報道されないY型の貴女へ

 いわゆる「セクシー女優」が社会の表舞台に堂々と出てきていいものか、という話。それこそ自分は「中世ヨーロッパにおける"娼婦"の社会的意義」などというテーマで卒論を書いていたこともあり、この手の話についてはほんの少しだけ蘊蓄のようなものがあると自負しているので、少し私見を述べてみようかと思う。まず卒論のテーマを考える上で自分が興味を持ったのは、性的領域において禁欲を是とするキリスト教、中でもとりわけ厳格なカトリックの教義が支配的な価値観として浸透していた中世ヨーロッパ世界において、果たして「娼婦」は存在していたのか、そしてもし存在していたならば、どのように論理的整合性をつけていたのかという点である。

 結論から言えば「娼婦」は存在していた。勿論「姦淫」を禁じ純潔を推奨するキリスト教の教義上、彼女たちの存在は許されない筈であり、聖王ルイの時代のように実際に迫害を受けた時代もあった。しかし、売春婦から悔悛して聖人となった「マグダラのマリア」信仰が広く普及していくに連れて、彼女たちの罪に身を落とす行為はキリスト教の「犠牲」の精神に、奉仕は性的逸脱の抑制という「公益」に結び付けられ、最終的には市民と同等の権利を獲得するのに至ったのである。このことからわかるのは、今起こっている「売春は賤職か貴職か」論争はまったく先進的な社会特有のものではなく、まだ政治的な意味での「個人」が産声を上げる以前、世間的には「暗黒時代」とされている中世の時代からずっと、同じことを繰り返しているということだ。

 端的に言ってしまえば、セックスワーカーが一般社会において「賤職」であるということは疑いようのない事実だろう。他職と比較して高水準な給与も、そういった社会的なスティグマを引き受けるリスクを織り込んだ上でのものであろうし、中世ヨーロッパにおける多くの娼婦たちがそうであったように、彼女たちは「差別」されることによって同時に「保護」されているのだ。ゆえに、表舞台に出てこないで欲しい、ゾーニングが必要だという意見が出てくることはむしろ社会が「正常」に機能していることの証左であるとも言える。しかし、その上で社会としての視線と個人としての視線は慎重に峻別するべきというのが今回の論争に際して自分の提示する私見である。

 セックスワーカーに向けられる視線はその社会において「セックス」がどの程度の価値を有しているかを示す指標となる。そして少なくとも「セックスワーカーは賤職である」という認識が一般的となっている現代社会において、セックスは「侵されべかざる聖域」としての正の側面であれ「触れるべかざる禁忌」としての負の側面であれ、絶対値的には殆ど同値の超高強度の価値が付与されていることがわかる。それは浮気や不倫の判定が基本「セックスの有無」によって行われることからも自明だろう。しかし、よく考えてみてほしい。それは果たして全ての時代、全ての社会に共通する普遍的な原則なのだろうか。そう、中世初期には売春と同程度の罪であった結婚が今や教会の秘跡となっていることからもわかるように、そんなものはあくまで、時代と社会によって規定されたものでしかないのである。

 そのように考えていくと、現代社会に絶対的な原理として君臨する「セックスは一人の恋人や配偶者とするもの」という倫理的な規範でさえ、元を辿ればその方が管理面で都合が良いから、という社会からの要請によって規定されたものに過ぎない。倫理や道徳は、それを守らせるための後付けの権威性だ。ゆえに、それを遵守していることは社会の成員としての「適性」を保証はするが、守らない者に対する倫理的・道徳的な優越性を必ずしも保証するものではないのである。要は「賤職」なのだからむやみやたらに表舞台に出すな、という理屈はたしかに「正しい」かもしれないが、それはあくまで社会のシステム上そうした方が都合が良いというだけであって、その事実を以って彼女たちが倫理的・道徳的に劣っているということの証左にはなりえないということだ。しかし、議論を概観している限りこの社会的な視線と個人的な視線を混同している人は非常に多く、今回の論争における最大の問題点はコラボの是非などではなくここにあると、自分は確信している。

 なぜなら少なくとも個人のレベルにおいて「差別」とは、他者に向けられる社会的な視線と個人的な視線が同一のものになった時に起こり得るものだからだ。社会レベルの「差別」は生物学的な合理性と常に共犯関係にあるため根絶することはほぼ不可能に近いが、社会的な視線に影響されない個人の視線を養うことで、個人レベルで差別に加担しない道を選ぶことはできる。そして各々がそれを実践していくことで、社会レベルの差別を有名無実化してしまうことが、現状もっとも現実的な差別の根絶へと続く道ではないだろうか。

 自分は社会的な視線の存在自体は認めているし、そこに操作を加えるつもりも毛頭ない。しかし、自分が他人に向ける個人的な視線については、社会的な視線とは全く別の基準で運用するよう常に心がけている。いつだってそこにあるのは「自分がどう思うか」という絶対的な基準だけだ。賤職だろうとなんだろうと、対等でありたいという思いとは裏腹に自身の中に確かに存在する本能のままに欲求を達成したいという願望に苛まれながら、どうにもならない己の加害性に対して日々罪悪感を抱えて生きてきた自分にとって、それを疑似的に引き受けてくれた彼女たちの存在は間違いなく「救い」であったし、この先社会がどのように変わったとしても、それが揺らぐことは決して無いだろう。


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