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父と戦争

昭和7年生まれの父は、お酒が好きで、酔うとよく子どもの頃の話をしたものでした。父は東京都江戸川区生まれのちゃきちゃきの江戸っ子で、7人兄弟の次男。子ども時代は戦争の真っただ中で、体の弱かった長男と幼い兄弟はみな田舎に疎開しましたが、父は、両親とともに東京に残って家を守っていたのだそうです。

東京大空襲の日、街は火の海になりました。父の家は焼け残りましたが、上野の方面から、焼け出された人がぞろぞろ、ぞろぞろと、父の家のほうに向かって歩いて来たと言います。皮膚はみな焼けただれて、その様子は言葉にできないほどでした。火の熱さから逃れようと人が次々の川に飛び込み、多くの方が亡くなっていきました。父の母は、家には、ほとんど残っていないかったお米を、あるだけ炊いておにぎりにして、歩いて行く人に泣きながら配っていました。その姿を父はずっと忘れられなかったと言います。

父は少年航空兵に憧れ、志願しようと決めていました。食べ物にも不自由するような暮らし。学校に行っても、上級生は絶対の存在で、理不尽な理由で殴られました。口答えなんて許されません。こんな国に生きていてもつまらない。それなら、兵隊さんになって英雄として散ろうと子供心に思いました。ところが、志願したその夏に終戦を迎え、父は特攻兵にならずに生き永らえました

一方で、若いころ、田舎に住んでいた母は、戦争の話を全くしませんでした。そればかりか、戦争がテーマになった映画やドラマは極力見ないように細心の注意をしていました。夏によくテレビでも放送される『火垂るの墓』などもってのほかでした。「戦争は悲しすぎるから見たくない」とよく言っていました。母の妹たちの話では、母の住んでいた場所は、戦火にさらされたことはなかったと言います。それでも、大好きだった2人の兄の出征を見送り、彼らは、二度と帰ってきませんでした。戦争は母の心に深い深い傷をつくりました

父の話はおどろおどろしく、気味悪く、その上何度も聞かされるので、私も妹もへきえきしました。また、母が怖がるので、戦争にまつわるものは、あまり見聞きしないようにしてきました。

でも、今は、娘たちに嫌われながらも、父はよくぞ話してくれたと思っています。そして、戦争の実体験は、父から私の子どもたちにしてもらわなければならない話だった、と今は思うのです。昔話と思われようとも、ずっと語り繋げなくてはいけないのです。私や妹はさんざんこの話を聞かされて、想像でしかないけれど、映像として戦争というものをイメージすることができました。だから、戦争は嫌とはっきりと言うことができたのです。

戦争は昔話でありません

父の話は、決して昔話ではないということを私は取材を通して知りました。今でも、全く同じようなことが、世界中の紛争地で起きているというのです。今の時代であっても、戦争では、ロボット同士が戦ったり、軍事施設がピンポイントで破壊されたりしているわけではありません。東京大空襲のときと全く変わらず、多くの市民が、弾丸にさらされ、手足を失ったり、命を落としたりしているのです。女や子どもが殺されているのです。父の見た、体験したのと全く変わらない光景が、今も世界のどこかで広がっているのです。

もう、父の話を聞くことはできません。でも、今この瞬間にも地球のどこかで起こっている紛争を見聞きすることはできる。そして、真実を知って、戦争は絶対嫌だとみんなが思わなくては、戦争はなくならなりません。声をあげなくてはいけない。見張らなくてはいけない。雪玉が坂道を転がり落ちるように、いつのまにか、巻き込まれてしまうことがあってはいけないと思うのです。

現在発売中のSTORY9月号にて、ジャーナリストとして、中東の紛争について伝え続けてくださっている玉本英子さんにお話をうかがいました。今起きている戦争の現実について、考えるきっかけを与えてくれるお話です。お読みいただければ嬉しいです。





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