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インフレ論

Chapter 1
グローバリゼーションの終焉
▲ブラックロックCEOラリー・フィンクは、ロシアのウクライナ侵攻で我々が過去30年にわたり経験してきたグローバリゼーションは終わりを迎えたと株主に向けてコメントした(「CNN」2022年3月25日)。
▲EUジェンティローニ欧州委員は、ウクライナ危機は我々の知っているグローバリゼーションの終わりを意味すると発言した(「欧州委員会講演」2022年4月21日)。
▲経済学者ポール・クルーグマンは、我々は1914年(鉄道、蒸気船、電信ケーブルによる第一次グローバリゼーションが終焉した年)の経済的な再現を見ていると言ってよいと指摘した(『タイムズ』2022年3月31日)。
▲リベラル派の経済学者ロバート・カトナーは、ハイパーグローバリゼーションは死んだ。中国の台頭、サプライチェーンの崩壊、新型コロナウイルスのパンデミック、ロシアのウクライナ侵攻、超自由貿易は主に金融エリートのために設計されたということがやっと認識されるようになったことで、殺されたとしている(『アメリカン・プロスペクト』2022年5月31日)。
▲グローバリストの経済学者アダム・ポーゼンは、ウクライナ侵攻とそれに伴う経済制裁はすでに進んでいるグローバリゼーションの溶解という巨大なインパクトを持つプロセスを加速させるだろうとしている(『フォーリン・アフェアーズ』2022年3月17日)。

グローバリゼーション=貿易、投資、人、情報、技術、思想の国境を越えた移動が活発化する現象

グローバリゼーションの進展度合いは世界の貿易開放度(世界のGDPに占める輸出入の合計の比率)で推計可能。
1870年 17.6% 第一次グローバリゼーションの進展。
1913年 29%  第一次グローバリゼーションは翌年の第一次世界大戦で終焉。
1945年 10.1% 世界恐慌や第二次世界大戦で低下。戦後、世界経済が再統合され、上昇。
1980年 39.5% 1980年代以降、新自由主義が台頭、規制緩和や自由化が進む。冷戦終結後、グローバリゼーションは急速に進展(第二次グローバリゼーション=ハイパーグローバリゼーション)。
2008年 61.1% 第二次グローバリゼーションは金融危機で頓挫し、グローバル化の逆行(デ・グローバリゼーション)、鈍化が始まる(スローバリゼーション)。

グローバリゼーションの終わりの始まりは2008年の金融危機であり、2020年の新型コロナウイルスのパンデミックや2022年のロシアのウクライナ侵攻は進展していたスローバリゼーションに追い打ちをかけたに過ぎない。

リベラル覇権戦略の破綻
グローバリゼーションは歴史の潮流や市場経済の原理によって自然発生的に起きず、国家の政治的意思に基づく戦略の産物である。19世紀後半からの第一次グローバリゼーションは覇権国家である大英帝国が創造し、1990年代以降の第二次グローバリゼーションはポスト冷戦のリベラル覇権戦略を取ったアメリカが創造したものである。

▲リベラリズム 民主主義や貿易の自由などの普遍的な価値観を広め、国際的なルールや国際機関を通じた国際協調を推し進めれば、平和で安定した国際秩序が実現するという理論
▲リベラル覇権戦略 非民主国家の民主化や貿易の自由化を推進するには、他国に民主化や貿易の自由化を強いる覇権国家のパワーが必要である。また、リベラルな国際秩序や国際ルールを策定し維持するためにも、覇権国家の存在することは不可欠である。そのため、リベラリズムはその理念を実行する段階で、必然的に覇権国家と結び付き、「リベラル覇権戦略」として現れる。

(1)リベラル覇権戦略の地政学的失敗
◆ジョージ・W・ブッシュ政権は2003年、イラクや中東の民主化を掲げて、イラク戦争を起こしたが、中東のパワーバランスが崩壊し、混乱した中東では民主化を進める状態ではなくなった。
◆冷戦終結後のアメリカは中国のWTO加盟に協力したが、2001年にWTOに加盟した中国は2000年代に年率10%の成長率でGDPを拡大させ、そのGDPを上回る比率で軍事費を増加させた。その結果、中国は軍事的侵攻の意志を隠さないようになり、習近平政権は権威主義体制を強めるに至った。
◆1990年代以降、アメリカはNATOの東方拡大を推し進めた。2014年にはウクライナでクーデターにより親米政権を樹立させたことで、ロシアは刺激され、クリミアを奪取した。ウクライナのNATO加盟が視野に入ったことで、2022年にはロシアによるウクライナ侵攻が始まり、ヨーロッパ周辺の地政学的情勢は著しく不安定化している。

(2)リベラル覇権戦略の経済的失敗
◆金融市場のグローバリゼーションは、金融資産バブルを発生させ、膨張する債務に依存した形で、消費が拡大し、経済成長を牽引するが、バブルが崩壊することで終わった(アジア通貨危機、ITバブル崩壊、リーマン・ショック)。
◆労働市場のグローバリゼーションは、先進諸国の国内労働者の雇用を奪い、所得格差を拡大する。中国の自由貿易で雇用を奪われたアメリカ国民は、中国の敵視し、米中対立を深刻化させ、保護主義を招いた。EUの東方拡大は東欧からの低賃金労働者を流入させ、イギリス国民の賃金を押し下げ、イギリスのEU離脱を決定させた。

⇒アメリカの軍事力に安全保障を委ねる日本は、2008年頃にはリベラル覇権戦略が破綻した世界を見据えた国家戦略へ転換すべきであったが、2010年代でも防衛費を抑制し続け、東アジアで中国の軍事的台頭を抑止できない状態となっている。

日本が防衛費を抑制し続けてきた理由
▲変動為替相場制の下で自国通貨を発行する日本では財政破綻することなどはあり得ないにも関わらず、財政破綻を懸念し、安全保障よりも財政健全化を優先させたため。
▲TPPへの参加などに見られるように、自由貿易が平和をもたらすというリベラリズムのイデオロギーを信仰していたため。

⇒リベラル覇権戦略の破綻は食料、原材料、エネルギーを容易に手に入れられたグローバリゼーションの時代の終焉を意味したが、日本は食料自給率が低いにも関わらず、TPPで食料安全保障を弱体化させるとともに、電力システム改革で電力供給を不安定化させ、エネルギー安全保障を脅かしていた。

Chapter 2
2021年から2022年にかけての高インフレは、およそ40年ぶりと言われるように、1970年代末から1980年代初頭までの高インフレ以来であった。アメリカでは1989年4月~1991年5月、2008年7月~8月にかけて、一時的に消費者物価上昇率が5%を超えたことがあったが、それ以外の時期は物価は低位で安定していた。2008年の世界金融危機以降のおよそ10年間、先進諸国経済の問題はむしろインフレにならないことであり、低インフレ、低成長、低金利が続く「長期停滞(secular stagnation)」に陥っているのではないかという議論が盛んに行われていた。日本についてはさらに極端で、1998年以降、およそ四半世紀にもわたり、デフレから抜け出せなくなっていた。

インフレとデフレ、インフレの種類
◆インフレは「需要過剰/供給過少」の状態で、デフレは「需要過少/供給過剰」の状態。
インフレは「デマンドプル・インフレ」と「コストプッシュ・インフレ」に大別される。インフレの主な原因が需要の増大にある場合は「デマンドプル・インフレ」供給の減少にある場合は「コストプッシュ・インフレ」とされる。
◆マイルドなデマンドプル・インフレは、需要増→供給増→需要増のインフレスパイラルで経済が成長する資本主義経済の正常な状態である。
◆デフレは需要減→供給減→需要減のデフレスパイラルで経済が縮小・停滞し、資本主義経済が機能停止している異常な状態である。
◆コストプッシュ・インフレは供給不足による物価上昇により、実質賃金が下がり、消費が縮小し、需要が縮小するというプロセスで不況を発生させる。不況とインフレが同時発生するスタグフレーションは、コストプッシュ・インフレと同義である。

デマンドプル・インフレ 需要過剰で物価が持続的に上昇する現象
例:景気の過熱が引き起こすインフレ、戦争による軍事需要の急拡大。
メカニズム① 労働力不足→賃金上昇→所得増加→消費拡大→物価上昇(健全な経済成長)
メカニズム② デマンドプル・インフレ→物価上昇予想→財やサービスの確保→物価上昇(期待インフレ)
メカニズム③ 資産価格上昇期待→財やサービスの確保→物価上昇(バブル)

デマンドプル・インフレは需要が供給能力を超えて増大している状態であるため、需要を削減して供給能力を超えないようにする政策を講じる必要がある。
対策① 政府が財政支出を削減して、公共需要を減少させる。
対策② 増税や利上げを行い、民間需要を減少させる。

コストプッシュ・インフレ 供給減少で物価が持続的に上昇する現象
例:産油国の輸出制限、油田の枯渇などに起因する原油価格の上昇、凶作よる食料価格の上昇、関税や禁輸措置による輸入価格の上昇、自然災害による供給設備の破壊、疫病による労働者不足、少子高齢化による労働力不足、独占・寡占企業による一部の財やサービスの価格引き上げ、政治力の強い労働組合の賃上げ要求、自国通貨安による輸入材の高騰、戦争による供給設備・社会インフラの破壊、徴兵・戦災による死亡による労働力不足等。
メカニズム① 供給制約(資源不足・生産手段の不足・労働力不足)→財やサービスの不足→物価上昇
メカニズム② コストプッシュによる物価上昇→実質賃金の低下→労働組合の賃上げ要求→利益確保のため、企業による財やサービスの値上げ→物価上昇(政治力の強い労働組合の賃上げ要求)
メカニズム③ 財やサービスの供給不足→独占・寡占企業の価格交渉力の上昇→利益確保のため、企業による財やサービスの値上げ(財やサービスを供給する企業の価格引き上げ)
メカニズム④ 自国通貨の下落→輸入価格の上昇→物価上昇(自国通貨安による輸入材の高騰)
メカニズム⑤ 政治的要因による供給制約→財やサービスの不足→物価上昇(政情不安、戦争)
メカニズム⑥ コストプッシュ・インフレ→物価上昇予想→財やサービスの確保→物価上昇(期待インフレ)

コストプッシュ・インフレは供給能力が減少して、需要を満たせなくなっている状態であるため、供給能力を増大させて需要を充足させる政策を講じる必要がある。要するに、財政支出の拡大を必要とする。
対策① 石油危機が原因であれば、新規の油田開発や石油に代わるエネルギーの開発が必要になる。食糧危機が原因であれば、食料生産の拡大が必要となる。
対策② エネルギーの開発や食料生産には長期間を要するため、即効性を求めるのであれば、エネルギーや食料に関する課税や関税を軽減する。
対策③ 徹底的な合理化により、効率性を高め、生産性を上げることで、供給制約を緩和する。特に抜本的に生産性を上げるためには、交通、通信、電力などのインフラ整備、研究開発、人材の育成などが必要である。
対策④ こうした対策のうち、石油代替エネルギーの開発、食料生産の拡大、インフラの整備、研究開発、人材の育成などは、大規模・長期的・計画的な公共投資、民間投資に対する・助成・支援がなければならない。

2021年9月、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者17人が公開書簡で、インフラ整備、クリーン・エネルギー開発、研究開発、教育などに対する財政支出の拡大を支持した。こうした積極的な公共投資こそが「長期のインフレ圧力を緩和する」と書かれている。財政支出の拡大は、供給能力が完成するまでの間は投資需要を拡大するのであるから、インフレをさらに高進してしまうリスクはあるが、一時的なインフレの悪化を甘受した後、供給能力が完成すれば、インフレが終息するだけではなく、経済成長も実現する。

Chapter 3
2021年インフレの要因 
新型コロナウイルスのパンデミック下における
◆ロックダウンによる経済活動の抑圧
◆サービスからモノへの需要の代替
◆感染者の拡大がもたらした労働力不足、廃業
◆国際的な原油価格の高騰
◆テレワークやEコマース(ネット通販)などの需要拡大
◆ペントアップ需要(抑圧された需要の解放)
◆大規模経済対策(バイデン政権「米国救済計画」)
⇒ニューヨーク連邦準備銀行ジュリアン・ジョヴァンニは2019年から2022年にかけてのインフレのうち、60%が需要側の要因、40%が供給側の要因と推計。つまり、コストプッシュとデマンドプルが合わさった「複合インフレ」であるということができる。

2022年のインフレの要因 
◆ロシアのウクライナ侵攻による原油、天然ガス、小麦などの供給制約 が加わる。
⇒サンフランシスコ連邦準備銀行アダム・シャピーロは2021年から2022年にかけてのアメリカのインフレについて、その要因の半分以上が供給側の要因によるインフレ(コストプッシュ・インフレ)であると推計している。需要側の要因が大きな役割を果たしたのは2021年春のみで、それ以外のインフレについて、需要側の要因で説明できるのは3分の1程度に過ぎないとしている。とりわけ、2022年2月以降はロシアのウクライナ侵攻以降のインフレは、コストプッシュ・インフレの性格が強くなっている。

2022年のインフレに対し、FRBは急速な利上げで対応したが、2022年7月にIMFはインフレ対策として行われている利上げが経済を停滞させる可能性を指摘し、2023年の景気後退リスクは顕著であり、特にアメリカの景気後退は不可避であるという予測を示している。また、世界中の金融環境がタイトになり、借入れコストが上昇するため、ドル建て純債務を多く抱える新興国と発展途上国は通貨安や資本逃避を被り、債務不履行に陥る可能性を指摘している。IMF以外にも、世界銀行やUNCTAD(国連貿易開発会議)も利上げによる世界的な景気後退を懸念している。

金融引き締め政策は需要を抑制するものであり、景気を悪化させることになる。需要が供給能力を超えて拡大することで起きるデマンドプル・インフレの対策としては正しい。しかし、2022年2月以降のインフレの主たる原因はコストプッシュ・インフレであり、逆効果になる。

①コストプッシュ・インフレ下の利上げは家計や企業が犠牲となる。
②利上げにより、借入れコストが上昇すると、価格支配力の強い独占企業であれば、利益確保のため、価格を吊り上げる可能性がある。
③長期的に見れば、利上げにより企業の設備投資が減退すると、供給能力の拡大のための投資が行われないことになる。
④アメリカの利上げによるドル高は、アメリカ以外の国々の自国通貨安を招くので、アメリカを除く各国は、輸入財の価格高騰によるコストプッシュ・インフレに襲われることになる(アメリカによるコストプッシュ・インフレの輸出)。また、製造業のサプライチェーンや研究開発拠点を国内に回帰させる政策を妨げることになる。

1970年代と2020年代のスタグフレーションの違い
①原因
1970年代のスタグフレーションの原因は、第四次中東戦争とイラン革命である。
2020年代のスタグフレーションの原因は、ロシアのウクライナ侵攻だけではなく、米中貿易戦争、新型コロナウイルスのパンデミック、脱炭素政策、少子高齢化による生産年齢人口の減少、産業の空洞化、株主資本主義、金融資本主義、緊縮財政による影響などを挙げることができる。

②供給制約
1970年代のスタグフレーションでは、供給制約となったのは原油であった。
2020年代のスタグフレーションでは、供給制約となったのは原油、天然ガスに限らず、小麦などの食料、希少金属、希ガス、半導体、労働力など広範囲に及んでいる。

③人口
1970年代は人口増大の局面にあった。
2020年代は少子高齢化という労働力の供給制約が厳しくなっていく局面にある。

④経済成長
1970年代のスタグフレーション以前の先進諸国は経済成長を謳歌し、2度の石油危機を契機に高度成長は終焉し、安定成長期に入ったとされるが、それでも1980年代は3%程度の成長率は維持した。
2020年代は2008年の世界金融危機以降、先進諸国は長期停滞に見舞われており、2010年代後半は中国経済すらも成長が鈍化し、世界経済全体が停滞していたところに、新型コロナウイルスのパンデミックが発生し、ロシアによるウクライナ侵攻が勃発した。

⑤賃金
1970年代は労働組合の力が依然として強く、賃金は上昇局面にあった。物価上昇と賃金上昇のインフレスパイラルが発生していたため、インフレ対策として賃金の伸びを抑圧することが可能であった。
2020年代は労働組合の交渉力は弱体化しており、先進諸国の賃金の伸びは鈍い。

⑥グローバリゼーション
1970年代のスタグフレーションの後、1980年代からグローバリゼーションが始まった。グローバリゼーションにはインフレを抑圧する効果があり、中国が改革開放政策へと転換し、世界経済に組み込まれていき、世界経済に安価な労働力を供給したことは、インフレの抑制に貢献した。
2020年代のスタグフレーションは、2008年の金融危機以降のグローバリゼーションが鈍化していく過程で勃発し、ロシアによるウクライナ侵攻はグローバリゼーションの終わりを決定づけるものとなった。
⇒歴史的に見れば、グローバリゼーションとは、二つスタグフレーションの間に起きた現象と言える。

⑦地政学的環境
1970年代はブレトン・ウッズ体制の崩壊やヴェトナム戦争などが発生し、西側世界におけるアメリカの覇権的地位が低下し始めていた一方、G7体制が確立された時期であった。その後、米ソの緊張緩和、冷戦終結により、1990年代以降はアメリカの一極主義とグローバリゼーションが進んだ。
2020年代はアメリカ一極主義が終焉し、世界は多極化、無極化した状態となっている。ロシアによるウクライナ侵攻は地政学的不安定化の一例に過ぎず、東アジアにおける地政学的リスクなどはかつてなく高まっている。

◆1930年代の世界恐慌という金融危機と大デフレ不況
各国政府はケインズ主義的な積極的な財政金融政策でデフレを防ぐ手段を学び、それ以降、先進資本主義国は日本を除き、デフレを経験することはなくなった。

◆1970年代のスタグフレーション(コストプッシュ・インフレ)
インフレにより、地位を脅かされた既得権益層(富裕者層、金利生活者、投資家、金融機関)は新自由主義へのパラダイム転換を進めた。インフレの原因は政府による需要管理にあるとして、ケインズ主義は糾弾され、財政支出や金融引き締め策によるインフレ対策が主張されるようになった。
緊縮財政や利上げはデマンドプル・インフレの対策であったが、需要管理を主眼とする当時のケインズ主義からは供給制約に起因するコストプッシュ・インフレの対策は出てこなかった。新自由主義は政府に対する不信を煽り、インフレの原因をケインズ主義に帰した。

◆2020年代のスタグフレーション(コストプッシュ・インフレ)
2008年の世界金融危機でアメリカの経済思想の潮流は、主流派経済学ですら新自由主義からケインズ主義へと転換しつつあった。2021年後半から40年ぶりにインフレが進み始めると、主流派経済学者の間で、積極的な財政金融政策を巡り、再び対立が生じた。現在のインフレがケインズ主義の復活をもたらすのか、新自由主義の隆盛をもたらすかは未だ不透明である。

Chapter 4
◆内生的貨幣供給理論 銀行が企業や家計などに貸出すことによって、預金という貨幣を創造されるという貨幣理解。ポスト・ケインズ派
◆外生的貨幣供給理論 銀行に外部から通貨が供給されると、それに基づいて貸出しが行われ、預金がという貨幣が創造されるという貨幣理解。ヘリコプター・マネーの比喩が使われる。主流派経済学。

「貨幣循環理論(Monetary Circuit Theory)」
民間部門の貨幣循環
民間銀行は信用創造により無から貨幣を生み出す。民間銀行の貸出し(貨幣の創造)に必要なのは、借り手である企業の資金需要と返済能力だけである。
①事業を行いたいので資金が欲しいという企業の資金需要が存在する。
②企業の資金需要に対して、民間銀行が貸出しを行うことで、貨幣(銀行預金)が創造される。
③企業が事業を行うために支出する。
④貨幣は取引先の企業や従業員へ支給される。
⑤企業は収入により得た貨幣で、銀行に債務の返済を行い、貨幣(銀行預金)が破壊される。

⇒貨幣循環の過程から以下の重要な点を確認できる
 (1)支出が先、収入が後
 (2)企業の財源=企業の需要
 (3)企業の返済が貨幣を破壊する
 (4)全ての企業が完済すると、貨幣がこの世から消えてしまう

政府部門の貨幣循環
中央銀行は信用創造により無から貨幣を生み出す。中央銀行の貸出し(貨幣の創造)に必要なのは、借り手である政府の資金需要だけである。
①事業を行いたいので資金が欲しいという政府の資金需要が存在する。
②政府の資金需要に対して、中央銀行が貸出しを行うことで、貨幣(政府債務)が創造される。
③政府が事業を行うために民間部門に支出する。
④貨幣は民間企業や従業員へ支給される。
⑤政府は徴税して債務を返済すると、貨幣(政府債務)が破壊される。

⇒貨幣循環の過程から以下の重要な点を確認できる
 (1)政府支出が先、税収が後
 (2)政府の財源=中央銀行による貨幣創造
 (3)税は政府支出の財源確保の手段ではない
 (4)政府の財源(中央銀行による貨幣創造)=政府の需要
 (5)政府の徴税と返済が、貨幣を消滅する=財政健全化とは貨幣の破壊である
 (6)全ての企業と政府が債務を完済すると、この世から貨幣が消えてしまう

貨幣を正しく理解し、内生的貨幣供給理論に立脚すると、以下の結論を導くことができる。
①財政支出に税による財源確保は必要ない
②政府が財政赤字を計上しているのは正常な状態である

「現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)」
現代貨幣理論も貨幣循環理論と多くの共通する論理に基づき、同じような結論に達している。政府と中央銀行を一体として「統合政府」と見なし、財政支出と徴税の流れを貨幣循環理論と同じような「支出が先、徴税が後」という説明をしている。民間部門に貨幣を残し、取引や貯蓄の手段として流通させるためには「支出(貨幣供給量)>税収(貨幣回収量)」でなければならず、「財政赤字」は問題視する必要はない。紙幣が単なる紙切れではなく、貨幣として受け入れられ、流通するのは、政府によって納税手段として決められているためであると説明している(国定貨幣論)

▲固定為替相場制 政府は自国通貨との交換要求に応えるために、外貨を常に準備しておかなければならない。つまり、自国通貨の発行量には外貨準備という制約が課されている。
▲変動為替相場制 自国通貨と外貨の交換比率が固定されていないため、自国通貨を発行する政府は財政破綻(債務不履行)に陥ることはない。しかし、実物資源の供給量の制約は存在する。

変動為替相場制の下で自国通貨を発行する政府はいくら政府負債を積み上げても、財政破綻(債務不履行)に陥ることはない。つまり、予算均衡を目指す健全財政は無意味ということになる。そのため、現代貨幣理論は財政支出、課税、国債発行はそれらが失業、金利、物価など、経済社会に与える影響によって判断すべきとする機能的財政(経済学者アバ・P・ラーナーが提唱)に依拠すべきであると主張する。

◆ポスト・ケインズ派の経済学
内生的貨幣供給理論
「需要が供給を生み出す」
インフレとして、主にコストプッシュ・インフレを想定している
需要の増加により、人口や技術などの供給側の要因が強化されると想定

◆主流派経済学
外生的貨幣供給理論
「供給が需要を生み出す」(セーの法則)
インフレとして、デマンドプル・インフレを想定
経済成長は人口や技術などの供給側の要因によって決定されると想定

投資と供給能力
需要の増大→需給ギャップ(需要過剰/供給過少)の拡大→デマンドプル・インフレの発生→増大した需要が投資により供給能力を高める→需給ギャップ(需要過剰/供給過少)の縮小→デマンドプル・インフレの抑制→需要超過の解消により、企業の投資意欲は減退→需給ギャップ(需要過少/供給過少)が拡大すれば、デフレにもなる

経済学者ミハウ・カレツキーは投資の二面性に着目することで、景気循環のメカニズムを説明「支出とみなされる投資は、繁栄の源泉であり、投資が増加するたびにビジネスは改善し、さらなる投資の刺激となる。しかし、同時にあらゆる投資は資本設備の追加であり、それは旧世代の設備と競合するのである。投資の悲劇はそれが有益であるがゆえに危機を招くところにある。多くの人がこの理論は矛盾しているとみなすだろうことは疑いない。しかし、矛盾しているのは理論ではなく、その理論の対象、すなわち資本主義経済なのである

◆開発途上国
労働力や技術などの供給能力が脆弱であり、投資を可能とする制度や慣習が未発達
⇒需要に対して供給が追い付かなくなり、デマンドプル・インフレやコストプッシュ・インフレになりやすい。

◆先進国
労働力や技術などの供給能力が強固であり、投資を可能とする制度や慣習が発達
⇒高い供給能力がデフレを引き起こしやすいが、政府の財政政策によりデフレを解消することができる。政府が需要超過の状態を作ることで、民間の投資、労働力の増大、技術進歩が起こり、インフラ整備、技術開発、教育に予算が振り分けられることで、供給能力が増大する。

不況により需要の減少→失業者の増大(労働力の低下)、企業の設備投資の抑制→供給能力の弱体化→長期的な経済成長の鈍化

このような一時的な不況のダメージにより、長期の経済成長にも悪影響を及ぼすことを「履歴効果」(主流派経済学)という。FRB議長で主流派経済学者でもあったジャネット・イエレンは、「高圧経済」(high pressure economy/1970年代アーサー・オークンが提唱)を持ち出し、需要が十分にあって、労働市場がタイトな状態のインフレ気味の経済を作り出す必要性を訴えた。

※イエレンの議論は主流派経済学の需要側を無視した供給主導型の成長理論を大きく修正するものであり、主流派経済学者が積極財政による需要の拡大に、短期のみならず、長期の影響を認めたことは画期的であった。

財政拡大による経済成長
財政支出の伸び率は、名目GDPのみならず、実質GDPの成長率と強い相関関係を示している。財政支出の伸び率が最も低く、経済成長率も最も低いという不名誉な位置にあるのが日本である。日本以外の国々は、日本よりも財政支出の伸び率が高いが、デマンドプル・インフレを抑制できずに苦しんだ国は一つとしてもない(朴勝俊・シェブテイル『バランスシートでゼロから分かる財政破綻論の誤り』(青灯社)。財政支出の拡大が需要を増大させたが、同時に供給も増大し、高インフレになることを抑制したといえる。

ハイパーインフレの歴史的事例
▲第一次世界大戦直後のドイツのハイパーインフレ
▲第二次世界大戦中や終戦直後の日本の高インフレ
▲財政危機に陥ったアルゼンチンやギリシャで起きた高インフレ
▲ジンバブエのムガベ政権下で起きたハイパーインフレ

ハイパーインフレの原因
①社会的・政治的な混乱や内戦
②戦争などによる生産能力の崩壊
③徴税権力の弱い政府
④多額の外貨(あるいは金)による対外債務(非自国通貨建て債務)

①②③④はいずれもデマンドプル・インフレではなく、ハイパーインフレの実例のほとんどは供給制約によってもたらされたコストプッシュ・インフレである。

ポスト・ケインズ派はコストプッシュ・インフレを考慮に入れているが、コストプッシュ・インフレの原因は多種多様であり、コストプッシュ・インフレ対策は、ポスト・ケインズ派の経済理論から一律に導き出せるものではなく、コストプッシュ・インフレごとに異なる。しかも、戦争や気候変動がインフレの根本原因であれば、解決策は経済学の領域外になる。
コストプッシュ・インフレを克服するためには、個別の事象について固有の判断ができる実践的センスと、経済理論を超えた総合的・俯瞰的な知識が必要になる。コストプッシュ・インフレは、平凡な経済学者や経済政策担当者では手に負えない難物である。
自国通貨を発行する政府は、資金の供給制約から解放されているが、資源の供給には制約されている。実物資源の供給制約がコストプッシュ・インフレをもたらすが、資金の供給による実物資源の動員によりある程度は緩和することができる。これを明らかにすることで、ポスト・ケインズ派の経済学は、コストプッシュ・インフレ対策に多大な貢献をなし得る。

Chapter 5
世界的なリスクの高まり
アメリカ 国民の分断化と高インフレのリスク
EU 債務危機のリスクが高まり、ナショナリズムが先鋭化
中国 息詰まる中国経済とそのはけ口となる台湾有事

日本が取り組むべき最優先課題
安全保障の抜本的強化
①防衛力の強化
②経済安全保障の強化
 ⇒資源、エネルギー、食料、先端技術(半導体、人工知能、量子コンピュー タなど)、医薬品・医療機器、生活必需品などの安定供給の確保のため、サプライチェーンの再構成。ジャネット・イエレン財務長官の「フレンドショアリング」(生産拠点を友好国への移転)はその一環。
③公共投資の拡大、安全保障上の重要産業や重要技術に重点的な投資

グローバリゼーションが終焉した世界では、産業政策は従来のような国際競争力の強化ではなく、安全保障、防災対策、格差是正という戦略目的を達成するために行われる。マリアナ・マッツカートが提唱する「ミッション志向」の産業政策である。また、国内投資が旺盛で、国民の購買力が高い内需主導型の国が優位に立つ。政府が公共投資や減税などの財政政策により、内需を拡大しなければならず、「大きな政府」は不可欠となる。
「大きな政府」をファイナンスするための財源であるが、資金は信用創造によって原理的には無制限に供給できるのであり、日本、アメリカ、イギリスのように変動為替相場制の下で、自国通貨を発行する政府が債務不履行に陥ることはあり得ない。日本は実物資源の供給には制約されているが、資金の供給には制約されていないため、実物資源の供給の限界まで、政府支出を大きくすべきなのである。
金融政策に関しては利上げをするにはデマンドプル・インフレが前提であり、コストプッシュ・インフレに対して、利上げをもって応じてはならず、低金利を維持すべきである。

戦略的価格統制(インフレの原因となっている特定の財に限定して価格を統制する)
2021年12月、マサチューセッツ大学アマースト校イザベラ・ウェーバー准教授が提唱(英ガーディアン紙)。ジェームズ・ガルブレイスのようなポスト・ケインズ派の経済学者は支持したが、主流派経済学者はこぞって反対した。

ジョン・K・ガルブレイス『価格統制の理論』
売り手と買い手が限定的である不完全市場や独占市場では、価格統制が有効に機能し得ると論じた。
⇒独占企業は自社製品の価格決定を市場メカニズムに委ねておらず、自らコントロールできる。したがって、独占企業に代わり、政府が価格をコントロールすることは可能なのである。しかも、主流派経済学者ですら、市場の価格調整メカニズムが有効に機能するのは、完全市場の場合だとしている。不完全市場に限定した戦略的価格統制をタブー視する理由は本来であればないはずである。

価格統制の歴史的実例
◆二度の世界大戦や朝鮮戦争時のアメリカ
 広範な価格統制を行い、インフレの抑制に成功したが、終戦後、価格統制 が廃止されると、高インフレに見舞われた
◆リチャード・ニクソン政権下のアメリカ
◆第一次石油危機時の日本 国民生活安定緊急措置法 
 灯油やLPガスの価格統制
◆コロナ禍の日本 国民生活安定緊急措置法 
 マスクやアルコール消毒製品の購入価格を超える価格での転売を規制

価格統制は価格に影響を与えて資源を一定方向に動員する政策であるため、総力戦の手段として用いられる。戦後、平和回復による需要の急回復、生産能力の破壊による供給不足により、高インフレになることが多い。
第二次世界大戦の終結後、サミュエルソン、フィッシャー、ナイト、クズネッツ、スウィージー、ミッチェルなどの経済学説史上に名を残した一流の経済学者たちが、戦後も価格統制を継続すべしという要望をニューヨークタイムズ紙で表明していた。
歴史上の事例は、価格統制の有効性を必ずしも否定していない。

恒久戦時経済(the Permanent War Economy)
1944年、エドワード・サードはウォルター・J・オークスのペンネームで「ポリティクス」誌に「恒久戦時経済に向けて」という論文を寄稿。そこで、近未来における第三次世界大戦の勃発を予見しつつ、資本主義が雇用を望ましい水準に維持するには軍事支出による需要創出が不可欠だという、マルクス主義と軍事ケインズ主義を組み合わせたような議論を展開した。

現代貨幣理論の代表的論者で、左派のステファニー・ケルトンは『財政赤字の神話』の中で、かつて戦争遂行のために実物資源の動員を行ったような経済政策を、気候変動対策のために用いるべきだと主張している。これをマシュー・クレインは『財政赤字の神話』を「恒久戦時経済学(Permanent Wartime Economics)」と評している。
インフレにより、世界の政治経済秩序は著しく不安定化し、エネルギー、食料、水、重要技術、労働力が希少化している。政府は直接的に戦争に巻き込まれなくても、戦時経済のような規模及び深度で国民経済を管理しなければ、自国民の生存を確保できない環境になっている。