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かりそめの春(2000字のホラー)

 ついに、私にも春がやってきた。
 地味で華のない私にとって、初めての経験だ。
 注目されるというのは、こんなにも心が躍るものなのか。

「足立先生、鍵盗られたのこれで何度目? 警察には相談したの? あそこの交番のお巡りさん、新人だけど真面目でいい青年だよ」
 私の連絡を受けた管理人の大久保さんは、マスターキーで玄関の扉を開けながら心配そうに声をかけてきた。
「あ……五度目です。お巡りさんて蒲田さんですよね? 盗難届を出した時、親身に話は聞いてくれたんですけど、やっぱり事件になってからじゃないと警察としては動けないみたいで」
「まあなぁ。で、部屋の中どう。荒らされてるとか、無くなった物とかない?」
 ワンルームの部屋を一通り見渡しても、今朝家を出た時の景色と何ら変わりはない。
「大丈夫みたいです、ありがとうございます」
「そうかい。しかしこうも続くと薄気味悪くてたまらんな」
「帰りはなるべく俺が送るんで、安心してくださいね、足立先生」
 私の隣に付き添い、頼もしい言葉をかけてくれたのは、同じ中学校の教師である荒川先生だ。事情を話してからこの一ヶ月間、ほぼ毎日私を自宅まで送ってくれている。
「あ、成田さん来たみたい。こっちこっち」
 大久保さんが手招きをすると、一台のバンがマンションの前で止まった。車から出てきたのは鍵屋の成田さんだった。私からの連絡を受けて、大久保さんが予め話を通してくれていたらしい。

 マンションの鍵が初めて無くなったのは、三ヶ月前のことだった。
 進路相談や保護者面談に疲れ果て、ようやく帰宅したその日の夜。カバンをいくら漁っても部屋の鍵が見当たらなかった。どこかで無くしたとするならば学校か、通勤途中しかありえない。学校では私物から離れる時間が長いため、そこで盗まれた可能性が最も高いのだけれど、当時の私にはもう一つ思い当たる節があった。毎朝、満員電車の中で、同じ風貌の男から不自然に体を押しつけられていたのだ。痴漢かと疑い、さり気なくカバンでガードしていた。
 もし、あの男が私のカバンから鍵を盗んだのだとしたらーー。
 ほぼ毎日のように見かけるということは、通勤路が同じで、自宅の最寄駅を知られているかもしれない。帰りに待ち伏せをしてそこから後をつければ、自宅を特定するのは容易な事だ。
 最悪の事態を想像した私は顔面蒼白になりながら、マンションの管理会社に電話をかけた。すると管理人である大久保さんが駆けつけてきて、そこで鍵が無くなった経緯を伝えた。大久保さんは私を安心させようと、必死で慰めてくれた。まずは鍵を取り替えた方が良いと提案され、言われるがままに鍵屋を呼んだ。それが成田さんだった。以来、いつも鍵の付け替えを担当してくれている。
 成田さんは車から工具箱を取り出して、手際よく玄関の鍵を付け替え、私に新品の鍵を手渡した。
「終わりましたよ。はいこれ、新しい鍵です。それにしても心配ですね。若い女性の一人暮らしだし」
「足立さん!」
 声の方を振り向くと、自転車のヘッドライトが目に入った。最寄りの交番に勤務する蒲田さんだ。これまで何度か相談をしていて、最近はマンションの周辺を頻繁に巡回してくれている。
「蒲田さん、来てくださったんですか」
「ええ、巡回してたら足立さんちの前に人が集まっているのが見えたので。またですか……気味が悪いですね。盗難届はどうしますか?」
「いえ、部屋の中も見たんですけど、今回もやっぱり鍵を盗まれただけみたいですし、もう新しい物に付け替えてもらったので」
 そこへ苛立ちを隠しきれない様子の荒川先生が割って入った。
「ちょっとお巡りさん、呑気な事言ってないでもっと真剣に考えてくださいよ。これだけ頻繁に鍵盗まれてるのに被害が無いってことは、当然鍵が変わってる事に犯人も気付いてますよ。痺れを切らして手荒いやり方に変えてくると思うんですけど」
「そ、それはそうかもしれませんが」
 気迫に押され後退りした蒲田さんに、荒川先生がさらに詰め寄る。
「行きの電車内で盗んで複製を作って、帰りにカバンに戻されたら、もう新しい鍵だって意味がない。いつでも侵入できるって事ですよ。いい加減、不審者の一人や二人、見当つかないんですか?」
 そう言って荒川先生は蒲田さんを捲し立てた。
「僕だって二十四時間体制で警護したいですよ。でも警察に出来る事は限られていて……」
 管理人の大久保さんも成田さんも、蒲田さんに冷ややかな視線を向けながら「何とかならないのか」と詰め寄っている。

 ーーそうか。そろそろ、何か盗まれたことにしないと。

 最初に鍵を無くしたのは事実だった。電車にいた痴漢らしき男も、今はもう見かけなくなっていた。
 あの一件以来、私を気にかけてくれる人が一気に増えた。鍵を無くせば心配される。男性の注目を集められるのだ。
 家の片隅には、無くした事にした鍵たちが宝石箱の中で静かに眠っている。
 男性たちが言い争う様子を眺めながら、私はえもいわれぬ喜びが表情に出ないよう、必死で堪えていた。


【終】

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