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BITTER 90'S BLUES


 最近は少しずつ精神に平穏が戻ってきたので、一日に数回程度はタイムラインに目を通すようになった。そんな中流れてきた「91年生まれ大反省会」のツイート。自分も今年30になる91年生まれではあるが、個人的には「時代の移り変わりと共に価値観もアップデートされていく」というのは社会進化論的な傲慢に基づいた幻想であり、単に信奉する権力が変わっているだけに過ぎないと考えている。 

 当該ツイートの内容を概観すると一見、権力的、抑圧的な価値観に対するカウンターのように見えるが、旧態依然とされる価値観を「毒」であると断じる精神的姿勢もまた一つの権力であり、抑圧なのだ。もし、我々が出す必要のある「毒」が本当にあるとするならば、それは既成の権力概念ではなく、我々一人一人に内在する「権力への志向性」だろう。

 自由も人権も、自身が謳歌する分には紛れもない恩寵であるが、他者に認めようとすればたちまち利害の対立が生じ、それらは一転して障害となる。そもそも人権が十分に保障されていると仮定する場合、本人の自由意志に基づいた選択以外によって自身の行動を変容させられるようなことは本来起こり得ない筈である。しかし、それを強制的に変容させることを可能にする力学的エネルギーがこの世には存在する。

 それこそが「権力」だ。自分を含むきっと誰もが、喉から手が出るほど欲していることだろう。凡そ人類の歴史は、この「権力」を巧妙に行使するために考案される口実の歴史といっても過言ではない。何せ簡単なのだ。一切の精神的コストを支払うことなく、自身の利益を最大限に確保することができるのだから。しかし、ゆえにこそ我々は警戒しなければならなかった筈だ。

 不思議なことに、うまい話の「裏」を見抜くことができるだけの卓越した平衡感覚の持ち主であっても、なぜかこの「権力」に対しては無防備にその懐を晒しているケースが非常に多い。どんな旧弊も陋習も悪政も、初めから独立した「悪」として存在していたのではなく、まずそこには「他者の行動を制御したい」という指向性があった筈である。にもかかわらず、現行社会の採用する価値観に基づき付与される論理的な正当性が、それら旧態依然の価値観と原理を同じくしているという現実を曇らせている。

 我々が後続に示すべきもの、それは「我々は結局、信奉する権力を選択しているに過ぎない」という絶望から逃げずに対峙しようとする姿勢の他には無いのではないか。表層ではなく原理そのものから脱却しない限り、この社会から被抑圧者の存在が消滅することは永劫に無いだろう。もしいなくなったように見えるのであれば、それは単に、見え辛くなっているというだけの話なのだ。

 思うに、90年代生まれというのは間隙の世代である。昭和生まれからは「平成生まれ」と揶揄される一方で、平成生まれの中では「最年長」。終ぞ「ノスタルジー」も「最先端」も独占することの叶わなかった世代。ゆえにこそ、冷静に権力という原理を見つめ、適切な距離を保ち続けられるだけの可能性を秘めていると自分は信じている。やってやろう。俺たちならやれるさ。

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