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外交論

Chapter 1 リアリズム外交

(1)国際政治の本質は古代ギリシア・ローマ時代から現在まで、常にアナーキー(真の強制執行力を持つ「世界政府」「世界立法院」「世界裁判所」「世界警察軍」が一度も存在しなかった無政府的な状態)であった。
このように無政府的で不安定な国際政治状況を少しでも安定させるため、世界諸国はバランス・オブ・パワー(勢力均衡)の維持に努める必要がある。西洋では17世紀半ばから(19世紀初頭のナポレオン戦争を例外として)第一次世界大戦まで、諸大国の外交家は意図的にバランス・オブ・パワーの維持に努めた。そのため、欧州諸国は大戦争の勃発を防ぐことができた。
(2)過去3000年間の国際政治において、世界中の国に共通する文明規範、価値判断、道徳基準は一度も存在しなかった。どの民族、どの文明の価値判断が正しいのか、ということを判断できるのは神仏のみであり、自民族中心的な思考のバイアスから逃れられない人間には不可能な行為である。
諸国は自国(自民族)の思想的・宗教的・文明的な優越性や普遍性などを口実として、他国に対して内政干渉したり、軍事介入したりすべきではない。そのような行為は、国際政治におけるバランス・オブ・パワーの維持を困難にするだけである。リアリズム外交に聖戦的・十字軍的な普遍的正義や好き嫌いの情緒は不要である。
(3)諸国の統治者は、国際法、国際組織、国際的な紛争処理機関、軍事同盟関係、集団的安全保障システム等の信頼性と有効性は限られたものであることを常に意識して行動すべきである。国際政治の行動主体はnation-state(国民国家)なのであり、国際機関や同盟関係ではない。
自助努力(自主防衛の努力)を怠る国家(=戦後の日本のような国)はいずれも国際政治の急変事態において脱落国や隷属国となる運命である。

Chapter 2 ビスマルク論

(1)傲岸な鉄血宰相の大変身
1860年代のビスマルクは、大胆・冷酷・狡猾な外交政策により、近隣のデンマーク、オーストリア、フランスをプロイセンと戦争せざるを得ない立場に追い込んでいった非情で好戦的な外交家であった。これらの三戦争に勝利し、ドイツ統一に成功したビスマルクは慎重で柔軟な反戦的(避戦的)な現状維持派に転身した。プロイセン宰相期(1862~1870年)のビスマルク外交と、ドイツ帝国宰相期(1871~1890年)のビスマルク外交を比べると、全くの別の人物が外交・軍事政策を行っているかのような印象を受ける。

ビスマルクのイメージ
◆欧米リベラル派やユダヤ系言論人 ビスマルクは不寛容で権威主義的なドイツ独特の国家主義を作った張本人であり、ヒトラーのような独裁者を生み出したドイツの不安定なポリティカル・カルチャーを作った男、無節操なオポチュニスト、冷酷非情なマキャベリストというイメージ。
◆保守派の言論人や国際政治学者 ビスマルクは軍事力を使うべき時と使うべきではない時を明瞭に峻別する能力を持つ稀に見る理性的なリアリストである。戦略家のジョージ・ケナン、ヘンリー・キッシンジャー、ケネス・ウォルツ(国際政治学のネオ・リアリズム学派の創立者)等はビスマルクをリアリズム外交の天才と絶賛している。

ドイツ連邦
中世時代から1871年までドイツは常にバラバラであった。ウィーン会議でドイツ圏の35の諸侯国と4つの自治都市をドイツ連邦という連合体にまとめることが決定された。この39か国の中で最も強い発言権を持つのはオーストリアとプロイセンであった。
ドイツ連邦は①ドイツ連邦共通の防衛政策を構築することで、周囲の列強によるドイツ侵攻を防ぐ、②ドイツ諸国の統一を阻止することにより、ドイツ民族が周囲の列強諸国に対する攻撃能力を獲得することを阻止する、③35諸侯国の君主制を維持して、ドイツ圏の自由主義・民主主義・民族主義運動を抑圧する、④17世紀からドイツ地域で最もアグレッシブな領土拡大策を実行してきたプロイセンをドイツ連邦の内部に閉じ込めておく、というものであった。
ドイツ連邦はクレバーな外交システムであり、この連邦の存在により、仏露両国がドイツ圏に侵攻できなくなり、ドイツ諸国が合併統合して新しい大国を創ることも阻止でき、プロイセンを封じ込めておくためにも有効に機能した。欧州の現状維持を望んでいたオーストリア帝国と大英帝国にとっても、実に便利な連邦制度であった。このドイツ連邦の実質的指導者として君臨したのが、メッテルニヒ墺宰相であり、ドイツ連邦と神聖同盟と呼ばれた墺露普の三君主国同盟を巧みに操ることでヨーロッパを支配したため、19世紀前半期の欧州外交はメッテルニヒ・システム(ウィーン体制)と呼ばれた。
これに反発したビスマルクはドイツ連邦を解体し、プロイセン指導下にドイツを統一すると決意し、1860年代にはドイツ統一構想のために諸戦争を実行し、1871年にドイツ帝国を創立した。西ローマ帝国崩壊後、常にバラバラでつまらぬ内輪揉めばかり繰り返していたドイツ民族を、史上初めて統一したのである。

強すぎるドイツ
17~19世紀の欧州外交には、欧州のバランス・オブ・パワー(勢力均衡)体制を、意図的に維持しようとする外交を実行するバランサーと呼ばれる国が存在していた。通常、このバランサーを務めるのがイギリスで、オーストリア、フランス、ロシアがバランサーとして行動した時期もあった。バランス・オブ・パワーは、イギリスのように意図的にバランサーとして行動する意志と能力を持つ国が存在していないと、長期的に維持するのが難しい体制である。
1871年にビスマルクがドイツ民族を統一したことで、イギリスはバランサーとして行動する能力を失った(すでに墺露両国はバランサーとしての能力を消失)。17世紀から19世紀までの欧州において、イギリスがしばしばバランサーとして行動できたのは、1871年以降のドイツのように巨大な工業力と軍事力を持ち、有能で勤勉な国民をいつでも大量動員できる国家が存在していないことが前提条件であった。ビスマルクの創った統一ドイツは、明らかに強すぎる国家であり、最強国家になった統一ドイツにより、欧州に厄介なドイツ問題が発生したのであった。
ビスマルクは自分で創った強すぎるドイツが周辺諸国に反独感情を植え付け、仏英露の諸国が反独的な連合を作る可能性を予想し、ドイツ統一後に強気の武断主義外交を捨て、慎重な避戦主義外交に転身したのである。
1870~1880年代のビスマルク外交は、仏露英墺伊に反独的な連合を作らせないための、辛抱強く柔軟で機敏な外交的なアクロバットの連続であった。外交史家はこの時期の外交をビスマルク・システムと呼んでいる。

(2)宰相ビスマルクの誕生に至るまで
①ビスマルクの生い立ち
プロイセン王国の中級貴族、ユンカー階級(領主貴族)。父・フェルディナント・フォン・ビスマルクは単純で正直で鷹揚な性格。政治、文化に関心はなく、教養レベルは高くなかった。母・ヴィルヘミーネ・メンケンは平民階級出身で、父は著名な学者であり、見識、知的能力、交際関係では田舎の領主貴族よりも洗練されていた。
息子の出世と成功を願う母によって、ビスマルクはベルリンの全寮制の小学校に入り、その後はベルリンで最高レベルの2つの名門校(ギムナジウム)で6年間の教育を受けた。窮屈な学校教育には反抗したが、外国語を習得する能力に優れており、17歳の時には英書・仏書・ラテン書を気軽に通読できるようになり、ドイツ語とフランス語で文章を書く能力も抜群であった。

②ビスマルクの性格と特異性
ギムナジウム卒業後、当時のドイツ圏で最高の大学であったゲッティンゲン大学とベルリン大学で法学と政治学を勉強することができた。母の家系から優秀な頭脳を受け継いだビスマルクは、凡庸で無教養で単純な父を好み、競争心が強く、知的で進歩的な母に反発した。そのため、ビスマルクはインテリ嫌いのインテリ、コスモポリタニズムやリベラリズムを軽蔑するコスモポリタン的な教養人という矛盾した人物となった。
◆ジョージ・ケナンは「(ビスマルクは)非常に複雑な性格の人だった」「ドイツ・ナショナリストではなかった。彼は自国の帝国主義に対しても他国の帝国主義に対しても、何の共感も持っていなかった。基本的には彼は18世紀的な価値観と世界観を持った人物であり、19世紀後半期の西欧人に対して違和感を持っていた」としている。
◆キッシンジャーは、ドイツ文明は高度に洗練された文明であるが、ゲルマン蛮族的な侵略性と野蛮性を発揮してきたため、「(ビスマルクは)ドイツ文明の二重性格を体現していた」とし、「本質的に孤独な人であり、同時代人からも理解されなかった。パワー・ポリティクスの権化と見なされているが、実際はパワーを崇拝したり、政治イデオロギーによって動かされたりするような単純な人ではなかった」としている。

③無軌道で放埓な青年期
大学生時代のビスマルクは「二人のビスマルク」が存在しているようだったと回想してされている。
▲親しい友人たちと政治、歴史、思想について話をする時は、冷静であり、明朗であり、紳士的な態度で明瞭かつ論理的な議論をする好青年であった。
▲学生街に遊びに出かけると時は、派手で奇矯な服を着て、目立つ拍車の付いた長いブーツを履き、大きなサーベルを腰に差して威張った態度で酒場街をのし歩き、酒を浴びるように飲んで些細なことで大喧嘩する札付きの不良学生であった。
⇒ビスマルクの頭脳は優秀であり、プロイセン政府の司法官試験に合格し、裁判官補佐職に就いた数か月後に辞職。行政官僚試験に合格し、アーヘン県庁に配属されるも、3か月に辞職。軍隊に入隊し、陸軍少尉として1年間勤務した後、軍隊をあっさりと辞め、故郷の領地に戻ってしまう。領地経営に乗り出すと、不安定で激情にかられやすいビスマルクは精神的に支えてくれる妻・ヨハンナと結婚するとともに、プロイセン王国の代議士に就任し、政治という生きがいを手に入れた。

④冷徹鋭利な外交官として活躍
1848年革命でベルリンも騒乱状態になると、革命を支持する自由主義者、民主主義者、民族主義者と、王家を支持する貴族、軍人、正統主義者のせめぎ合いが続いた。ベルリンで王をお守りする忠臣集団として最も強力になったのが、「カマリラ(影の内閣)」「Aristocratic Ultra(超保守派貴族)」と呼ばれた国粋派の集団であった。ビスマルクはウルトラ貴族で最も行動力がある頭脳明晰な若手の闘士という評判を得るようになった。
プロイセン政府の二大実力者はマントイフェル首相とゲルラッハ中将であり、2人ともプロイセン国体主義の信奉者であった。ビスマルクはゲルラッハのお気に入りのウルトラ貴族として、外交経験が皆無であったにも関わらず、ドイツ連邦議会におけるプロイセン代表という重要ポストを手に入れた。

ビスマルクは1851年にプロイセン代表の外交官として、ドイツ連邦議会に派遣されるまで、メッテルニヒ墺宰相が創ったドイツ連邦システムが「プロイセンの封じ込め」「ドイツ統一の阻止」という2つの役割を果たしていることに気付かなかった。ビスマルクはこのドイツ連邦の醜い真実を理解すると、それに対抗する外交戦略を考え始め、プロイセン政府の神聖同盟主義や普墺機軸外交に真正面から挑戦し始めたのである。

メッテルニヒはロシア好きではなかったが、広大な勢力圏を持つロシア帝国とハプスブルク帝国が対立すると、欧州の勢力均衡システムは安定しないため、墺露協調こそがヨーロッパ安定の基軸と確信していた。1953年に始まったクリミア戦争により、1815年にメッテルニヒが作って1848年まで維持されていたウィーン体制が完全に破壊された。
①クリミア戦争はバルカン半島とダーダネルス・ボスフォラス両海峡をめぐるロシアとトルコの戦争であった。
②戦況がロシアに有利になると、英仏両国が介入し、英仏とロシアの戦争となった。
③オーストリアは漁夫の利を得ようと、墺普露の神聖同盟を破棄し、英仏側に参戦しようと動き、ロシアは深い反墺感情を抱くようになった。
④クリミア戦争をめぐりプロイセン政府は内部対立した。
▲「カマリラ(影の内閣)」や「ウルトラ貴族(超保守派貴族)」は単純で頑迷な国体至上主義者(神聖同盟堅持派)であり、親露路線を主張。
▲自由主義的ブルジョアと穏健派貴族は英仏側に有利な状況であるため、親英仏路線を主張。
▲ビスマルクは英仏側、ロシア側の一方に味方をすることは近い将来にドイツ連邦を破壊して、ドイツ統一を成し遂げるという大目標の実現にとってマイナスと考え、執拗に中立主義の外交政策を主張し、英仏露のいずれにもコミットしなかった。

イタリア人は当時のドイツ人と同様に祖国統一というナショナリズムに燃えていたが、オーストリアがイタリアのロンバルディアやヴェネトを支配しており、統一が阻止されていた。1859年にサルディーニャ王国とナポレオン3世のフランス帝国が、オーストリアに対し、イタリア統一戦争を仕掛けた。
▲プロイセンは半世紀前のナポレオン戦争により、壊滅的な被害を受けており、プロイセン人は国王家、貴族、軍人、政治家もナポレオン3世に対して、極端な嫌悪感を抱いていた。プロイセンの多数派は早期の対仏開戦を主張。
▲ビスマルクはドイツ統一を実現するために、近い将来において対墺戦争は不可避であり、プロイセンが対仏開戦でオーストリアを助けるのは愚考であるとして、中立主義・避戦外交を主張した。

1851~1862年に外交官としてドイツ連邦大使、駐露大使、駐仏大使を務めたビスマルクは国際政治に対する洞察を深めた。この11年間でビスマルクは、当時の欧州で最も鋭利なバランス・オブ・パワー(勢力均衡)の分析ができる戦略家として成長したのである。戦略的な思考能力に優れており、話題も豊富で、説得力のあるビスマルクにとって、外交官は天職であった。外交官としてのビスマルクは、国際政治をチェスゲームのように論理的に分析するようになった。チェスボードに置かれた諸国(チェスの駒)がどのように動けば、将来の国際政治のバランス・オブ・パワー・ゲームで優位な立場を占められるという視点からの外交分析である。ビスマルクによれば、このチェスゲームから各国の国内事情(国内の政治体制、政治思想、宗教、価値観)、そして自国民の他国に対する好悪の情緒は排除されなければならない。彼は自国の主義、思想、好悪を外交政策の判断に持ち込むことを嫌ったのである。当時のプロイセンの自由主義者・民族主義者、ウルトラ保守貴族のような国体至上主義者たちは、これこそが正しい体制であり、政治思想であり、道徳規範であると、主観的・情緒的視点から、プロイセンの外交政策と軍事政策を主張し続けた。1850年代の外交官時代から1890年に引退するまで、ビスマルクがドイツ国内のリベラル派・国粋派の双方と延々と対立し続けた真の原因はここにある。

メッテルニヒ・システム(ウィーン体制)から続くプロイセン政府の正統主義外交
▲普墺露の神聖同盟国は現在のヨーロッパにおいて最も正統的な(キリスト教的で神聖な)道徳規範を具現化した国家
▲革命後のフランスのような悪魔の思想(国民主権思想、共和主義、自由主義、平等主義)をまき散らす邪悪な国家に対しては、決然と対決しなければならない

国際政治というチェスゲームにおいて、ドイツ民族が延々と劣等な立場に置かれることを避けたかったビスマルクは普仏協調なくして、ドイツ統一なしと考え、普仏協調を実践することを主張し始めた。理由は以下の通りである。
①多くの欧州諸民族が統一されたnation-state(国民国家)を構築しているのに、ドイツ人だけが未だに統一国家を作れない不利な状況にある。
②1815年に作られたドイツ連邦が、ドイツ統一を阻止する機能を果たしている。
③このドイツ連邦を解体するために、プロイセンはドイツ連邦体制を支配してきたオーストリア帝国と戦う必要がある。
④普墺戦争において、英仏露のいずれかがオーストリアに味方したら、プロイセンは戦争に敗北する。
⑤英仏露が普墺戦争において好意的中立を維持する環境を作っておく必要がある。クリミア戦争においてロシアはオーストリアに裏切られた経験を持つため、反墺姿勢であり、オーストリアに味方することはあり得ない。イギリスはドイツ統一問題に無関心であるため、普墺戦争に介入してくる可能性は低い。したがって、プロイセンはフランスを友好国にすることに努力し、ナポレオン3世が普墺戦争に介入しない外交環境を確保しておく必要がある。

(3)国内での喧嘩に強いビスマルクの宰相就任
追い詰められるプロイセン政府
①1861年と1862年のプロイセン衆議院議員選挙で、国王を支持する保守政党は連続で惨敗し、国内制度の急速な自由主義化を要求する左派勢力が圧倒的に優勢になっていた。
②ナポレオン帝政の復活、クリミア戦争、イタリア統一戦争などにより、欧州の軍事情勢が急速に不安定化したことを心配するヴィルヘルム1世は、軍の近代化を進める予算案を帝国議会に提出するも、拒否される。
③この事態に反発した陸軍幹部はクーデターを起こし、帝国議会を閉鎖する準備を進めるも、国王は反対。
④国王はプロイセン憲法に規定されていた衆議院の予算承認権を無視し、独断で陸軍の近代化予算を支出することを決めた。議会の多数派は憲法違反だとして反発し、プロイセン政治は麻痺状態に陥り、蔵相と外相は辞表を提出し、混乱から逃げ出した。
⑤国王は退位することを決めたが、プロイセン政府の最大の実力者であるローン陸相が、ビスマルクは喧嘩が上手く、豪胆な男で、衆議院に対して簡単に屈することはないとして、進言し、1862年にビスマルクは宰相に就任した。

対デンマーク戦争
宰相ポストに就任したビスマルクは帝国議会において、ドイツ統一のためには鉄と血による行動(対墺戦争)が必要であり、そのためには陸軍近代化の予算が不可欠であると演説を行った(鉄血演説)。当時のプロイセン衆議院の最大政党は、自由主義左派のドイツ進歩党であり、これに強く反発し、予算拒否戦術を続けた。
ビスマルクはドイツ統一のために対墺戦争も辞さないと墺英仏などに伝えた。これには①プロイセンの政治家と国民にドイツ統一のために対墺戦争を覚悟せよとメッセージを伝える、②オーストリアに普墺戦争を回避するために、北ドイツ地域について譲歩するよう要求するという意味があった。
ドイツ諸国はデンマークがシュレスヴィヒ(北部はデンマーク系が多く、南部はドイツ系が多い)とホルシュタイン(ドイツ系が多い)の2公国に統治権を行使し、南北シュレスヴィヒの併合を決定したため、ドイツと軍事衝突となった。同地域をめぐっては、10数年前もプロイセンとデンマークが軍事衝突しており、英仏露がデンマークの味方となり、プロイセンは不利な調停案を押し付けた歴史があった。ビスマルクは以下の対応を行った。
◆対墺戦争も辞さないと明言していたにも関わらず、オーストリアと短期的な軍事同盟を作り、普墺で対デンマーク戦争を遂行した。
→英仏露の干渉を回避するとともに、後に戦勝利権の処理が普墺戦争の火種とする。
◆英仏露が調停役となったロンドン条約に違反しているのはデンマークであり、普墺は国際秩序を維持するために戦っていると主張した。
→英仏露が干渉する国際法上の根拠を失わせる。
◆普墺連合軍はデンマーク領土を占領することが目的ではないと主張し、デンマーク領に侵攻し、戦線を拡大した軍幹部を処罰した。
ビスマルクは戦争が外交の手段に過ぎず、戦争に勝つこと自体は外交の目的ではない。武断主義を提唱する鉄血宰相であったが、同時に外交政策の判断は軍事政策に優越すると考える外交優越論者であった。

普墺戦争
対デンマーク戦争に勝利したビスマルクは、対墺戦争の準備を始めた。
◆軍事同盟を結び、対デンマーク戦争をともに戦ったプロイセンは親墺的国家になったと考えたオーストリアはイタリア紛争や関税問題に関して協力を要請したが、ビスマルクは対墺戦争の口実を見つけるためにこれを断り、普墺関係を故意に悪化させた。
◆対デンマーク戦争の結果、シュレスヴィヒとホルシュタイン2公国は普墺両国に所属することになったが、プロイセンはオーストリアと妥協する姿勢を見せながらも、2公国に対するプロイセンの支配力や影響力を一方的に強化する政策を進め、普墺関係はさらに悪化させた。
◆ビスマルクが大使や宰相になれたのは「カマリラ(影の内閣)」や「ウルトラ貴族(超保守派貴族)」といった保守派のアンチ・ナショナリストの支援があったからであったが、ドイツ連邦を破壊して、ドイツを統一するという外交目的のため、民主主義・共和主義・国民主権を主張するリベラル派のナショナリストと協力するようになった。

オーストリア・ハプスブルク帝国は西欧・中欧・東欧に広大な領地を持つ、多民族・多言語・多文化の大帝国であり、19世紀後半期の欧州におけるナショナリズムの高まりに対して、非常に脆弱であった。
そのことを計算に入れたビスマルクは、全てのドイツ諸侯国の住民が平等な投票権を行使する国民議会を設置することを提案し、ドイツ・ナショナリズムを支援する開明的なプロイセンを妨害するアンチ・ナショナリストの反動的・反民主的なオーストリア・ハプスブルク帝国という分かりやすい外交宣伝を繰り返した。

◆ロシアはクリミア戦争以降、反墺感情が強く、ビスマルクが3年間駐露大使を務めていた時期に、ロシア皇帝や外相と親密な協力関係を築いていたので、普墺戦争に介入してくる可能性は低かった。
◆イタリアはイタリア統一戦争の時期からオーストリアと争っており、ビスマルクは軍事同盟案を提案した。普墺戦争の直前には普伊両国は秘密軍事同盟を締結し、ビスマルクはイタリアの対墺参戦を確保した。
◆ビスマルクの対墺戦争の準備で最も苦労したのがフランスである。フランス皇帝ナポレオン3世は普墺戦争前に、普墺両国との秘密外交交渉でフランスの好意的中立を高く売りつけ、戦後、フランスの領土拡大を認めさせる魂胆であった。当時のフランスはオーストリアに味方すると明言することで、プロイセンは対墺戦争に踏み切ることができなくなるため、ナポレオン3世はビスマルクに対して強い立場にあった。ビスマルクはナポレオン3世と南仏ビアリッツで会談し、フランスの好意的中立の代償として、領土拡大要求を受け入れた。両者とも会談記録を残さなかったため、具体的な領土拡大要求の内容は不明である。

1866年に開始された普墺戦争は軍事戦略、戦闘技術、兵士の士気・鍛錬においても成り上がり国家・プロイセンが、文化的に洗練された大帝国であるオーストリアを圧倒した。プロイセン軍幹部は士気が高揚し、そのまま進軍を続けて、首都ウィーンを占領することを目指した。大勝利に舞い上がる国王と軍を止めたのが、武断主義者・ビスマルクであった。
ビスマルクは我々裁判をやっているのではなく、国際政治をやっており、彼らに大きな屈辱を与えても、国際政治の問題は何も解決されないと説明した。鉄面皮であるが用心深いビスマルクは普墺戦争に勝って調子に乗ると、仏露英に復讐されると懸念していたのであった。

プロイセンが驚くほどの短期間でオーストリア軍を打破し、北ドイツ統一により北ドイツ連邦の建設という大事業を成し遂げながら、ビスマルクはフランスとの戦争の準備を始めた。
◆ナポレオン3世は普墺戦争の漁夫の利を確保しようと焦り、南ドイツに対する拡張する動きを見せ始めたため、ビスマルクは南北ドイツ統合の事業を完成する必要性に直面した。
◆ビスマルクは普墺戦争を正当化する口実として、ドイツ・ナショナリズムを利用した。ドイツ世論がドイツ統一事業の完成を声高に要求するようになり、南ドイツのバイエルン、ヴェルテンベルク、バーデンまでドイツ統一に入れる必要はないと言えなくなっていた。

普仏戦争
1850年代のビスマルクは普仏同盟で対墺戦争を決行し、ドイツ統一を達成したいと熱望する親仏派であったが、1867年のビスマルクはドイツ統一のためには、対仏戦争が必要であると考える反仏派になっていた。外交政策の判断から、一切の主義や好き嫌いの情緒は排除すべきだと考えるリアリスト外交家であったため、ドイツ統一の完成のため親仏から反仏へと変身したのである。ビスマルクは普仏戦争を引き起こすために2つの事件を利用した。
◆ルクセンブルク事件 普墺戦争の講和に際して、ナポレオン3世はベルギーとルクセンブルクをフランスの勢力圏に入れることを希望し、ルクセンブルクの統治権を持つオランダ王から買い取り交渉を始め、ビスマルクも容認していた。ドイツ国内のナショナリストがドイツ系のルクセンブルクをフランスに買い取らせるべきではないと騒ぎ始めると、ビスマルクは買い取り交渉を妨害し始めた。ナポレオン3世にとっては露骨な裏切り行為であり、フランス世論もルクセンブルクの屈辱に激高した。
◆スペイン王位継承事件 スペインでクーデターが発生し、軍部が次の国王に相応しい人物を探し始め、プロイセンのホーエンツォレルン王家のレオポルド王子を次のスペイン王に望むようになった。このスペイン王位継承案が実現すれば、ホーエンツォレルン系の2人の国王が君臨するドイツとスペインが北東と南西からフランスを挟み付けるという地政学的構造が出現するため、ビスマルクは歓迎し、普仏戦争を惹き起こすための起爆剤として利用した。ヴィルヘルム1世とレオポルド王子は政情不安定なスペイン王位の継承を嫌がり、一旦は白紙となったが、ビスマルクは王家の意向を無視し、王位継承案を復活させた。フランス世論は激高し、グラモン仏外相は議会でドイツを非難したことなどにより、ヴィルヘルム1世とレオポルド王子は幻滅し、王位継承案は再び白紙に戻った。ところが、軽率なグラモン仏外相の命令で、駐独フランス大使がヴィルヘルム1世にホーエンツォレルン家は未来永劫スペイン王にならぬという無礼な誓約を要求した。ビスマルクはこれを新聞にリークし、独仏両国の世論は爆発、国内で不安定な立場にあったナポレオン3世は宣戦布告せざるを得ない状況に追い込まれた(エムス電報事件)

1870年に開始された普仏戦争はセダンの戦いで勝負がつき、ナポレオン3世はプロイセン軍の捕虜となった。フランス国民はプロイセンとの講和を拒否し、パリで徹底抗戦を続けた。早期講和に至らなかった原因は、プロイセン政府が講和の条件として、フランス北東部のアルザス・ロレーヌ地域の割譲を要求したためであり、普仏両国はこの領土割譲問題で全く妥協することがなかった。

デンマーク戦争や普墺戦争において敗戦国から領土を獲るべきではないと主張していたビスマルクも、普仏戦争ではドイツ国民の強い領土獲得要求に賛成せざるを得ない状況になっていた。後年、ビスマルクはフランスからアルザス・ロレーヌを獲ることに同意したことが、私の人生の最大の失敗だったと回想している。

1871年、普仏戦争の勝利により、北ドイツに南ドイツ4諸侯国が加入する形で、ドイツ帝国が誕生し、ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に就任した。ビスマルクとヴィルヘルム1世がドイツ帝国を創立したことにより、欧州外交の構造は根本的に変化した。17世紀中頃(19世紀初頭のナポレオン戦争の時期を除き)上手く機能していたバランス・オブ・パワーの外交システムが、統一されたドイツが強くなり過ぎたため、機能しなくなったのである。
◆フランス7月王政で首相を2度務め、第三共和政で初代大統領となったティエールや、イギリス保守党党首で、英国首相を2度務めたディズレイリは統一されたドイツの帝国出現の脅威を即座に察知していた。
◆ドイツの社会学者であるマックス・ウェーバーは第一次世界大戦中にビスマルク退陣後の強すぎるドイツが欧州のバランス・オブ・パワー体制を壊してしまったことに深く失望していた。
⇒ドイツ統一はビスマルクにとって史上最大の事業であったが、強すぎるドイツという猛獣を飼い慣らして、危機に満ちた欧州外交を巧みに操作していく能力を持っていたのは、不世出の天才のビスマルクだけであった。彼の後任となった凡庸なドイツ宰相や外相には全く真似のできない達人芸であった。彼の史上最大の事業は、20世紀ドイツの悲劇、欧州政治の悲劇となった。

(4)ビスマルク・システム
リベラルなビスマルクと保守的なビスマルク
◆1867~1877年 リベラルなビスマルク
①自由経済、自由貿易、立憲主義、経済・社会問題に対する政府の不介入主義、反帝国主義
②当時のドイツ議会の最大政党の国民自由党(資本家とアッパー・ミドルクラス層の利益を代表した政党)と協力して、近代主義的な政策を採用した。
※ただし、1871~1878年の文化闘争と呼ばれるカトリック迫害を行い、国民自由党やドイツの金融業とマスコミを支配していたユダヤ人たちから支持を得ていた。
③政治的不干渉主義と軍事的不介入主義に基づく不介入主義・中立主義の外交
◆1878~1890年 保守的なビスマルク
①社会主義者鎮圧法を制定し、国内の社会主義運動を鎮圧し、保護関税を立法化することで保護貿易を推進した。この影響で、ドイツ・リベラリズムの中核であった国民自由党は穏健派(親ビスマルク派)と革新派(反ビスマルク派)に分裂。
②人類初の社会保障制度を創設し、社会主義運動の過激化を阻止した。
ビスマルクは、社会主義運動を阻止するために、社会主義者の提唱している政策の中で良いと思えるものを実施していく必要があると主張していた。
③下記の三勢力に対する保護政策を巧みにバランスさせて、どの勢力にも過剰にコミットメントしないよう注意しながら、保護政策を推進していた。
・大規模な農地を所有するユンカー領主層に対する保護
・英米に匹敵する工業力を持つようになったドイツ産業家に対する保護
・無産階級の労働者と農民層に対する保護
ビスマルクは将来、敵対するかもしれない国内外の諸勢力を常に身近に引き寄せておく統治を実行した。
④将来の戦争を防ぐため、前もって軍事外交の安全保障体制を形成する対外路線に転換

ビスマルク外交のフレームワーク
ビスマルクの政治外交は1878年を境に質的な変化が生じたが、1871~1890年の外交政策には一貫した原則が存在した。
①反拡張主義
ビスマルクは統一後のドイツ勢力圏の拡張を望まず、拡張主義は内政と外交のトラブルを増やすだけで、真の長期的な国益とならないとした。帝国主義と拡張主義を主張していたドイツ軍部と頻繁に対立していた。ビスマルクは1884~1885年の1年半を例外として、植民地獲得に反対していた。
②反民族主義
ビスマルクはドイツ・ナショナリズム運動の先頭の立ち、ドイツ人の戦闘意欲を鼓舞したように、ナショナリズムを利用したが、ナショナリズムに駆られて外交政策を決定すべきではないと考えていた。ドイツ諸国では1840年代~1860年代にかけて、小ドイツ主義と大ドイツ主義が対立していたが、ビスマルクは常に小ドイツ主義者であった。
③均衡主義

ビスマルクの外交パラダイムはバランス・オブ・パワーであり、外交当時の欧州の五大国(英仏独墺露)が勢力均衡状態を維持することを、自分の外交政策の目標とした。1871~1890年の時期、ビスマルクは戦争のためではなく、勢力均衡の維持のため6種類の同盟や安全保障体制を構築した。
④避戦主義
ビスマルクは外交家であり、戦後の外交体制をどのように構築するかに熟慮考案していたため、敵を叩きのめす全面戦争を嫌っていた。軍事戦で勝つよりも、外交戦で勝つ方が上等な勝ち方であると考え、ドイツの同盟諸国が戦争ができないような複雑な国際システムを構築した。

多数派工作としての三帝同盟
1871~1890年、ビスマルクは6つの同盟・安全保障関係を構築し、欧州の安全保障体制を安定させた。この中で最も重要なのは、独墺露の三皇帝による三帝同盟(1873~1878年、1881~1887年)であった。戦争を実行するための軍事同盟ではなかったが、ビスマルクの外交システムにおいて、中核的な重要性を備えていた。
1815年にウィーン体制を創設し、実質的な指導者として1848年までの欧州外交を操縦していたメッテルニヒ墺宰相は、ロシア帝国が中欧・東欧で攻撃的な外交政策を進めた場合、欧州が安定しないことを理解しており、巨大なロシア帝国と協力する重要性を常に強調していた。ビスマルクはウィーン体制=メッテルニヒ・システムを破壊しなければ、ドイツ統一はあり得ないとし、デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争を実行し、ドイツ統一を成し遂げたが、ドイツ統一後は独墺露の同盟関係が欧州の安定に重要な仕組みであることを認識し、三帝同盟というメッテルニヒ的な独墺露の協調システムを復活させた。
②統一後のドイツの最大の脅威は対独復讐心を捨てないフランスであった。三帝同盟を維持している限り、墺露両国はフランスの軍事同盟国にはならず、フランスは対独復讐戦を執行する能力を持てないという意味で、三帝同盟は重要であった。1871~1890年のドイツ外交の基本路線はフランスを常に他の大国と軍事同盟を作れない状態にしておくというものであった。
③メッテルニヒ墺宰相期に墺露両国はバルカン半島で正面衝突することは避けられていたが、メッテルニヒ退陣後、クリミア戦争が勃発するとバルカン半島における墺露両国の勢力争いが先鋭化した。ビスマルクにとって、墺露両国の衝突を回避することは欧州の安定にとって重要であり、好戦的な墺露が戦争できないように、三帝同盟の内側に繋ぎ止めておくという外交を実行した。
ビスマルクは現在の国際政治は英仏独墺露の五極構造であり、五極のうち、三極が作る多数派グループに所属していれば、他の二極は三極には挑戦できないので、三極側に所属すべきであると考えていた。当時、フランスは常に対独復讐心に燃えていたが、イギリスは栄光ある孤立政策で、他国との同盟関係に入ることを避けていた。当時のドイツにとって、三極を形成できるのは、墺露だけであり、ビスマルクにとって三帝同盟は多数派工作であった。
⇒2度の三帝同盟はバルカン半島における墺露両国の対立によって消滅してしまった。ビスマルクの外交思想である反拡張主義・反民族主義・均衡主義・避戦主義の深い知恵が理解できなかった欧州列強は不毛ないがみ合いを続け、バルカン問題を引き金に第一次世界大戦を引き起こしてしまう。

最初の三帝同盟(1873~1878年)は露土戦争で崩壊
①1875年、ボスニア・ヘルツェゴビナでオスマン・トルコ帝国の支配に対する反乱が発生し、近隣のセルビアやブルガリアに飛び火する。ロシアの民族主義者はこれらの反乱を煽動し、トルコは過酷に弾圧した。
②トルコとの開戦の口実を探っていたロシアはキリスト教徒の解放とスラブ系民族の独立を口実に、1877年ロシアとトルコは開戦した(露土戦争)。
③戦況はロシアに有利に進み、1878年にトルコがロシアに大幅に譲歩するサン・ステファノ条約が結ばれた。セルビア、モンテネグロ、ルーマニアが独立国となり、大ブルガリアが自治領(ロシアの実質的保護領)となり、ロシアはバルカン半島に対する支配権が確立した。
④1830年代からロシアの南下政策を阻止してきたイギリスや、バルカン半島の利権を狙うオーストリアがこれに反発し、ロシアに対して強硬姿勢を示した。
⑤バルカン紛争が墺露戦争・三帝同盟の崩壊に発展することを回避するために、1878年、ビスマルクはベルリン会議を主催し、公正中立な仲介者という議長役を務めた。
◆露土戦争に勝利した直後のロシアは戦力を消耗しており、英墺両国と戦争を行う状態ではなかった。ロシアは英墺の恫喝に屈服し、秘密交渉で大ブルガリア領の半分以上をトルコ支配権に返すことに同意した。
◆屈辱的な譲歩を国民の前で認めることができなかったロシアのゴルチャコフ外相は、ベルリン会議におけるビスマルクの陰謀のため、ロシアの南下政策は挫折した。ロシアは陰謀の犠牲になったと責任転嫁するビスマルク陰謀説を流し始めた。独露関係は急速に悪化し、三帝同盟は消滅した。

2回目の三帝同盟
ビスマルクはメッテルニヒ同様、欧州の安定の基軸は、独墺露3国による協調体制であると確信しており、一旦ロシアを孤立させ、その後に懐柔し、三帝同盟を再構築するという外交プランを実行した。
①1879年、ビスマルクはドイツ、もしくはオーストリアがロシアと戦争になった場合、独墺はともに戦うという反ロシア的な独墺同盟を作った。
②ビスマルクは独墺同盟の次は独英同盟を作ると流布し、慢性的に資本不足の経済後進国であるロシアに対し、輸入品に関税をかけることで圧力をかけた。
③ロシアのゴルチャコフ外相は独墺同盟に対抗し、露仏同盟を作ろうと動いたが、国内における不毛な権力闘争に没頭し、ビスマルクと露骨に対立することを嫌ったフランス政府は拒否し、ロシアの孤立化は現実のものとなった。
④1881年、国内の政治不安とロシア外交の孤立にショックを受けたアレクサンドル3世は、独露関係を修復することを急ぎ、2回目の三帝同盟が復活した。独墺露の3国は、2回目の三帝同盟の存在を国民に通知することができず、秘密条約となった。
◆1853年のクリミア戦争では、オーストリアは神聖同盟の同志であるロシアを裏切り、英仏側に付き、1878年のベルリン会議ではロシアが露土戦争の勝利で得た権益を剥奪した。ロシア国民にとっては、オーストリアは裏切り者国家であった。
◆オーストリア人は汎ゲルマン主義に基づき、バルカン半島からロシア勢力を追放することがオーストリアの大義である信じていた。しかも、オーストリア人とともに帝国を形成していたハンガリー人は、感情的で好戦的な嫌露派であり、独墺同盟を利用して、ロシアを叩き潰すことを目論んでいた。
◆ドイツ国民の大部分も嫌露派であり、独墺同盟を利用して、汎ゲルマン主義と大ドイツ主義をバルカン半島とバルト沿岸地域で実行し、ロシア勢力を中欧・東欧から追放することを目論んでいた。
ビスマルクは汎ゲルマン主義と大ドイツ主義を抑制して、ロシアとの衝突を避ける。独墺とロシアを共存させるという目的のために、三帝同盟を結成したが、ドイツ国民、ドイツ軍高官、政治家、マスコミ人の大部分も、独墺露による欧州均衡体制の重要性を理解しなかった。ビスマルクも公的な場所で三帝同盟の必要性を国民に説くことができなかった。これこそがビスマルク外交の悲劇であり、二度の世界大戦が起こった20世紀のヨーロッパの悲劇であった。

2度目の三帝同盟(1881~1887年)はブルガリア紛争で崩壊
①1881年にビスマルクが2回目の三帝同盟を作った時に、バルカン半島問題で墺露が対立する事態を避けようした。ビスマルクはオーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナ、ロシアはブルガリアを勢力圏とし、墺露両国は勢力拡大を続けるのを止めるよう説き続けたが、民族主義と拡張主義を掲げる墺露両国は、勢力圏の限界線を明確にすることを拒否した。
②ロシアの勢力圏であるブルガリアの統治者は、ドイツ王族出身のプリンス・アレクサンダーであり、彼はブルガリア民族の独立運動を支援するようになり、ロシアのブルガリアの属国化の方針と正面衝突した。
③当時、ロシアの政府高官の多くがビスマルク恐怖症に罹っており、ロシアのアレクサンドル3世はブルガリアでドイツ王族出身のプリンス・アレクサンダーを陰で操っているのはビスマルクではないかと疑い始めた。
④ビスマルクはブルガリアはロシアの勢力圏であり、ロシアのブルガリア支配に対し、ドイツは干渉せず、オーストリアも反対しないでほしいと連絡していた。しかし、オーストリアはハンガリー人の反露感情の暴走を抑制できず、ロシアのブルガリア支配に対する妨害行為が継続された。
⑤ロシアのブルガリア支配に失敗し、面目を失ったロシアのアレクサンドル3世は、ビスマルクからの連絡や書簡を全く信用しなくなり、ロシアは三帝同盟の継続を拒絶した。

外交界のナポレオンが作った安全保障システム
ビスマルクは最初の三帝同盟(1873~1878年)が消滅した時、同盟関係とは国際環境の急変や同盟国の心変わりよって無効になる。単一の同盟関係に頼るべきではなく、常に複数の同盟関係を維持し、国際情勢の急変にも柔軟に対応できる外交体制を構築しておく必要があるという教訓を得た。そのため、1879年以降ビスマルクの同盟体制は4~5つの同盟(協定)関係を同時に運営していく複雑な構造となった。1880年代、次から次に新しい同盟関係を考案し、これらの複雑な同盟関係を巧みに運用していったビスマルクは不世出の天才的な外交家であった。イギリスの外交史家A・J・テイラーは、ビスマルクのことを「外交政策のmiracle worker」、「外交界のナポレオン」と呼んでいる。

◆ジョージ・ケナンは、ビスマルクは単純な同盟関係は危険であることを理解しており、ドイツの安全保障をオーストリア、またはロシアだけに依存する単純な構造であったら、オーストリア、またはロシアはこの依存構造を利用して、ドイツを搾取、操作、恫喝、洗脳できる。つまり、単純な同盟国依存体制は、同盟国の奴隷となるという状態を作り出すのである。ビスマルクはそのことを理解していたから、複数の同盟関係を構築した、としている。
⇒戦後日本は単純な日米同盟体制に依存しており、アメリカ政府のアジア支配政策の奴隷となっている。
◆キッシンジャーは、ビスマルクは全ての方向にドイツの同盟関係を張り巡らせていった。しかも、ドイツ以外の同盟諸国の関係よりも、ドイツと同盟諸国との関係がより近い関係であるように留意しながら同盟関係を運営していた、としている。
⇒ビスマルクは単に複雑な同盟関係ネットワークを構築しただけではなく、それぞれ個別の同盟国に対する政治的・外交的な配慮においても、驚くほど綿密で用心深かったのである。

①1882年、独墺伊の三国同盟
・ドイツに対する復讐心を捨てないフランスを封じ込める
・オーストリアとイタリアが紛争を起こす可能性を除去する
→墺露戦争の際、オーストリアが背後をイタリアから攻撃される危険性の除去
→独仏戦争の際、フランスの背後をイタリアに攻撃させる
②1883年、独墺ルーマニアの三国同盟
・ルーマニアの独立をめぐり、オーストリアとロシアが軍事衝突することを防ぐ
→オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊は中欧東欧の勢力均衡システムの崩壊を意味する
③1887年、英墺伊の地中海協定
・仏露の拡張主義を防ぐ
→フランスは北アフリカの支配権をめぐり、英伊両国と衝突できなくなった
→ロシアはバルカン半島で南下政策を強行しようとすると、英墺両国と軍事衝突する
④1887年、独露再保障条約(秘密軍事条約)
・独露両国は自国の軍隊が二つの敵国を同時に戦争する状況を防ぐ
→フランスがドイツを攻撃した場合、ロシアは中立を守る
→オーストリアがロシアを攻撃した場合、ドイツは中立を守る
ビスマルクは独露再保障条約により、独墺両軍に攻撃されるというロシアの恐怖感を軽減しようとし、三帝同盟の消滅により不安定化していた独露関係の立て直しを図ったのである。しかし、独露両国でこの条約の必要性を理解していたのは、ビスマルクとニコライ・ギールス露外相だけであり、ドイツでは嫌露感情が悪化しており、ロシアではスラヴ・ナショナリズムに惑溺していた。

ビスマルク時代の終焉
1862~1888年のプロイセン王国とドイツ帝国を実質的に指導していたのは、ヴィルヘルム1世、ビスマルク、モルトケ参謀総長であり、この3人の協力体制は同時期の仏墺露が国内政治で不毛ないがみ合いを繰り返しているのに対して、群を抜いて安定していた。しかし、1888年、ヴィルヘルム1世が死去し、モルトケ参謀総長が引退してしまった。その結果、ビスマルクは政府内で孤立するようになり、ドイツの軍事政策と外交政策は迷走し始め、1890年にはヴィルヘルム2世によって宰相を解任される。

独墺の国内政治では1887年頃から対露決戦派が主流派となってきており、1871年以降、民族主義と拡張主義の外交を拒否してきたビスマルクにとっては、不利な政治環境となってきていた。それは独墺のみならず、全ての欧州諸国において、民族主義と帝国主義を支持する世論が優勢となっており、それがヨーロッパの時代精神となっていたのである。

ビスマルクは常に17世紀後半~18世紀的な限定戦争のコンセプトを支持する勢力均衡論者であった。しかし、そのような覇気のない外交思想は時代遅れと見なされ、国民はメッテルニヒが19世紀前半期に実行していた保守的で打算的な限定戦争よりも、理想主義的なスローガンを振りかざす敵国を叩きのめす正義の総力戦を好むようになった。ドイツ軍部やマスコミ人には、ビスマルクを臆病者と貶す者まで現れた。ビスマルクの冷静で用心深いバランス・オブ・パワー外交を全く理解できない軽率なナショナリストが増えたのである。

ドイツ国民の大部分は1864~1870年のビスマルクの3つの戦勝に拍手喝采したが、1871~1890年の複雑な勢力均衡政策と辛抱強い避戦外交のロジックはほとんど理解できなかった。バランス・オブ・パワー外交というのは、素人受け、大衆受けする分かりやすい外交政策ではない。政権末期の老宰相ビスマルクは孤独な奮闘を余儀なくされた。

「ドイツ勢力圏の拡大は不要である。欧州の勢力均衡を維持せよ。勝てる戦争をやってはいけない」というビスマルクの深い知恵と長期的な戦略を理解できたドイツ人はごく僅かであった。しかし、ビスマルクは孤立に耐えて、世論や時代精神と戦い続けた。ビスマルクは多くの性格的欠陥を抱えたエゴイスティックな激情家であったが、最後まで国際政治における冷徹な理性の人であったのである。

Chapter 3 タレーラン論

(1)殺しておけば良かった男
歴史家や政治学者でも、タレーランほど評価が分かれている人物は珍しい。シニカルで無道徳で無節操な男であったため、通常の道徳基準を当てはめて議論しても上手く説明できないのである。同時代人はタレーランを「天使のような顔付きをした悪魔」と呼んでいた。彼は抜群に頭が切れる天才であったが、死ぬまで自分の本音と本性を他人には明かさなかった。
◆エルバ島に流されたナポレオンは繰り返し、皇帝在任中に裏切り者のタレーランを殺しておけば良かった、あの男を生かしておいたのは間違いだったと悔やんでいた。しかし、「百日天下」政権を樹立すると、現在のフランスの外相を務められるのは、タレーランしかいないと言い出した。
◆タレーランを外相としてウィーン会議に出席させていたブルボン王朝のルイ18世も、タレーランを嫌って信用していなかった。そして、タレーランもルイ18世は鈍感なくせに、傲慢だと国王を軽蔑していた。しかし、当時のブルボン王朝にとっても、現在のフランスの外相を務められるのはタレーランしかいないという状態であった。

(2)タレーランの生い立ちと性格
Grand Seigneur(グラン・セニュール)と呼ばれるフランスの大貴族であり、国王家と友人の付き合い、親戚の付き合いをするような家系であった。祖父は侯爵、父は伯爵で陸軍中将、叔父はカトリック教会の大司教であった。
当時のフランスの貴族は、息子を軍人か教会の高僧にするのが通例であり、長男のタレーランは父と同様に陸軍将校のキャリアを選ぶはずであったが、片足に障害があったため、父の命令により、パリのカトリック神学校に入れられた。
才気煥発な秀才少年であったタレーランは、神学校を嫌悪し、神学の勉強を怠けて、修道院の図書館でひたすら哲学書、政治思想書、歴史書を読みふけっていた。後に多くの人を圧倒したタレーランの博識とシャープな弁論術は、この時期の多読によって培われていた。
図書館での勉強に飽きると、パリの繁華街に繰り出し、女優や高級娼婦と戯れるなど、信仰心や敬虔さのかけらもない、生意気で弁の立つ非行少年であった。後にフランス革命が起こると、タレーランが聖職を捨て、革命運動に鞍替えしたのも、教会職のキャリアを両親に強制されたことに対する反発が原因だったと言われている。

神学校を卒業後、タレーランはヨーロッパにおける神学研究の最高峰であったソルボンヌ大学で神学の学位を得て、カトリック教会の高級官僚になるための準備をした。18世紀後半期の理性崇拝主義の啓蒙思想にかぶれていたタレーランは、キリスト教神学を軽蔑していたが、神学の勉強を強制されたことにより、知的根拠の怪しい外交政策を威厳ある態度で、真摯に、誠実に、熱弁して見せるという第二の天性を手に入れたのであった。
タレーランは25歳でカトリックの司祭となり、昼は謹厳な教会官僚としてフランス政府との財務・法務に関する仕事を担当し、夜はパリのサロン文化人、裕福なプレイボーイ、ギャンブル狂に変身する悪名高い非行貴族となった。会話は常に機智、鋭い皮肉、諧謔に満ちており、パリ社交界で一番の会話上手という評判を得るようになった。パリを訪れたヴォルテールもその会話術の巧みさに感心し、彼の文才を褒めたという。
複数の高名な既婚の貴族婦人たちと不倫関係を持ち、彼女たちに子どもを産ませ、聖職者にあるまじき乱脈な生活を批判されても、平然としていたのである。有能な教会官僚でありながら、キリスト教とブルボン王朝を軽蔑していたタレーランは、現世における世俗的な快楽を追求する冷酷なニヒリストであり、快活で楽天的な犬儒派であった。

(3)大胆な裏切りを繰り返す怪物
ブルボン王朝側の有能な教会官僚でありながら、反社会的な快楽主義を実践する非行貴族という矛盾した人生を送っていたタレーランは政治的野心を持っていた。35歳の時にフランス革命が勃発すると、革命運動に便乗し、政治権力と名声を獲得しようと動き始めた。彼のその後の人生は、あからさまな裏切りと変節の繰り返しであった。

①1789年のフランス革命に聖職者層の代議員として参加したタレーランは、即座に第三身分(市民層)の反教会主義に同調し、フランス革命政府はカトリック教会の全財産を没収すべきと主張し始めた。タレーランは革命直前まで教会本部でその既得利権を守るために奮闘していたが、反教会主義のリーダーに転身した。その結果、カトリック教会は全財産を没収された。

②1792年8月、過激化したフランス革命政府はルイ16世の王権を剥奪し、国王一家を幽閉し、9月には暴徒化したパリ武装民衆による貴族と王党派の無差別虐殺が始まった。革命推進派のタレーランは革命政府に愛想を尽かし、海外に亡命した。

③1794年、革命原理主義者・ロベスピエールによる恐怖政治が終焉し、翌年から不安定なDirectoire(総裁政府)が開始された。タレーランは1796年に帰国し、翌年には外相のポストを獲得したが、総裁政府の無能ぶりに見切りをつけて、イタリア戦線で華々しい戦果を挙げていたナポレオンに近づいた。1799年、タレーランはナポレオンとともにブリュメール18日のクーデターを起こし、外相に登用してくれた総裁政府をあっさりと見捨てた。

④クーデター後、ナポレオンとタレーランはConsulat(統領政府)を設立し、1804年にはナポレオン帝政を作った。タレーランは両体制の外相を務め、帝政では皇帝侍従長も兼任した。1806年以降、ナポレオンとタレーランは外交政策と軍事政策で対立するようになり、1807年には外相を辞任した。タレーランはナポレオンの外交政策の顧問を続けたが、同時に墺露両政府から賄賂を取り、ナポレオンの戦争を妨害し始めた。
常に冷静で冷酷であったタレーランにとって、オーストリア、プロイセン、ロシア、イギリスという欧州4大国と長期間にわたり戦争を続けるナポレオンは、フランスの敵であり、ヨーロッパの敵になったのである。

⑤1813年、ナポレオンのロシア遠征が大失敗になったことが明らかになると、タレーランはナポレオン帝国の破壊工作を始めた。1789年にブルボン王朝を打倒する革命運動に参加した大貴族・タレーランは、ブルボン正統主義を提唱する守旧派勢力の指導者に転身したのである。1814年5月にブルボン王朝が復活すると、ナポレオン帝政の外相であったタレーランがまたしても外相になったのである。

⑥1814年秋~15年春のウィーン会議でフランスの国益を守ることに成功したタレーランは、1815年夏にはブルボン王朝の首相兼外相となったが、ルイ18世の側近たちはタレーランの裏切りを忘れておらず、国王を説得してタレーランを解任させた。失脚したタレーランはリベラルな反体制派に再び転身し、元老院でブルボン王朝の保守反動政策に反対し続けた。1830年に七月革命が起きると、タレーランは即座に反ブルボン派のルイ=フィリップ王を支持し、七月王政で外相への就任を要請されたが、高齢であったことを理由に断り、ロンドンで駐英大使を務め、長い外交家としてのキャリアを終えた。

ルイ16世のブルボン王朝、カトリック教会、革命政府、総裁政府、統領政府、ナポレオン帝政、ブルボン復古王朝と次々と裏切り続けた。過去3000年の世界史でこれほどまでに多くの裏切りと変節を繰り返し、最後まで政権に参加し続けた政治家はおらず、怪物と呼んでよい。厚顔で鉄面皮なタレーランは自らの変節行為について、「不道徳な陰謀策士とみられてきたが、冷静な態度で人間を軽蔑していただけなのだ。私が策略や陰謀を企てたのは祖国を救うためであり、私の共犯者はフランスであった」と弁明している。

(4)タレーランの一貫した思想と信条
1814年にナポレオンが失脚し、敗戦国フランスが敵国軍に占領された後のタレーランの政治行動と外交政策には「私が策略や陰謀を企てたのは祖国を救うため」というタレーランの弁明にも真実味があったことが分かる。祖国が敗北した後、悪名高き裏切りの常習犯であったタレーランは、冷静なリアリスト外交により敗戦国フランスを救い、自ら偉大な愛国者であることを証明したのである。
タレーランはフランスの諸政権・国王・皇帝に対する裏切りを繰り返した悪徳政治家であり、陰謀家である。しかし、彼の政治思想と外交思想には40年以上にわたり、堅固な一貫性があった。タレーランは自らの中核にある政治思想と外交思想を曲げるくらいなら、自ら使えていた諸政権・国王・皇帝を裏切る途を選ぶという極めて大胆で危険な人物であったのである。

◆タレーランの政治思想 常にアングロ・サクソン的な古典的な自由主義・立憲主義であり、過激なジャコバン的共和主義や社会主義には一度も共鳴せず、この政治信条を一度も変えることはなかった。ナポレオン帝政やブルボン復古王朝が、言論の自由を弾圧したり、自由な経済活動を抑圧した時、タレーランが大胆な反対意見を述べた。タレーランは数多くの裏切りと陰謀工作を行ったが、死ぬまでヴォルテール的、アダム・スミス的な自由主義思想に忠実な知識人であった。
◆タレーランの外交思想 常にバランス・オブ・パワー(勢力均衡)政策であり、革命政府やナポレオン帝政が「フランス革命の理想を世界諸国に広めたい」「抑圧された諸民族を救いたい」という口実で、他国の侵略戦争を正当化したことに、執拗に反対し続けた。1792年、タレーランは革命政府の実力者・ダントンに他国の領土を強奪せずに、現在の領土に満足すべきであると、政策提言を行っている。また、ナポレオン戦争の大成功に国民が熱狂していた真っ最中に、冷ややかな態度で無思慮な領土拡大政策はいずれ失敗すると予見していた。タレーランの外交政策のリアリズムは、イデオロギーやナショナリズムとは無縁のものであった。

パリに駐在するヨーロッパ主要国の大使は、タレーランの防御的リアリズムと避戦政策を理解しており、フランス革命とナポレオン独裁を嫌悪していた英普墺露4国の外交官も、タレーランとは真剣に交渉した。これに対し、ナポレオンは単なる天才的軍人に過ぎず、戦争に勝ち続けること自体にスリル、生き甲斐、満足感を感じていた単純な戦争屋であった。

⇒ナポレオンは戦争に勝ち続ければヨーロッパは一極覇権構造となり、ボナパルト家のドミナンス(優越性・君臨)が確立されるだろうと期待していたが、中世以降の欧州外交史を熟知していたタレーランは、16~17世紀のハプスブルク帝国とルイ14世の一極覇権願望がどのように破綻したのかを理解しており、実現不可能な一極体制やドミナンスを追求するよりも、ヨーロッパの伝統的な勢力均衡システムを維持した方が賢明であると確信していた。
※ナポレオンの一極覇権主義が失敗してから2世紀後の現在のアメリカも、一極覇権願望とドミナンス願望に憑かれている。高慢で自信過剰のナポレオンは過去の国際政治史から教訓を学ぶことを拒否したが、冷戦後のワシントンの外交政策エスタブリッシュメントも同様である。そのような一極覇権願望に憑かれたアメリカに依存すること以外に何も考えられないのが、戦後日本である。

(5)偉大な忠国外交を成し遂げた悪辣な政治家
1814年春のパリ条約におけるタレーランは、常に冷静で大胆で狡猾であり、英普墺露の4戦勝国を相手に堂々と敗戦交渉を行い、戦勝国にフランスの要求をほとんど受け入れさせた。当時のフランスはナポレオンの敗北とフランス政府崩壊に驚いた国民は茫然自失の状態であった。このような状態で、ナポレオン失脚後のフランスを準備していた人物がタレーランであった。1805年からナポレオンはいずれ失敗することを予見していたため、フランスの敗北に驚かず、1813年からナポレオン失脚後の政治体制を構想していた。タレーラン自身はブルボン家が好きではなかったが、1814年にはブルボン王朝を復活させるという結論に達した。

タレーランはブルボン家を復活させるに際して、正統主義(legitimacy)という屁理屈を持ち出し、戦勝国に受け入れさせた。
▲ヨーロッパの政治と外交は、正統な王家を代表する諸政府によって運営されるべきである。
▲ヨーロッパの平和と安定に対する加害者は王家簒奪者であった革命派とナポレオンであり、ブルボン家は被害者であった。
▲被害者であるブルボン家には革命前のフランスの領土と権力を回復する正当な権利があり、ヨーロッパの諸政府はブルボン家が再び君臨しているフランスを処罰すべきではない。

⇒結果として、1814年5月にナポレオン戦争を終結させるために結ばれたパリ条約では、フランスが革命前の領土を全て回復することが認められ、賠償金はゼロであった。革命政府とナポレオンがヨーロッパ諸国に甚大な被害を与えたにも関わらず、フランスは処罰と復讐を免れたのである。
※開明的なコスモポリタンであったタレーランは、ブルボン家が絶対主義的君主制を復活させようとする試みを阻止し、敗戦下のドサクサに紛れて、ブルボン復古王朝が順守すべき、イギリス的な自由主義的な新憲法を決めてしまった。

1814年9月から開始されたウィーン会議でタレーランは奮闘した。フランスの自主独立を回復すると同時に、敗戦国フランスを戦勝国(英普墺露)と対等な地位に引き上げる仕事を成し遂げたのである。
ウィーン会議は「会議は踊る、されど進行せず」という嘲笑で知られるが、本質は熾烈な覇権闘争であり、12月には英仏普墺露の5か国は臨戦態勢に入っていた。
①ウィーン会議は9月初旬から討議が始まっていたが、英普墺露4大国だけの会合でウィーン会議進行のルールとプロセスを決めた。敗戦国フランスは会合に呼ばれず、タレーラン外相が参加できたのは9月末日であった。
②9月末日に初めて会合に参加することを許されたタレーランは、メッテルニヒ墺外相から会議進行のルールを知らされ、即座に猛然と反発した。延々と2時間も英普墺露の4大国の不当性と違法性を批判し、一歩も引くことがなかった。
③タレーランは英普墺露の4大国の会議進行を論理的に批判するメモランダムを書き上げ、各国の代表に配布した。4大国のやり方に大きな不満を持つ数10の中小諸国の国王と外相は、タレーランのメモランダムに強く共鳴した。
10月、4大国の外相は動揺し、タレーランを批判し、メモランダムの撤回を要求するも、タレーランに拒否される。中小諸国の造反への対応を決めきれず、ウィーン会議の正式開催は延期されることになった。
④タレーランを敵に回すと、中小諸国を煽動して、国際会議を麻痺させるという教訓を学んだ4大国の外相は、タレーランと緊密な協議を行うになる。そして、1815年1月、タレーランは4大国会合は5大国会合に変更されることに成功し、敗戦国フランスは戦勝国と対等な発言権を得たのである。

ウィーン会議においてタレーランは5大国会合体制を実現するとともに、戦勝国である英普墺露の4大国の同盟関係を崩壊させ、英仏墺3国による軍事同盟を作り上げるという外交史に残る快挙を成し遂げた。
①1814年9月、ウィーン会議が開催された際は、英普墺露の4大国に深刻な対立があるようには見えなかった。
②英墺両国は、ナポレオン戦争中、普露両国の領土拡大要求を拒絶せず、ナポレオンの打倒を優先させていたが、ウィーン会議では今後のヨーロッパの勢力均衡システムを構築するという大局的視点に変わった。
10月になると、ロシアが軍事占領しているポーランド、プロイセンが併合を認められていたザクセンをめぐり、激しく対立するようになっていた。
③この対立にタレーランは大喜びし、ウィーン会議でフランスの孤立を避け、大国としての発言権と影響力を回復するために、英普墺露4大国の亀裂を大きくし、領土問題で英墺と普露の対立を利用した。
フランスはポーランドとザクセンの独立を支持し、英墺両国と中小諸国の賛同を得た。その結果、領土問題はさらにこじれ、英墺と普露の関係はさらに悪化し、戦争が避けられない状況にまで発展する。
④タレーランはカッスルレー英外相やメッテルニヒ墺外相と会談し、1月には英仏墺軍事同盟・秘密条約が成立する。ロシアは英仏墺3国がロシアのポーランド保護領化を黙認する意向であることを知り、プロイセンを見捨てた。

英仏墺はウィーン会議でヨーロッパに防御的な勢力均衡システムを構築するという目的を達成した。ヨーロッパは以後100年間、大戦争を避けることに成功した。
この会議の運命を決定したのは、カッスルレー英外相、メッテルニヒ墺外相、タレーラン仏外相であり、彼らは攻撃的な領土拡大政策を嫌う冷静なコスモポリタン的リアリストであった。真のリアリスト外交とは、好戦的で攻撃的でもなく、防御的な姿勢で勢力均衡を維持するものである。ウィーン会議はコスモポリタン的知性とリアリスト外交は両立するという証明をしたのである

Chapter 4 ドゴール論

(1)敗戦のトラウマ
シャルル・ドゴール将軍は、3回の敗戦によって自信喪失状態であったフランス国民に、独立国であるフランスのアイデンティティを忘れるなと叱咤激励した人物である。
フランスにとって、普仏戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦は全て実質的に敗戦であった。2回の世界大戦も英米の参戦がなければ、フランスは隣国のドイツに叩きのめされていた。3回連続の実質的な大敗という屈辱は、フランス国民のアイデンティティの深いtrauma(精神的な後遺症)となった。統治者としてのドゴールが最も苦労したのは、このtraumaから生じたフランス国民のdefeatist(敗北主義者的)心理からの回復であった。
敗戦後の日本の外交論壇に存在してきた護憲左翼、親米保守、国粋保守という3つの言論グループは1945年の敗戦traumaから未だ抜け出すことができない状態にあり、真のリアリスト外交とは程遠い存在である。

深い思考力・洞察力、大胆な企画力・行動力を兼備したシャルル・ドゴールは、勇敢な軍人であっただけではなく、自分自身でフランスの歴史や国際政治のシナリオを構想する能力を持つ思想家であった。そして彼は自分の創作したシナリオを実際の国際政治において実現してみせる行動する予言者であった。
ドゴールは文人・批評家としても傑出しており、その思考力・洞察力はリシュリュー、モンテスキュー、シャトーブリアン、トクヴィルのようなフランスの歴史に残る英才に匹敵する。思想家であり、深い知性を持つドゴールが、ナチスに占領され、究極の屈辱を味わっていたフランスに、poeticな救国の軍人として登場したのである。

※ドゴールをpoeticな救国の軍人と呼んだのは、彼の姉であり、12~14世紀的な中世騎士道物語に登場した方が相応しい、どことなく滑稽で時代錯誤的な魅力がある人物である。ドゴールの宿敵であったミッテラン大統領が、ドゴールをフランス史において、シャルルマーニュ大帝に次ぐ偉大なフランスの統治者であると語ったように、左派政治家ですらドゴールの偉大さを認めざるを得なかった。

(2)ドゴールの生い立ちと性格
ドゴールの先祖は13世紀のフランス北部で騎士階級となった武闘派の下級貴族であった。17世紀になるとパリに移住し、フランス政府の文官(法服貴族)となったが、フランス革命により、財産を没収され、政府の公職から追放されたドゴール家は19世紀になると、誇り高き貧乏貴族として、学者や文人を輩出する知識人一家となっていた。ドゴールの祖父は歴史学者、祖母は大量の著作を遺した小説家であり、2人の叔父は英文学者(詩人)と生物学者、父はパリの名門リセの校長を務めた哲学者・古典学者・文学者であった。
経済的にはミドルクラスであるが精神的・文化的にはリッチな上層階級に所属していたドゴールは、幼少期からギリシャ・ラテン・英仏独の5ヵ国で、史書、古典劇、叙事詩を朗読し、暗唱する教育を受けて育った。西欧文明の最も良質な知的・文化的遺産をドゴールは連日、自宅で両親や親族の会話から自然と吸収することができる家庭環境で育った。記憶力が抜群であったドゴールは70歳を過ぎてもラテン語やドイツ語の古典文学を原文で引用し、周囲を驚かせていた。このような知性と教養は、厳格で熱心で温厚な教育者であった父親から受け継いだ「目に見えない(invisibleかつintangible)文化的遺産」であった。

ドゴール家はフランス革命から1世紀以上経った19世紀末になっても、反革命精神と反世俗主義を維持する家庭であった。浮薄でブルジョア的な世紀末潮流に満ちた19世紀末期のパリにおいて、18世紀以前のフランス文明の伝統であるorthodoxy(正統主義)とclassicism(古典主義)を維持していたドゴール家はフランス社会の少数派であった。
ドゴール家にとって、カトリック教会、国家、軍隊に対する忠誠心は議論の余地のないフランス国民の自明の価値観であった。彼らの歴史観によれば、12~18世紀前半のフランスが世界の知的・文化的な中心として活躍できたのは、教会、国家、軍隊に対するフランス国民の忠誠心が存在したためであり、18世紀後半からフランスの流行思想となった理性崇拝主義、自然主義、ロマン主義、実証主義、社会主義等の進歩的で開明的なイデオロギーはフランス国民を軽薄にし、堕落させただけだった。

ドゴール家にとって、18世紀後半期からのフランスは堕落した文明であり、没落した祖国であった。普仏戦争に負け、19世紀後半の帝国主義競争においても大英帝国やドイツ帝国の後塵を拝していたことは憂国の重大事であった。文才に恵まれ、学業成績も優秀であったドゴール少年が、陸軍士官学校に進学したのは、ドゴール家にはフランスをこれ以上の没落を阻止する義務があるという、中世の騎士道物語のような使命感と信仰心があったからであった。

(3)救国の英雄シャルル・ドゴール
ドゴールは傲岸で謙虚、詩人的でリアリスト的な人物であった。15歳の頃から祖国フランスを救う運命にあると自負心や使命感を抱くようになり、外交史、軍事史、政治思想史、哲学史、国際政治学等の勉強を積み重ねていた。学究的な軍人であり、人嫌い・社交嫌いであり、親しい友人を一人も持たず、孤高を守り続けた礼儀正しい超然とした軍人であった。
ドゴールは小学生の頃から詩作や観劇が好きで、学生時代にはコルネイユやシャトーブリアンに心酔し、演劇部に所属して、アマチュア俳優や劇作家の真似事をするほどの演劇好きであった。1940年春、社交嫌いで気難しい理論家という評判であったドゴールが、フランス軍がドイツ軍に屈服して、ヴィシーに傀儡政権が樹立されると、単身でイギリスに脱出し、祖国存亡の危機に、一人で立ち向かう救国の英雄の役割を演じ始めたのである。

ドゴールは冷たい知性と激しい情熱、謙虚さと傲慢さ、熱烈な愛国心と冷酷な意志力、厚顔不遜なエゴイズムと激しい自己否定など、矛盾に満ちた人物であった。ドゴールは1944~1945年、1958~1968年の約11年間、フランスで最強の政治権力を握り、普仏戦争以降のフランスで最も権力が集中した統治を実行した。しかし、ドゴールの統治には権力の濫用や権力の腐敗という現象が全く見られず、国家最大の権力を握ったにもかかわらず、ドゴール家の経済状態はミドルクラスのままであった。ドゴールは自分自身のエゴイズムを克服することに成功した、冷徹で傍若無人なエゴイストであった。

「フランスが貧しいからこそ、卑屈になることを拒否する」、「無力であるからこそ、高い見地を維持する」というのが、ドゴールの政治思想(ゴーリズム)のエッセンスであった。イギリスのチャーチルやマクミランはこのやせ我慢に満ちたドゴールの傲慢な態度を理解したが、功利的なマテリアリスト(物質主義者・拝金主義者)にすぎないフランクリン・ルーズベルトとアメリカの国務省官僚にとっては嘲笑の対象でしかなかった。
第二次世界大戦中のドゴールとアメリカの対立は、ドゴールが死去するまで続いた。これはヨーロッパの知性と文化の維持を重視する古典的な教養人ドゴールと、洗練された西欧文化に無関心で、実利主義的な態度で目先の利益を追求するアメリカ人との対立であった。この対立は本質的に「文明の衝突」であり、20世紀の後半期になっても解決されない深淵な人間観と世界観の対立であった。

(4)ドゴールの国際政治思想
①国際政治の無政府性とバランス・オブ・パワー外交の必要性
8~19世紀までの北部フランスはゲルマン系の諸部族、北欧人、ヴァイキング、イギリス人、スペイン人、ドイツ人によって侵略が繰り返され、占領された地域である。この地域で騎士階級となり、英仏百年戦争、欧州三十年戦争、九年戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、ナポレオン戦争、普仏戦争等、数多くの戦争を経験してきたドゴール家にとって「国際政治の本質はアナーキー」であるという教訓は自明の理であった。
ドゴールは国際政治の本質的な安定性や法治性(合法性)に関してはペシミストであった。彼は「人間も国家も虚栄心、恐怖心、他者・他国を支配しようとする本能的な欲望によって動かされている」と観察していた。このように悲劇的な性格を持つ不安定で無政府的な国際政治に対する対症療法はバランス・オブ・パワー(勢力均衡)の状態を維持することだけであった。

②各国の国内体制やイデオロギーに対する無関心
17世紀の辣腕宰相リシュリュー以降のフランスの統治者層にとって、国家とは国家理性(国益の増強)を実現するための組織であった。この国益の増強という理性は、諸国間の宗教・文明観・価値観・政治イデオロギー等の違いによって、左右されるべきものではないと考えられていた。
枢機卿のリシュリューが欧州三十戦争でプロテスタント陣営を軍事的・経済的に支援し、カトリック陣営のハプスブルク帝国を封じ込め、17~19世紀のフランスがイスラム教国のオスマン・トルコ帝国と協力して、キリスト教国の英独墺露の拡張主義を牽制したのも、国家理性の外交であった。
ドゴールも国家理性を受け入れており、西ドイツのアデナウアー首相との会談で、ロシアは国際政治のバランス・オブ・パワーを維持するために役に立ち、アメリカのヒステリカルな反共主義(反露主義)に惑わされるべきではないと述べた。また、1964年にはアメリカにアジア・太平洋地域を独占的に支配させるよりも、中国を支援して、カウンター・バランスさせた方が良いと判断し、アメリカ政府の反対を無視し、中国との国交を回復させた。ドゴールの外交とは、リシュリューと同様に「宗教、文明観、政治イデオロギーの違いに影響されない」リアリズム的な国家理性の外交であった。

③nation-state(国民国家)の役割の重視と国際組織に対する不信
ドゴールはnation-stateだけが、歴史的にも道徳的にも最大の価値と永続性を持つと考えていた。これに対して、国際組織、集団的安全保障、同盟関係は、歴史的にも短い期間の利害関係を形式化したものに過ぎず、国際政治の条件が変われば、あっさりと有効性を失うものでしかなかった。
ドゴールは第一次世界大戦後、自主防衛努力を怠って国際連盟、英仏協調政策、不戦条約に頼ろうとしたフランス政府が、隣国ドイツの再軍備と侵略に対して、全くの無力であったことを痛烈に批判し、国際連合、NATO、米ソが提唱した核不拡散条約や軍縮協定に対しても懐疑的であった。
国家にとって最大の義務は自国の生存であり、国家統治の最優先課題は安全保障政策となる。ドゴールにとって、この最も重要な義務を果たせるのは、nation-stateだけであった。そして、ドゴールはアメリカの占領政策に服従して、同盟国アメリカに依存することしか考えられなくなった敗戦後の日本を軽蔑していた。

④アメリカの覇権戦略に対する懐疑と不信
1898年の米西戦争以降、アメリカ政府が公的な場で提唱してきた理想主義的な外交理念と、アメリカ政府が実行してきた覇権主義的な外交政策には、大きなギャップがあったため、ドゴールは若い頃からアメリカの外交政策と軍事政策を信用していなかった。
アメリカは執念深い覇権主義国であり、常に自国の勢力圏と支配力を増大させようと行動してきた。しかし、アメリカ政府はこの獰猛な支配欲に満ちた覇権主義的な外交政策を利他的な普遍主義、救世主気取りの理想主義、アメリカ外交の例外的に優越した道徳性という美しいレトリックで飾り立てて、アメリカ人は自国の権益を増大させるため、功利的で打算的なパワー・ポリティックスを実行してきた。諸外国がアメリカの覇権主義の実態を批判すると、アメリカ人は激昂し、アメリカ人は自分たちのナショナリズムを認めようとしない。
アメリカ政府の提唱する同盟関係の深化や同盟諸国の団結とは、同盟国が独立した外交を実行できないように仕組むアメリカ中心の支配体制を正当化するレトリックに過ぎないと、ドゴールは批判している。
アメリカは世界中を支配する権利があると思い込んでいるアメリカの国務長官であるアチソンやダレスにとって、ドゴールのように自国の独立回復を目論む身の程知らずのフランス人は、時代錯誤の僭越なナショナリストであった。

⑤自国の独立を守ることの精神的・道徳的な重要性
ドゴールにとってフランスという国家の最も重要な要素は、経済力、軍事力、政治力ではなく、計測や数量化できない「インテグリティ(堅固な廉潔と一貫性)、レジティマシー(正当性と正統性)、責任感」という精神的・道徳的な価値であった。
フランスの社会主義者、共産主義者、左翼の言論人、文化人、右翼の民族主義者もドゴールの政敵であったが、ゴーリズムと呼ばれたドゴール独自の国家思想と外交思想に最も抵抗したのが、保守派のコラボレーショニスト(collaborateur)であった。
コラボレーショニズムとは、自国の軍事政策、外交政策、経済政策の最も基本的な部分を保護し、指導してくれる覇権国に決定してもらう体制である。ドゴールはコラボレーショニズム国家にはnation-stateとしてのインテグリティとレジティマシーがなく、長期間続けていると、その国の国民は自国の運命を自ら決めるという責任感を失ってしまうと確信していた。
第二次世界大戦で負けた弱い立場にあるフランスは、戦勝した強国に依存して自国の生存と利益を確保すれば良いと考えた新ナチ派や親米派のコラボレーショニストにとって、軍事強国のドイツやアメリカに抵抗し続けた気難しいナショナリスト・ドゴールは、非常に目障りで不快な存在であった。

⑥国際政治を多極化することの必要性
ドゴールの国際政治分析の最大の特徴は、国際政治史から見ると、国際構造が一極化したり、二極化したりするのは不自然な現象であり、寡占的な構造は不道徳である。不自然で不道徳な一極構造や二極構造は長続きせず、国際構造は必ず多極化するというスケールの大きな歴史観であった。
1950~60年代、米ソに極体制が崩れる兆候が全く見られなかった時期に、ドゴールは達観した態度で、自分が生きている間に二極構造が終焉しないとしても、現在のような不自然な構造はいずれ必ず崩壊し、世界は多極化すると述べていた。知的自信に満ちていたドゴールは、アメリカ人の国際政治判断よりも自分の判断が優れていると確信していたのである。
ドゴールは1960年代の初期から、西側諸国がソ連とデタントすることの必要性、中国と国交回復することの必要性、不毛なベトナム戦争からアメリカが撤退する必要性を唱えていた。当然のことながら、アメリカのケネディ・ジョンソン政権の閣僚や国務省・CIAの官僚たちは反発し、騒々しいアメリカのマスコミ人も、高慢な反米主義者・ドゴールと非難と嘲笑を浴びせた。しかし、1970年になると、ニクソン大統領とキッシンジャー国務長官は、これらのドゴールの外交政策を全て実行に移したのである。

ドゴールの⑥国際政治を多極化戦略のうち、最も重要なポイントは以下の通りである。
(A)ドゴールにとって国際構造多極化戦略は、アメリカの傲慢な覇権主義を牽制し、国際関係を安定させるために必要な措置であった。
(B)中ソの政治イデオロギーよりも、国際社会の勢力均衡の維持が重要であった。ドゴールにとって、中ソはアメリカの帝国主義をカウンター・バランスするために役立つ国家であった。
(C)米ソによる二極支配体制を解体して、ヨーロッパの自由と独立を回復するためには、ヨーロッパの経済力と軍事力を団結させて、西欧を独立した国際政治の一極とする必要があった。ドゴールは仏独関係の深化とNATOとは別組織のヨーロッパ独自の軍事態勢を確立する必要性を提唱するも、失敗した。
(D)米ソは同盟国が核を保有できない状態(=同盟国が自立できない状態)を維持したかった。ドゴールは国際政治を多極化し、フランスの自由と独立を回復するため、フランス独自の核抑止力が必要であると確信していた
(E)ドゴールにとって多極化した国際構造だけが、世界各国の独自の文化と価値観を維持することを可能にする国際システムであった。古典主義的な教養人であるドゴールは、フランス文明とヨーロッパ文化を、アメリカの拝金主義から防衛することを望んでいた。

(5)ドゴールの核戦略理論
優れた戦略家であったドゴールは、アメリカの大統領が核攻撃や核恫喝から同盟国を守るために、敵対する核武装国と核戦争を行うという軍事シナリオに信憑性がないため、アメリカの核の傘を信用しなかった。

ドゴールにとって、自主的な核抑止力を保有するかという問題は、アメリカ政府が同盟国に対して保証する核の傘が本物であるか否かという単なる軍事的な議論を超えた問題であった。フランスが自主核を保有するかという問題は、米ソ二大国以外の国が核保有すると、国際政治の構造はどのように変化するかという国際構造分析の問題でもあった。
戦車、大砲、駆逐艦、空母、戦闘機、爆撃機などの通常戦力と違って、核兵器はたくさん持てば自国の立場が有利になるという単純な性格の兵器ではない。核兵器の破壊力が巨大であるが故に、どの国も少数の核弾頭を保有するだけで、国際政治のパワー・バランスに顕著な変化を惹き起こすことができるのである。これが核兵器による非対称的な抑止力(Asymmetrical Nuclear Deterrence)と呼ばれる現象である。

ドゴールは自国の小規模な核抑止力でも、超大国の核戦力を無効化できること、独立した戦争抑止力を持つことは、フランスの国際政治における独自の発言力と影響力を確保するために必要な条件であることを理解していた。フランスが核を持たなければ、フランスは永遠にアメリカの隷属国となる運命にあると確信していたのである。

ドゴールは1959年、もしフランスの防衛を他の同盟国に依存するならば、フランスは国家ではなくなる。どの時代においても国家の存在理由の第一は自国の防衛である。したがって、自国を防衛しない国はそもそも国家とは言えないと述べていた。1961年には、自国の運命を他の同盟国に任せておく事態を、絶対に容認できない。例え、その同盟国が我々に対してどれほど好意的であり、友好的であるように見えても、我々は自国の運命を同盟国に預けるわけにはいかない。他国の好意に依存するような国家は、自国の運命に対する責任感を失い、自国の国防政策に対して、無関心になってしまうからだと述べている。

政治思想家であり、戦略家であったドゴールの国家哲学や外交思想は、敗戦後の日本の基本的な国策(いわゆる吉田外交)と正反対のものであった。日本の安易な対米従属主義を軽蔑してきたキッシンジャーは冷戦終結直後から、21世紀の国際政治はウィルソン的な国際協調体制ではなく、むしろドゴールが予見した多極構造下におけるバランス・オブ・パワー体制になるだろうと予言していた。最近の国際政治は、ドゴール、キッシンジャー、ケネス・ウォルツ、サミュエル・ハンティントンが予言した通り、アメリカ政府や日本政府が望むアメリカが君臨するグローバリスト的な一極体制ではなく、多極構造下のバランス・オブ・パワー体制へと着々と進んでいるのである。