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<裵奉奇さんを記憶する -朝鮮半島の分断を超えて->

朴金 優綺(在日本朝鮮人人権協会事務局員)

韓国の日本軍’慰安婦’問題研究所が発行しているWebマガジン”キョル”から記事を翻訳してお届けします。

キョル
http://www.kyeol.kr
原文はこちら
http://www.kyeol.kr/node/133

裵奉奇さんの願い

「行きたいけど、行けないさぁ」

数十年間離れたきり、今も夢に見る生まれ故郷、忠清南道・新礼院。日本人記者から一緒に行こうと誘われた彼女は、そう言いながらぼろぼろと涙を流した。そして、こう続けた――「だって、向こうにも米軍基地があるじゃない」。
6歳の時に一家離散し、小間使いとして働き続け、結婚・再婚後も夫が働かずに家を出た裵奉奇さんは、29歳の時に咸鏡南道・興南で「口を開けて寝ていたらバナナが落ちて口に入る」という「女紹介人」の言葉にだまされ、1944年に沖縄・渡嘉敷島へ連行された。「アキコ」という名前で呼ばれながら、他の6名の朝鮮女性と共に日本軍の性奴隷を強いられ、米軍による空襲と艦砲射撃が繰り返される中、飢えに苦しみながら戦火を生き延びた。
1945年8月の日本軍の武装解除後は、米軍の捕虜となり収容所に入れられるも、そこから逃げて沖縄中を放浪した。言葉もわからず、知人もおらず、お金もない中、酔客相手の「サービス」・野菜売り・空き瓶集めなどをしながら、「どこへ行っても落ち着かん」と、日本軍の地下足袋を手に沖縄中を裸足で歩き続けた。
在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)沖縄県本部の専従活動家であった金賢玉さん、金洙燮さん夫妻が1975年に裵奉奇さんと出会った当初、彼女はしきりに「友軍[筆者注:日本軍のこと]が負けて悔しいさぁ」と話した。戦争中よりも戦後にひとり生きたことが「もっとつらかった」。幼い頃に一家離散したのも、日本軍の「慰安婦」にされたのも、異国の地で孤独に生きたのも、すべて自分の「パルチャ(運命)」だと漏らした。そんな裵奉奇さんに金さん夫妻は、裵さんの経験は運命などではなく、朝鮮を植民地にして多くの朝鮮女性を軍の「慰安婦」にした日本のせいだと説明したが、日本人にも朝鮮人にもだまされ続けてきた彼女は、その言葉をすぐには信じなかった。

朝鮮の言葉も食物も忘れ、さとうきび畑の中にひっそりと建つ物置小屋で暮らしていた彼女は、戦争の後遺症を患い、他人を激しく忌避した。「慰安婦」とされた過去が知られて近所の子どもたちから石を投げられると、那覇のあちこちを歩きまわって「ナヌン チョソンサラミダ(私は朝鮮人だ)」と叫びまくった。部屋の中では片手鍋を出刃包丁で叩いてわめき、頭痛を抑えるためのサロンパス(膏薬)を切るハサミで自分の首を突き刺したい衝動にも駆られた。
誰もが裵奉奇さんをせいぜい数回訪ねては「帰れ!」と断られてその後の訪問を諦めた中で、金さん夫妻は粘り強く訪ね続けた。そうして裵奉奇さんと出会って1年ほど経った頃、金さん夫妻は裵奉奇さんと初めて一緒にドライブに出た。沖縄の海や空を初めて「観光」した裵奉奇さんは「コヒャンサラミ チョッタ(くにの人が良いねぇ)」と嬉しそうに言いながら、沖縄のソバを美味しそうに頬張った。その後、裵奉奇さんは自ら金さん夫妻を外出に誘うようになり、少しずつ自身の過去も語るようになった。
こうして裵奉奇さんは1977年4月、朝鮮新報社の取材を受ける決意をし、自らの被害を『朝鮮新報』上で初めて詳細に告発した。「地獄だったよ、この世の地獄だった(지옥이요, 이 세상의 지옥이였소)」と語るその口からは、沖縄戦で強制労働に従事させられた朝鮮人軍属の記憶も語られた。

それから10数年、裵奉奇さんと金さん夫妻は毎月一緒に朝鮮料理や焼肉を食べながら親子のように過ごし、気づけば彼女は「やっぱり朝鮮人は朝鮮のもの食べんとだめさねぇ」と話すようになっていた。金さん夫妻と共に沖縄の人々とも交流し、朝鮮戦争のことやその際に沖縄から米軍機が出撃したこと、その加害者性に基づいて米韓軍事演習や朝鮮半島の分断に反対する沖縄の人たちがいることなどを、ゆっくりと認識していった。
そして1988年、ソウルでのオリンピック開催を迎えて、知人の日本人記者が裵奉奇さんの故郷に一緒に行こうと提案したところ、朝鮮半島の地図上の故郷を指さしていた裵奉奇さんは、途端に涙を流しながら話したのだという。生まれ故郷よりも長く住んでいる沖縄には巨大な米軍基地がある。自分の故郷にもまた米軍基地があり、朝鮮民族は南北に分断されたままで、帰ったとしてもどうすることもできない。朝鮮が統一して、外国の軍隊が出て行ったときに帰るんだ、と――。「統一するよ。統一して一緒に帰ればいいさぁ」と金洙燮さんが言ったとき、裵奉奇さんはこっくり頷いてようやく泣き止んだ。

1989年には世界青年学生少年祝典参加のために林秀卿さんが平壌の飛行場に降り立つ姿をテレビで見て「ほんとに嬉しいさぁ」と涙を流し、昭和天皇・裕仁死去の報に接した際は裕仁に「謝ってほしいさ」とこぼし、朝鮮語で「ウォンスルル カッパダルラ(かたきを討ってくれ)」と繰り返し語り始めた。1990年に朝日関係が改善したことを何よりも喜んだ。「統一したら3人で一緒に帰ろうね」と金さん夫妻と合言葉のように言い合いながら、1991年10月、裵奉奇さんは自宅で静かに息を引き取った。金学順さんが日本政府を相手に提訴する、ちょうど49日前のことだった。
裵奉奇ハルモニの追悼式(1991.12.6/金賢玉・提供).この日は偶然にも金学順ハルモニが日本政府を提訴した日だ。 金学順ハルモニはこの追悼式に弔意金を送った。 沖縄県知事、那覇市長も花を送った。


裵奉奇さんを記憶する「4.23アクション」

筆者が金賢玉さんから上記の話を聞いたのは2012年のことだった。被害証言や関連書籍を通じて裵奉奇さんの存在を知ってはいたものの、単なる「被害者」ではない、息遣いまで聞こえてきそうなかのじょの人間的なエピソードを聞いたのは初めてのことだった。また、そのような裵奉奇さんを支え、心の交流を行ってきた人々が、金賢玉さんたち朝鮮総聯の専従活動家であったことも初めて知った。
金賢玉さんは当時、筆者にこうも語った。

「裵奉奇さんは晩年にはすでに、朝鮮がなぜ植民地にされ、南北に分断されたのか、自分の人生は運命なんかじゃないんだ、日本の植民地政策によるものであり、国を奪われた民はこうなるんだということを、自らの力でしっかりと飲み込んで体で理解していたように思います。裵奉奇さん自身が、私の言うことではなく自らの体験や見聞をもって人権を自分で取り戻した。これが一番大事なことだと思います」

「私が裵奉奇さんと過ごした日々のことは何も自慢げに言う話ではありません。私たちは、裵奉奇さんが『慰安婦』だったからではなく、同胞であったから共に過ごしたのです」
生前の裵奉奇ハルモニと金賢玉さん(1987年/金賢玉さん提供)

聞き取りを終えた頃、気づけば筆者は嗚咽していた。「友軍が負けて悔しいさぁ」と言わせるほどに裵奉奇さんを「皇国臣民」化した日本帝国主義の暴力、「戦後がもっとつらかった」と語らせ、故郷に「行きたいけど、行けないさぁ」と涙させた東アジアの冷戦と朝鮮半島の分断。米軍基地が存在し続ける沖縄への構造的差別と暴力。しかしこの構造的暴力に抗うように、金さん夫妻との出会いと交流を通じて自らの被害を客観的に認識し、世界に向けて初めて告発し、「謝ってほしいさ」「統一したときに帰るんだ」と、裕仁の謝罪と朝鮮半島の統一を希求するに至った裵奉奇さん。そして、深い同胞愛をもって彼女と共に生きた金さん夫妻。そのすべてを知らずに生きてきた自分をただ恥じ入った。

その後、筆者が専従活動家として属する「在日本朝鮮人人権協会(人権協会)」の会報である『人権と生活』に、金賢玉さんから聞き取った内容をほぼすべて反映した長文インタビュー記事を掲載したが、それだけでは裵奉奇さんの半生を間接的に聞き取った者としての責任を果たすには不十分だと感じていた。もっと多くの人々が、特に裵奉奇さんと同じ在日朝鮮人が、彼女の存在を知り、記憶し、その遺志を継いでいかなければ、彼女の存在は再び闇に埋もれたままになってしまうのではないかという強い危機感を覚えた。また、その頃はちょうど第二次安倍内閣が発足し、日本軍性奴隷制に対する日本の国家責任を否定し、サバイバーの尊厳を傷つけるような言説が日本の政治家たちから噴出していた時期でもあった。

裵奉奇さんの存在をより広く知らせ、日本軍性奴隷制の国家責任否定の論調が吹き荒れる日本の状況に抵抗するには何をするべきか。そこで思いついたのが、裵奉奇さんの証言が『朝鮮新報』に掲載された4月23日を記念して、日本軍性奴隷制に関する日本の公式謝罪や法的賠償を求めるスタンディング・デモを行うことであった。「日本軍性奴隷制の否定を許さない4.23アクション―裵奉奇ハルモニを記憶して―(일본군성노예제 부정을 용서치 않는 4.23액션-배봉기할머니를 기억하며-)」と銘打ち、2015年4月23日、日本の国会議員会館前で裵奉奇さん・金学順さん・朴永心さん・李桂月さん・金福童さん・宋神道さんら6名の証言を読み上げ、日本の公式謝罪・法的賠償を求めてシュプレヒコールを叫んだ。

「4.23アクション」の主催は、日本軍性奴隷問題を含む、性や民族に基づく差別や暴力についての学習会を開催してきた人権協会の「性差別撤廃部会」とした。急ごしらえのアクションだったが、約80名の参加者中、10~20代の在日朝鮮人学生が多数を占め、金さん夫妻や韓国挺身隊問題対策協議会(当時)からも連帯メッセージが送られ、かつて沖縄の地で裵奉奇さんと交流のあった国会議員・糸数慶子さんも参加し発言を行った。参加者全員で「日本政府は被害者たちに謝れ!(일본정부는 할머니들에게 사죄하라!)」「日本軍性奴隷制の否定を許さない!(일본군성노예제 부정을 용서치 마라!)」「朝鮮民族の尊厳を守ろう!(조선민족의 존엄을 지키자!)」「歴史否定、絶対反対!(력사부정 절대반대!)」「公式謝罪!法的賠償!(공식사죄!법적배상!)」などのシュプレヒコールを朝鮮語と日本語で叫んだ。

なお、この「4.23アクション」の取材がきっかけとなり『ハンギョレ新聞』は2015年8月8日、1面に大きく裵奉奇さんの写真を掲げ、特集「私たちが忘れた最初の慰安婦証言者 …その名、裵奉奇(우리가 잊어버린 최초의 위안부 증언자…그 이름, 배봉기)」を掲載した。
2015年4.23アクションを日本国会議員会館の前で開いた(2015年/出典:在日本朝鮮人人権協会の性差別撤廃部会)10-20代、在日朝鮮人大学生たちを中心に約80人が集まって、日本政府の公式謝罪、法的賠償を要求した。

朝鮮半島の分断を超えて

その後も性差別撤廃部会は4月23日を記念して、裵奉奇さんだけではない日本軍性奴隷制の被害を受けたすべての人々を記憶し、日本軍性奴隷問題の克服を目指すイベントを毎年行っている。2016年には土井敏邦監督が「ナヌムの家」でのサバイバーたちの日常を記録した映画「“記憶”と生きる」の上映会を催し、2017年には李杏理さん、筆者、金美恵さんをパネラーとして、韓日「合意」の問題点を確認し、朝鮮民主主義人民共和国における被害者や裵奉奇さんに焦点を当てたシンポジウム「日本軍『慰安婦』問題と朝鮮半島の分断~不可視化される被害者を見つめて」を開催した。

2018年には日本軍性奴隷問題をテーマにした朝鮮学校生徒たちのアート展、梁澄子さんのトーク、Gisaengさんと金成樹さんのミニライブ、きむきがんさん・洪美玉さんの演劇「キャラメル」を織り交ぜた複合イベント「いま、日本軍性奴隷問題と向き合う~被害者の声×アート(지금 일본군성노예문제를 마주보다~피해자의 목소리×예술~)」を二日間開催し、在日朝鮮人や日本人、韓国からの参加者がのべ400名以上来場した。

今年は「4.23アクション」開催5周年を迎え、「朝鮮民主主義人民共和国における日本軍性奴隷問題~朝鮮半島の分断を超えて~(조선민주주의인민공화국의 일본군성노예문제~조선반도의 분단을 넘어서~)」と題し、植民地朝鮮の遊郭と慰安所をテーマとしたお話を金栄さんからいただく予定だ。また、朝鮮半島における脱・分断への機運がいつになく高まっている状況を受けて、日本軍性奴隷問題の克服と朝鮮半島の平和統一を願うメッセージを記した蝶々型の折り紙を世界中から集め、朝鮮半島の地図上に貼り付けて大きな統一旗を作成するパフォーマンスも予定している。北南朝鮮からもたくさんの蝶々が届くことを願っている。
裵奉奇さんのいまだ叶わぬ願いを受け継ぎ、日本軍性奴隷問題の克服と朝鮮半島の平和統一に向けて今後も精一杯尽力していきたい。

朴金 優綺(在日本朝鮮人人権協会事務局員)


朴金 優綺 (ぱくきむ・うぎ/wooki park-kim). 在日朝鮮人3世。人権活動家。在日本朝鮮人人権協会 事務局員。朝鮮大学講師。歌手。朝鮮学校差別問題をはじめとする在日朝鮮人の人権問題や日本軍性奴隷問題の克服のための活動を行っている。国連主催〈マイノリティフォーラム〉において日本初のパネリストとして在日朝鮮人子弟の教育権に関する布告をした (2017年)。論文として 〈北海道における朝鮮人強制連行・強制労働と企業「慰安所」〉, 〈現代日本における「上下」からの差別と排外主義――朝鮮学校への差別、ヘイトスピーチ・ヘイトクライムと国連の是正勧告〉, 共著《「慰安婦」問題の現在》, 《ヘイト・クライムと植民地主義―反差別と自己決定権のために―》などがある。

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