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日記 諦めて皿をあらう

4/13

今日は久しぶりに夜動けなくなった。
きっかけは省くけど、疲れてるのだろうなとは思った。
zoomの会議が終わって、色んなことを考えているうちに風呂に入れなくなった。
しょうがないから、暫くゲームすることにした。
ゲームをしている間はずっと、マーガリンを塗った食パンを齧るか否かで頭がいっぱいだった。
でも、このようなとき、考える隙が無いほどゲームに没頭することや、お腹が満たされているのに何か食べるとか、
人生を生きるって、サバイブするって このようなことだよなと思った。  

暫くして、握ったコントローラーのボタンが何が何だかわからなくなった時、
「疲れたなあ」と感じたから、そのままの勢いで風呂に入ることにした。


風呂に入ったらもうこっちのもんで、あんなに不安だった気持ちがスッとなる。いつもそれを知ってるのに風呂に入れなくなるから不思議だよね、こんなに助けられてるのに。散歩と風呂は自分の中で同じ効果があって同じジャンルに入れている。これからもお世話になる。



風呂から上がっても、少々は疲れていて、ぼんやりそわそわしていた。
何かするかな、まだゲームが必要かな と考えていた。
マーガリンの食パンもこの時点ではまだ齧ってもいいかなと思っていた。

それでもふとあたりを見渡して、洗ってない皿と髪の毛の落ちた床に気づいた時、疲れたり忙しかったりすると部屋の散らかりも気が回らなくなってくるな、心と同時に家が荒れるもんだなと思った。
なんか、情けなかったけど、その気持ちを大事に抱えながら皿を洗っていた。
その作業は、色んなことを諦める意味を持っていた。焦燥感の根っこにある「今日やらないといけないかもしれない」としがみついた指先を一本ずつ外す行為だった。
私にとっての寝支度、情けないな~とは思いながらだけど、洗われていく皿をみて心から安心していた。肩の荷が降りて、身体が軽くなった。

こんな泥臭い今日を、愛おしく感じれた皿洗いでした。
おわり

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