今感じて見えているものと自分
大きく考えてみて
この世界は、大して変わらない能力差のヒトでできている。
そんなヒトは大きな仕組みとして競争を今の所とっている。
だからこの世界のヒトは生まれた時の境遇からよーいどんでスタートして、もがいたり、もがくのをやめたり、もがかなかったりした結果で存在している。
その結果として、この世界は小さなたくさんの仕組みができて回っている。
少し前までは、黒字の部分が分かっていなかった
加えて補足して学んだこと
・どんなすごい人もスタート時点では能力差はゼロに近しかったこと。現時点での差はスタートが早かったから。スタートしてから課金できるから。でもその差は埋められないほど大きくなる。
・この世界は競争である。勝つものがいれば負けるものもいる。負けるものが全てを失うことは改善されているらしいが、構造としては変わらない。
・もがくということは、やる気があるということである。自分自身のためにもがくことはできても、自分が平均になればそちらを選ぶ。だからその結果あまり変化は生まれない。
今の疑問としては
・誰かの何かを解決する
ということについてである。
これは誰かの負を解決するものであるが、自分が興味があったのは「やる気があるけどどうにもならない人」を仕組みとして解決していくということであった。そしてそれは持続的にすべきであり、だからこそお金を絡んだビジネスに落とし込むべきものでるべきと考えていた。ビジネスがないものは解決にならず、問題を変えていないものだと感じていた。
でも、この世界は競争なのである。だから、ビジネスで解決したら、それは誰かの負けを生み出していることなのではないか。
誰かを助けたかもしれないが、誰かが苦しみ始めているだけなのではないか。
一方で、ボランティアなどは問題の本質を変えるとも思えない。やってみて思ったのは、仕組みから変えないといけないと自己満足であると思ったからだ。
この世界の前提が競争であるのなら、やる気を出さなければいけない。
逆に、やる気を出せば、何とか行けるようになっているのではないか。
世界の仕組みそのもの、競争をやめない限り、この流れは変わらないのではないか。
小さく考えてみて
この競争の中にいるヒトは、どんなものなのか
そんな感じである。多分割合で言うと1000人に1人くらいが仕組みを考えている。
仕組みを考え、動かせられる人、創れる人は、競争から勝ち上がってきてるひとだ。
でも違う軸で見てみると、この世界の仕組みは競争である。
政治でも経済でも何でも。
だから仕組みを考えている人もその仕組みの中で競争している。
結局はどちらも自己満足、やる気があってもなくても、自分が幸せに思える範囲が違うだけなのではないだろうか。
本当にそれだけなのではないだろうか。
書いてみて
今までは
・世界で困っている人がいる
・自分はそこに取り組むことで人生に意義があると感じ幸せだと思っていた
そう思っていた
でも
・困っている人はいるけど、世界の前提は競争で、多分困ってる人はどこにでもいつでも生まれていく
・競争を知ってしまうと、自分の近くの幸せを掴んで困っている人を忘れたくなってしまう
その二つにぶつかった
多分自分自身が大きな世界の競争の中の一部になっていることを実感できたんだと思う。歯車の一部だと言うことを感じているんだと思う。
今自分が納得してやりたいと思えるのは
・半径にいる人の幸せを創る
これだと思った。
ずっとずっとたまたま出会った貧困こそ使命だと思ってたけど、でも今は分からなくなっている。
だけど今心から助けたいものがあれば、助けたいと思う。
でも助けたいと思っていないのに、探しにいくのは、どうなんだろう。分からない。
困っている人に手を差し伸べることをすればいいのかな。
杖を貸してあげることはいいことに思えるけど、サービスを作ることはわからなくなってしまった。
出てきた疑問
利益は正義なのか?
利益が出ていることは誰か恩恵を受けているから正義だと思っていた。
でも、今思えばそれは奪い合いにも思えてしまう。
うーん経済がわかってないのか?経済学やるかあ
今やりたいと思えること
今純粋にワクワクすること
・サウナと格闘技に浸かること
・大切な人と会ったりすること
創りたい
・spaceXのような、無から未知を作っていくこと
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