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明治憲法史

Chapter 1
「明治憲法=ドイツ憲法の受け売り」というイメージ
今日でも、明治憲法はドイツ流の欽定憲法主義を基調として、強力かつ広範な天皇大権を定めた外見的立憲主義の憲法であるという評価は一般にも流布し、学会でも根強い。
明治憲法が自由民権運動と対峙する中で、憲法制定のモデルをドイツ(プロイセン)に求めていたのは当時からの世評で、明治政府の確固たる指針でもあった。
明治憲法制定後の日本の憲法学会も、ドイツ憲法学の継受に尽力しており、明治憲法にドイツの影響が色濃く刻印されていたことは疑いようのない事実である。

ナショナリズムの時代
共和制か、民主制かという政体上の違いはあっても、立憲主義を採用している以上、統治の原理に大きな差異はない。専制主義を排し、国民の権利を保障するという大原則を立憲国家は共有している。
19世紀はナポレオン戦争の波及に伴い、西欧各国において国民意識の覚醒が進み、政治や経済といった公共性のあらゆる局面で国民国家化が進展したナショナリズムの時代である。
戦後ドイツを代表する法制史家ヘルムート・コーイングは19世紀を「ナショナルな法典編纂の時代」と呼んでいる。コーイングによれば、この時代は古代ローマ法の継受を通じて、旧来のヨーロッパが一つの法的統一体を形作っていた時代とは一線を画し、国民国家単位で法形成が成し遂げられたという意味で、ヨーロッパ史上、極めて特異な時期とされる。この時代を彩るのが、各国が独自に編纂、制定した各種の法典である。
19世紀を通じて、ヨーロッパ諸国で制定されていった憲法は国民の政治的解放シンボルとなっていたことが指摘できる。それは、専制主義や絶対主義を排し、国民の政治的地位の向上が保障されたことに留まらない。ナショナリズムの台頭する時代において、憲法は国民の政治的独立を国内外に宣明する政治的文書でもあった。

constitutionという言葉の持つ意味
憲法の原語であるconstitutionという言葉には、日本語の憲法の他、事物の成り立ちや構造という意味を有している。国家のconstitutionには、国の全体的統治の仕組みや組織構成というものが考慮されるべきである。
憲法学者の佐藤幸治は国際政治学者の高坂正尭の「憲法と拙く訳されているconstitution」の訳語としては、「司馬遼太郎の“国のかたち”がもっとも適切だと私は思う」との言葉を引用し、同意している(佐藤幸治『憲法とその“物語”性』有斐閣、佐藤幸治『日本国憲法と「法の支配」』有斐閣)。
constitutionには「国のかたち」、すなわちその国の全体的な統治のあり方や仕組みという制度の側面、それを構想し、運営する実践政治の側面が含意されている。

ウェスタン・インパクトの時代
19世紀は東アジアにとってウェスタン・インパクトの時代であった。東漸する西洋文明の衝撃に突き動かされ、日本も開国を遂げ、明治新政府の下で文明開化に邁進する。憲法もそのような文脈で把握することができる。だが、立憲制度という西欧的な政治システムを明治の指導者は何のためらいもなく、受容したわけではなく、欧米との文明的対峙の中で熟慮の上で決定し、慎重に推し進められてきた国家運営上の大計であった。
つまり、立憲制度の観点からは明治憲法の成立は、西欧文明との邂逅と交渉、その受容と同化という一連のプロセスとして捉えることができる。

Chapter 2
岩倉遣欧使節団の目的
①欧米文明の視察
②列国への聘問
③明年に迫った条約改正交渉の延期願い
④条約改正の基盤づくり
⇒日本の今後のあり方について、欧米先進諸国から虚心坦懐に教えを乞い、国家としての制度改革の指針を決定し、条約改正のための基盤を作るという意味で、岩倉使節団は憲法調査のために派遣されたということができる。

万国公法(列国公法)
「万国公法(列国公法)」は国際法のことである。しかし、今日の主権国家間の法的取り決めを基礎とする国際社会のルールという定義を超えて、当時は新時代のスローガンのように唱えられていた。それは西洋文明そのものであり、明治の日本が目指すべき国家目標として語られていた。
開国後、欧米を主体とする新たな国際秩序への参入を余儀なくされた日本は、再び大国による徳治とその傘下の小国群という旧来の秩序のイメージが存在し、使節団の明治指導者は日本を庇護してくれる新しい徳の存在を信じて疑わなかった。
万国公法が体現する徳とは、「文明」と呼ばれるものであり、当時の国際法は「文明国基準」というものを設定し、その適用に与る国を選別していた。万国公法の適用という恩恵を受けるためには、ヨーロッパ文明によって認知された文明国である必要があった。

久米邦武『米欧回覧実記』
(1)西欧政治思想の二大特質
「法理」(社会規範)と「道理」(道徳)の分離
道徳的な配慮は度外視し、国民の利益活動を対内的に促進し、対外的には保護する。利益獲得競争から生じる種々の社会的弊害を理由として干渉や規制を加えることは、政治の優先課題とはならない。
個人の「自主」(自律)
⇒東洋の徳治の伝統とは全く異なる、個人の利益保護のための権力政治が、西洋文明を貫く論理であり、欧米の隆盛の根幹となっている。

(2)憲法を制定するナショナリズム
国際政治の本質は「太平ノ戦争」であり、この争いに勝利を収めるために、人々は国家を構成する。利益競争のために、自律した諸個人が協力し、共同社会を形成する。共同社会の最たるものが国家であり、愛国心=ナショナリズムが必要になる。
なぜ、「政体法規」(憲法)を定めるのか。それは、憲法を通じて、国民の独立心の涵養と一体化を図り、自立した個人を生み出し、国力を高めるためである。国民統合の基軸が憲法であり、憲法の制定はナショナリズムの制度化という文脈で捉えることができる。

(3)憲法に求められる政治的伝統
西洋は同一の政治文化を共有していたが、歴史の中で異なる国民性を形成している。使節団は、その現実を目の前にして、「開化の順序」に関心を向けるようになった。そして、進歩とは旧習の徒な廃棄ではなく、伝統を維持しながら、漸進主義で進めるべきことに開眼した。憲法の制定も、拙速な模倣は斥けられ、日本の政治慣行を温存、促進していく必要がある(政治的伝統の制度化)。

維新二傑の憲法論
(1)木戸孝允の憲法論
木戸孝允は西洋体験を通じて、皮膚上の開化ではなく、骨髄からの開化が必要であるとし、開化に皮相の成果ではなく、その精神を問題とするようになる。国家の独立と富強は、統治者の下に国民が結集しているところでよく保障されていると、憲法は国民統合の基軸として位置付けている。天皇の英断と政府有司で国民を徐々に文明へ善導すべきであるとし、「独裁の憲法」を提唱するが、その独裁は国民の信認に支えられるものである。その本質は国民の政治的開化を促し、その権利を保障する政治システムであり、国民の自律を基盤に、国家の独立を全うし、将来的には君民同治の立憲君主制を想定している。

(2)大久保利通の憲法論
大久保利通はドイツの大宰相であるビスマルクから、文明と万国公法の本質が勢力の競争と均衡に他ならず、小国がその渦中で独立を保つためには赤裸々なパワーに頼る以外に道はないことを学び取った。そして、国力を高め、独立を保全するためにも、憲法を制定するという結論に至った。国の政治の仕組みは時勢と国民性に応じた自然の進化のプロセスに則ったものでなければならず、憲法もまた同様である。内地を優先し、国家の基盤を定める延長線上に憲法の制定を位置付ける。憲法の内実という点においては、君主独裁を説く木戸に対し、大久保が唱えるのは君民共治である、漸進的に立憲国家を目指す点においては共通している。

万国公法から憲法へ
岩倉使節団の指導者たちが目にしたのは、文明のヴェールをまとって展開される国力の放恣な増強と競争という西洋政治の現実であり、一国の法や主権は国家の富強という裏付けなくして維持できないという冷徹な論理であった。この現実に直面した使節団の指導者たちは、「万国公法から憲法へ」と視座の転換が余儀なくされた。すなわち、万国公法への純粋な信頼を捨て、国力の充実による国際競争力の増進を図るという方向への路線変更である。このようにして、西洋体験を経て、明治国家の目標は過酷な国際環境の中で生き残るための国力の充実に定められ、法的なフレームワークとして、憲法制定が至上命題とされた。

Chapter 3
憲法調査以前の伊藤博文は、立憲指導者として木戸・大久保の後継者としての立場でありながら、急進的な国会開設論とその国会を中心とするイギリス流の議院内閣制を提唱した大隈重信、プロイセン流の超然的君主権を政治の中心として、欽定憲法体制、皇室典範、憲法典二分論(典憲体制)、前年度予算執行主義など、後の明治憲法体制で採用される原則を提示した岩倉具視・井上毅の狭間で、リーダーシップを取りあぐねている状況であった。憲法調査は伊藤の主導権を奪回するための起死回生の機会であった。

ベルリンのグナイスト
憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストは、近代ドイツを代表する法学者であるフリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーが樹立した歴史法学の立場を取っていた。歴史法学では法は恣意的な国家の立法ではなく、言語や習俗と同様に国民精神の力で自生的で作られる。国家の立法はそのようにして生成された法を追認する形で遂行されるべきものであると考える。グナイストは「憲法は法文ではなく、精神である」と説き、日本が憲法を作るなど百年早い「銅器に鍍金」をするようなものだと見做していた。

予算審議権を付与すべからず
国家予算の審議権は西欧議会制度の重要な権限であり、当時の日本でもその点は十分に了解されていた。しかし、ドイツ憲法学の権威であるグナイストはそのような議会の本質的な職務を剝奪せよと勧告した。その理由として、国会に国家財政に与る権限を認めれば、政府の歳入歳出が安定しなくなり、国家は停滞し、君主制の廃位と共和政治への移行を招くとしている。ドイツ皇帝もグナイストと同様の警告をしているが、議会の予算審議権についての見解は、日本の立憲政治に対する懐疑に根差した投げやりな放言ではなかった。当時のドイツは、議会の懐柔を基調とする妥協路線の破綻に直面しており、決然とした信念に基づく助言であった。

憲法は花、行政法は根
駐独公使青木周蔵は渡欧後の伊藤に、憲法を花と例えれば、行政法は根であり、幹である。いずれの国でも、憲法制定に先立ち、完全な行政法を制定するように努めるのが常であり、今回の憲法調査も憲法のみならず、行政法の研究が必要であると助言した。ここで、伊藤は憲法を補完する行政法という重要な視座を得た。そして、憲法と行政をつなぎ合わせ、統一的な国家像を獲得することに関心が向けられた。憲法と行政を包摂する全体的な憲法体制を構想することで、初めて独自の立憲思想を獲得でき、憲法制定作業における主導権を回復できるという確信を得たのである。

ウィーンのシュタイン
国家学者ローレンツ・フォン・シュタインは、国家学という学問体系の下、法学、経済学、行政学、社会学、教育学などの社会科学の全領域を網羅する分野で業績を積み重ねてきた百科全書的知識人であったが、専門分化と実証化の進行する学会の趨勢で前世代の遺物として疎んじられており、自分の学問が故国で受け入れられないというルサンチマンの狭間に立っていた。日本への自説の伝播を望んでおり、日本について様々な情報を得ることに務めていた。一方、伊藤もシュタイン訪問によって、憲法調査への自信を取り戻しており、ウィーンの憲法調査は伊藤にとって重要な分岐点になった。

シュタイン独特の国家論
シュタインの国家観を特徴づけるのは、国家を一個の人格と捉える独特の有機体論である。国家の自己意識を具現化する機関としての君主、国家の意思を形成する機関としての立法部、国会の行為を司る機関としての行政部であり、シュタインの立憲制とは、これらの三機関が相互に独立しながらも、互いを規律し、調和を形成する政体である。各部が暴走した場合、君主は「専制君治」(専制君主政)、立法部は「民政専圧」(絶対民主政)、行政部は「専理者」(独裁政)と規定し、立憲政治と対立するものとして区別している。

議会と君主に対する批判と国家建設の役割を担う行政
特に警戒を促すのが立法部=議会であり、民主主義は議会の専横を容易に導き、立憲政治を覆す危険性を含むものであるとし、民主主義の過激化、共和主義、国会政治に対し、繰り返し批判を行っていた。
君主は立法部と行政部に対して特別の権力を持たない存在であり、君主は行政や立法の過程を通じて決定されたことを裁可(是認)し、国家としての意思や行為の統一性をシンボライズすることに留めるべきとする。明治憲法体制をプロイセン流の君権主義の範疇で捉え、シュタインについても天皇制国家のイデオローグとみなす傾向が一般的であるが、シュタインの国家論には「君臨すれど統治せず」の原則が明示されている。
国の統治作用を担うものとしてクローズアップされるのが行政部=官僚であり、高い自律性を確保することが国家建設の新しい課題として強調される。現実社会が日常的に引き起こす対立や矛盾の解決にあたって、君主による専断は恣意に流れて危険であり、議会の立法活動は往々にして無力であり、現実の動きに即応して、日々の問題を処理し、実際の秩序形成に貢献すべきものが行政であるとしている。

明治憲法体制への展望
伊藤はシュタインの講義を通じて、憲法を相対化し、国家の政治体制をより広い見地から把握するに至った。憲法や議会は本来、国家の一部を構成するに過ぎず、行政の補完があって初めてその機能を完遂できる。このように憲法体制の全体像についての認識を獲得したことは、伊藤に立憲指導者としての資質を付与するものであった(坂本一登は伊藤を「立憲カリスマ」と呼ぶ(坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』吉川弘文館))。それまで、憲法について十分な知識を持たず、憲法制定の主導権を把握できずにいた伊藤は、大隈を頭目とする在野の反政府勢力、政府部内の官僚知識人をも凌駕したとの自信を胸に日本に帰国する。

シュタインの憲法論の換骨奪胎
伊藤がシュタインから多大な影響とインスピレーションを受けたことは事実だが、全てを鵜吞みにしたわけではなかった。伊藤は議会政治が機能不全を起こす様子を目の当たりにしながら、健全な議会制度を備えた立憲国家を作るために考えを巡らした。
①国民なき議会制度は機能しない。議会が階級な民族などの政治イデオロギーにより分裂しないためには、国民精神という支柱が必要であり、その涵養が立憲国家には不可欠である。
②議会を外から補完するシステムが必要である。議会政治の不安定性を認識しつつ、日々の政治的業務を円滑に進めるための行政部=官僚の存在、議会政治が破綻した際にそれを救済する君主の存在を学んだ。
⇒議会制度を支える内外の条件を整備し、漸進的に議会政治を日本に定着させていくというのが伊藤のビジョンであり、シュタインの憲法論の換骨奪胎といえる。

Chapter 4
立憲カリスマの制度改革
帰国後、伊藤はただちに憲法の起草に着手しなかった。立憲政治とは単に憲法の制定によって実現されるものではなく、その前提として行政制度を始めとする国家諸機関、為政者と国民の意識をそれに見合ったものに作り変えなければならないことを体得していた伊藤は様々な制度改革を進めていった。
(1)伊藤は宮中に設置された制度取調局の長官に任ぜられ、そこを拠点に種々の制度改革に乗り出す。宮内卿にも就任した伊藤は宮中改革にも携わり、宮内省の整備と皇室財政の自立を進めた。宮中を政治から自立した空間として構築し、天皇と政治との直接的つながりを断とうとした。宮中と府中の別を確立することで、天皇の立憲君主化を促進した。
(2)官制の大改革により、太政官制度が廃止され、近代的内閣制度が導入される。これにより公家支配も終止符が打たれ、国家指導の地位は形式上広く国民に開かれることとなり、天皇に責任を負いながらも、そこから自律した政治執行部が確立した。
(3)立憲政治を支える行政には、近代的官僚とそのリクルート・システムが必要であった。国家体制との連関が強く意識された帝国大学が設立され、文官試験試補及見習規則・官吏服務紀律が制定され、立憲国家を行政的に支える官僚養成システムが形成された(中野実「帝国大学体制」(中野実『近代日本大学制度の成立』吉川弘文館))。
(4)憲法や皇室典範などの国家基本法案の審議のために、枢密院が開設され、伊藤は初代の枢密院議長に就任した。枢密院は立憲君主制の要諦としての意義があり、伊藤は議会と政府が対立した際の天皇の政治的決定権を指摘している。そのための顧問団として枢密院を考案されているが、イギリス流やプロイセン流にも阿らない独自の制度であった。枢密院の創設により、天皇の政治活動も明確に制度化され、天皇の立憲君主化が促進された。

明治日本のconstitution
国家諸制度が改革・創設された後、明治22(1889)年2月11日、憲法典が公布された。この日は憲法のみならず皇室典範の制定も告げられ、議院法、衆議院議員選挙法、会計法、貴族院令などの憲法付属法も公布された。大日本帝国憲法のみが憲法の名称が冠せられているが、実際はこれらの諸法令が一体となり、明治日本のconstitutionが構成された。国家基本法という次元で論じるならば、これらを一体として捉える必要がある。日本は近代的な皇室、議会、内閣といった制度的外観を整え、立憲国家として歩み始めた。

統合とシンボル
明治憲法は強大な天皇大権を定め、天皇が統治を総攬するという天皇主権を謳っているが、起草者伊藤博文の真意は別のところにあった。伊藤の志向していたのは、制限君主制であり、政府と議会の共同作業として政治が行われることであった。
憲法によって、国の最高規範が定立された意味は大きく、時局に応じて恣意的に発せられてきた諸法令が憲法という基準に従い、それとの整合性を常に意識して定められることになった。国家は憲法を頂点とする法体系として構築されることになった。
対外的には、憲法の発布は文明国参入への意思表示であり、条約改正を悲願としていた当時、憲法は文明国のシンボルと考えられていた。対内的には、憲法を通じて国民が国の統治に影響を及ぼす可能性が保障され、その政治的エネルギーが国政の場に反映されることになったという意味で、憲法は国民国家のシンボルであった。

Chapter 5
ボトムアップ型秩序形成
憲法発布後、地方行政制度という明治日本のconstitutionを調査するため、内務大臣山県有朋は渡欧する。山県に対して、グナイストは国家の秩序形成のあり方を講話した。グナイストは、国家の秩序はフランス的な上意下達式のトップダウン型ではなく、ドイツ的な下からの積み上げ式のボトムアップ型で形作られるべきとしている。ここから窺えるのは、グナイスト講義の民主的側面であり、上からの官主導の行政が排され、地域に根差した自治が称揚されている。地域の名望家を中心とする自治が強調され、道路や橋の補修、治安、救貧などの諸問題を取り上げ、町村を単位とする地域社会の自主的で独自の行政処理が推奨された。

開発独裁論
グナイストは地方行政論では民治的議論を展開したのに反し、国会開設を時期尚早と警告し、政府に自由を与えて国の進歩を推し進めるべきであると官治的議論を展開した。山県に対するグナイスト講義のもう一つの特徴は、政府の強大な権限と行政の効率を求める開発独裁論であった。他方で、政府のモラルを力説し、政府は善政を布くことを使命とすべきとしている。

ウィーンのクルメツキ
オーストリア・ハンガリー帝国の政治家ヨハン・フォン・クルメツキは、来る国会開設を睨んだ実務的・実用的な政治対策を山県に与えた。それは議会の反政府化を防止する方策、政府による議会対策の政略と法制であり、クルメツキは政府は議会と気脈を通じる一方で、国会の手綱は常に政府が握るように努めなければならないとした。

急進過激派への対抗策
国会は西洋文明のひとつのシンボルと捉えられるが,山県は議会の急進過激派により国家が蹂躙されるかもしれないという危惧を抱いていた。その対抗策が、治安立法による民党の取り締まり、地方制度の確立、強靭な内閣の樹立(一致協和するため内閣職権から内閣官制への制度改編)であった。そして、国家秩序のあらゆる局面で、山県が思い描く良民(孝忠を旨とする非政治的な臣民)を配置することで、立憲政治の制約を導くことが山県のビジョンであった。

Chapter 6
外から見た明治憲法
伊藤の側近である金子堅太郎は発布された大日本帝国憲法と伊藤博文が編集した公定注釈書『憲法義解』の英訳を携え、各国の政治家や学者から憲法の批評を問うために欧米巡遊の途に就いた。明治憲法のドイツ的側面を賞賛するか、イギリス的側面を評価するかの違いはあったが、いずれの論者にも憲法自体には太鼓判が押された。そして、日本の歴史的伝統と西洋の立憲主義との絶妙なブレンドの賜物であるとも賞賛された。

漸進主義の立憲論
立憲主義の眼目は君主・議会・行政という国家の三機関は調和に置かれ、各部が政治的に突出しないよう、諸制度を設置することにある。そのために伊藤は天皇の立憲化のための様々な措置、行政システムの近代化といった諸法制を考案し、それらを綜合した明治日本のconstitutionを創設した。伊藤にとって憲法秩序とは、憲法典の発布によって確定されたものではなく、時勢の進展に合わせて漸進していくものであった。

明治維新という神話への回帰
立憲政治を推し進めようとする伊藤を人的・制度的に掣肘したのが山県であった。伊藤の国家観が社会の変化に応じて、変容していく柔軟なものであったのに対して、山県の国家観は国家体制への不動性を求めるものであった。山県は憲法の制定がもたらす混乱から維新の大業を守らなければならないと考えたように、山県の思考は明治維新という神話に回帰していくものであった。

求心力と遠心力
明治憲法体制は体制内部に相反する勢力を内包しながら出発した。一つは明治憲法への求心力で、もう一つは明治憲法への遠心力である。前者は明治憲法体制における伊藤的なものであり、後者は山県的なものと言い換えられる。伊藤が憲法を制定し、議会制度を導入することで、国民の政治的糾合を図り、将来的には議会と政府の協働による立憲政治を志向するのに対し、山県は中央・地方の官界や軍部などに自らの閥族を配置し、教育勅語の初等教育への浸透を通じて、立憲政治からの隔離を画策する。伊藤の中では、行政部や君主制などの議会制度以外の国家諸制度は、全体として立憲制度を構成するものとして、有機的に結合していた。これに対して山県は議会以外の諸機関の自律化を進め、立憲制度そのものを相対化しようとする。明治日本のconstitutionはこの二つのファクターの潜在的葛藤を含んだものとして成立し、両者のせめぎ合いの中で、展開・変容していく。