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本当に怖いのはコロナではなく人間説

昨日の仕事帰り、駅を歩きながらふと目の前の景色に意識を向けると、死んだ顔に張りついたマスクが次々こちらに向かってきては横を通り過ぎていった。
その瞬間の何とも言い難い恐怖心が、全身を粟だたせた。まさにWalking Dead。

今、世の中はコロナウイルスに侵されている。
その様は、さながらコンピューターウイルスに感染したパソコンのようだなと思う。
たしかに“肺炎を引き起こす新型ウイルス”という意味でも、怖いものではある。実際に亡くなられた方がいるのも事実だし。
ただ、それを含めたとしても、私にとって一番怖いのは、コロナの三文字に感染して、脳がバグった人間だ。

正直、どれだけ厳重に予防をしたとしても、感染する人はするし、最低限の予防すらしていなくても、感染しない人だっている。
それはコロナだろうがインフルエンザだろうが同じだと思う。
ここで、いやいやコロナの方が怖いだろ!亡くなった方だっているのに不謹慎だ!とかいう人は、多分私とコロナについて話すのはやめたほうがいい。

そんなふうに思う私が一番、バグってんなぁ、と感じているのは今話題の“不要不急”の定義について。
「不要不急の外出は控えて」その一言で世の中が大騒ぎなのは言うまでもないけれど、結局その“不要不急”って偉い人たちにとってのものであって、所詮一般市民はゴジラに壊されたビルの中にいた人のように、モブキャラにもなれない存在なんだなぁと実感してしまった。

“不要不急”の定義は当然の如く人それぞれ違う。
一昨日の情報番組で、東京事変がライブを敢行することに出演者が苦言を呈すような件があったらしい。
そうなるのも仕方ないのかもしれないけれど、その記事を読んだ時、なんだかモヤっとした。
東京事変を贔屓したいというわけではなく、そのライブが何も知らない人の手によって勝手に“不要不急”だと定義されていることを気持ち悪く感じたのだと思う。
世の中が“不要不急”だと定義したそのライブは、誰かにとって“必要火急”だったはずだ。
100日後に死ぬワニの99日目がそのライブの日だったら?ワニが東京事変の復活を何年も毎日思い続けていたとしたら?

逆に、中止を余儀なくされたイベントに目を向ければ、大きな損害を被った誰かがごまんといる。
倒産する会社もあるかもしれない、金銭的な理由で解散せざるを得ないグループがあるかもしれない。
少ないお小遣いを頑張って貯めて、遠征をした人がいたかもしれない。
残り少ない貴重な青春を、“不要不急”だからと突然強制終了させられた人たちだっている。
コロナウイルスはそのうち終息する。でも、その誰かの人生はずっと長く続いていく。
その人生の責任を取るのがその人自身であることを、国の主要キャストはちっとも気づいていない。

モブにも値しない私にとってみれば、国が“必要火急”だと定義しているスポーツイベントだとか、政治の集まりの方がよっぽど“不要不急”だ。

結局、偉い人たちが恐れているのは、この国で暮らす人たちの幸せな毎日がコロナによって脅かされることではなく、それによって自分の面子が丸潰れになる事なんだと思う。めっちゃ怖いじゃん、うける。

それ以外にも、デマみたいなデマでトイレットペーパーが売切れたり、電車で咳をしたら非常停止ボタンが押されたり、人種差別が加速したり。
そこに在るのは、“肺炎を引き起こす新型ウイルス”の怖さではない。コロナの文字に感染して“理性が麻痺した人間”の怖さだ。

“不要不急”の娯楽を奪われた一般人は、“必要火急”の仕事に行くために、毎日満員電車に揺られ、生ける屍と化している。

そういえば、先週末“不要不急”の日帰り旅行で行った秩父は閑散としていたなぁ。
コロナ対策って一体何なんだろうね。

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