて、夕方のニュースで「他殺願望者の心のケア」について語られているのを見た。
運転しながらだったのでうろ覚えだが、いわゆる「お悩みダイヤル」のような機関に取材し、
自殺願望ではなく、他殺願望についての悩み相談などは来るのか?というものであった。
それによると、「数は少ないが、ある」ということであった。
ただ、「誰かに危害を加えたい」という欲求自体が、憚られるべきものであるため、
そのまま抱え込んでしまう人が多いのではないか、という。

私はそれを見て、救われたような気になった。
ようやく、本当にようやく、少しずつだが、世間が「加害側」に目を向けてくれだしたのだと。

私は昔から「なぜ人は人を殺すのか」ということに興味を持っていた。
それは、薄暗い愉楽のようなものではなく、もっと真摯な、ある意味素朴な疑問からだ。
その始まりは神戸の連続児童殺傷事件である。
彼は私と全くの同い年、同じ学年であった。
自分と同じ年齢の子供が、人を殺し、殺すだけでなくあれほどの恐ろしい犯行におよんだという事実が、私を文字通り打ちのめした。
しばらく、テレビは見られなかった。
あの犯行予告の手紙を見ることは、今でも難しいくらいだ。

人は、未知の恐ろしいものに出会うと、なんとか理由をつけて自分を納得させたくなる生き物なんだと思う。
それから私は被害者の父親の書籍や、加害者の母親の書籍、彼がどんな治療を受けたかが書かれた書籍などを
何かに突き動かされるように読んだ。
もちろん、彼の書いた書籍も読んだ。(これがある意味一番価値のない書籍だった)

それをきっかけとして、気づけばこの世の中に無数に存在する事件の
「加害者側」に強く関心を寄せるようになっていた。
そして、加害者側について知れば知るほど、その距離の近さに驚いた。
特に子を持ってからは、虐待事件の加害者の気持ちに寄り添えるまでになった。
もう私にとって今や、加害者は未知のものではなくなったのだ。

そういう意味でも、村田さんのエッセイ(であろうと思う)のタイトルは秀逸だ。
そう、殺意なんてものは「平凡」なものなのだ。

エッセイの中で、村田さんが殺意を抱いた理由は「殺さなければ殺される」からだ。
これは、なにも肉体的な意味ばかりではない。
むしろ日常的に、私たちは「精神的に」殺し、殺されている。
所謂ところの「ハラスメント」と社会では言われているようなものも含まれる。

自分の力ではもうどうにもならない時、
もう逃げ場がなく、追い詰められた時、
朝、起きるのが途轍もない苦痛を伴う時、
このまま目覚めてしまわなければいいのにと人は願う。

あるいは、あいつ死ねばいいのに、と。

あるいは、みんな死ねばいいのに。
あるいは、この世なんてなくなってしまえばいいのに。

こういった状態に、人生で一度は、誰しもがなり得るのではないだろうか。
かくいう私も、もう何度もこの手の感情は抱いてきたし、今後もきっとまたどこかで抱くことになるだろう。

こういった時、もうひとつ強く唸る感情がある。
それが、「圧倒的孤独感」だ。

私なんていてもいなくても同じ。
私のことなんて誰も理解してくれない。
私の声なんて誰にも届かない。
全てがどうでもいい。
自分もどうでもいい、全部全部どうでもいい。

自殺願望と、他殺願望(拡大自殺、と言った方がここではいいのかもしれない)。
この二つの根っこは、全く違うものだろうか?
ひとえに自殺といっても、ケースバイケースであるのは当たり前だが、
大元は、とりわけ「孤独」というあの大きな黒い渦のような感情は、共通のものなのではないか。

そうであれば、自殺願望者と同じようなケアが、他殺願望者(あるいは拡大自殺願望者)にとっても必要なのではないだろうか。
というか、なんの罪もない被害者が少なからず出る可能性のある後者の方がより、緊急性・必要性ともに高いのではないだろうか。

まぁとはいえ、「ひとりじゃないよ、みんな、だれかをころしたい」とか
「ナイフを置こう、受話器を取ろう」とかいう標語がそこらじゅうに貼られている社会もなんだかへんてこな気はしますが。笑

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