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ノルウェイの森は、静かな爆弾

志村けんが亡くなった。
昨日から、テレビもネットもその話題で持ち切りだ。
バカ殿様は大好きだったし、CSで放送されている8時だョ!全員集合の再放送も母の影響でよく見ていた。
会ったことも話したことも勿論無いけれど、画面越しに何度も目にした渋くて面白いその人。

馴れ親しんだ人の訃報を聞く時、決まって私の脳内で、ある小説の一文が思い起こされる。
“死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。”
村上春樹の著書『ノルウェイの森』のとある場面で出てくる言葉。
私は別にハルキストでは無いし、『ノルウェイの森』自体たった2度しか読んでいない。正直、話のディテールも曖昧だ。
ただ、その一文だけは初めて読んだ時から脳内の隅にこびり付き、折に触れて顔を出してくる。

初めて『ノルウェイの森』を知ったのは、高校三年生の受験期だった。
通っていた塾の現代文講師が、教材としてその場面を取り扱ったのがきっかけ。
余談だけれど、私はその現代文講師が先生の中で一番好きだった。
基礎を積み上げていく堅実な現代文読解は性に合っていたし、答えに辿り着いた時の喜びも一入。
何より、人柄が素敵だった。現代文がとてもよく似合う、お洒落で朗らかで知性的なおじさま。雰囲気や風貌は久住昌之に少し似ているかもしれない。
最近、久しぶりに先生のことを思い出して調べてみたら、まだ現役で講師をされていて嬉しかった。

そんな大好きな塾講師がハルキストだったか定かではないけれど、先生は『ノルウェイの森』が好きだった。
言葉の回りくどさに触れながらも「一回、是非読んでみてください」と授業中にこやかに仰っていて、受験が終わってすぐ本屋に駆け込み、上下巻を買った覚えがある。

初めて読んだその小説は、噂通り言い回しが独特で、性的表現も含め薄ら灰色のフィルターを被せた様な雰囲気があった。
“死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。”その一文は授業で取り扱われた時と変わらず、印象的だった。
ただ、高校三年生の私では、物語の内容を知り、読後少し鬱々とした気持ちで過ごすのが精一杯だった。少なくとも、誰かへにこやかに薦められるような代物では無かった。

大学二年生の春、ふぇのたすのミキヒコさんが急逝された。
ある程度の年齢になってから親戚の訃報が無かった私にとってそれは、初めて人の“死”を肌で感じた経験だった。
そして、その年の秋、ほぼ毎週会っていた私の祖父も亡くなった。
その時期、約二年間忘却の彼方に押しやられていた印象的な一文を不意に思い出す日があった。

“死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。”
あぁ、そうか。と、なんだか納得してしまった。小説の言葉を借りるなら“ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じた”という感覚。
その納得を以って、私にとっての“死”はあちら側ではなくこちら側のものになった。(ちょっと違うけど、しっくりくる言葉が思い浮かばない)

小説を積み上げている本棚でぐっすり眠っていた上下巻を久々に引っ張り出したのは、大学三年生になってすぐ。
高校三年生の時は非日常の物語を読んでいるような気がしていたけれど、読み返してみると思っていた以上に現実的な話だと感じた。

年を重ねるにつれ、悲しいかな“死”を肌で感じる機会は少しずつ増えていく。
その度、その一文は脳内で思い起こされ、より頑固にこびりつくのだと思う。
大好きだった先生はにこやかに、静かな爆弾を薦めていたらしい。

“死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。”

明日の夜は、家でバカ殿様を見ながら、笑顔でご冥福をお祈りしようと思います。

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