生きるに値しない命

 先日の「死刑執行の当日告知は違憲」という死刑囚の訴えが棄却されたニュースを受けて、死刑の是非や死刑囚の人権についての見解を表明するポストがちらほらタイムライン上に見受けられました。

 自分はというと、これまで死刑に関する全ての議論について単純な性善説と性悪説の対立構造だと認識していたこともあり、性悪説に基づく犯罪の抑止力としての死刑の運用に長いこと肯定的な立場を採ってきましたが、最近はそこに少しずつ変化が表れてきています。以前までの自分の「死刑」に対する認識は「凶悪な犯罪を犯した者に自らの命を以ってその罪を贖わせるための制度」というものでした。そしてこのように考えた場合、死刑という刑罰の必要性について疑いを挟む余地はないように思えます。とりわけ凄惨な殺人事件の遺族が抱える無念と強い処罰感情が、加害者への死刑判決によってのみ報われるであろうということは過去の判例から見ても自明でしょう。

 ではこの必要性について一見疑いようのない死刑制度に反対を表明する時、一般的にはどういった観点からの反対が考えられるか。まずひとつは「冤罪の可能性」といった制度的な観点。そしてもうひとつは今回の「当日告知」も含めた残虐性という人道的な観点。これらは言わば方法論であり、死刑という刑罰そのものの価値については暗黙的に認めているわけですが、一方でそれすらも否定しているのが最後のひとつ、人権的な観点です。おそらく反対派の中ではこの立場がいちばん、世論の賛同を得ることが困難と言えるのではないでしょうか。それは「人権派」という言葉が一種の揶揄として機能していることからも明らかです。まあ形式上は「加害者の人権」を守る立場に立たざるを得ない以上、仕方のないことではありますが。

 さて「死刑に対し肯定的な立場を採ってきた自分」の「考えの変化」について冒頭で言及したことから、自分が死刑に否定的な立場へと変節していったことは容易に窺い知ることができますが、その理由が上記の三つの観点のどれに立脚しているかといえば間違いなく「人権的な観点」になるでしょう。しかしそれは加害者の人権も同様に守られるべきである、といった平等論に基づくものではありません。「社会や共同体に害を齎すものは死して然るべき」という人々の思考様式の正当性を担保する最も強い根拠として「死刑」が存在していることが、自分が死刑制度に反対する唯一の論拠です。

 なぜ自分がこのような結論に至ったのか、それは「社会や共同体に害を齎すものは死して然るべき」というドグマが伝統的に「差別」や「虐殺」を正当化する論理として使われてきたからです。この「社会に害を齎すもの」に代入される値は、社会の採用する価値観によって恣意的に決定されます。それが死刑というケースではたまたま「死刑囚」という、現代社会においては誰もが納得する合理的な値が代入されているにすぎません。したがって死刑制度が限りなく理想的に近い形で運用されていると仮定した上でも、社会や国家が「死すべき命」を決めるべきではない、というのが自分の主張になります。

 もちろん死刑が命に関わる刑罰である以上、公正な司法機関の下で法に基づいた慎重な量刑が行われていることは承知していますし、共同体の秩序維持という問題に対する「死刑」の有効性についても自分は微塵も疑っていません。ですがそれらはあくまで司法によって厳重に管理されているからこそ成立しているものであり、この「合法的棄民」の論理のみが司法の管理の及ばない個人や共同体の不文律に援用された場合、死刑は容易に「私刑」へと姿を変えます。いじめも、誹謗中傷も、差別も、虐殺も、まずは自身の中で「やってもいい」と思える対象を定めることから始まるわけで、その思考様式に法的なお墨付きを与えてしまう死刑は、長期的に見た時に極めてリスクの高い刑罰と言えるのではないでしょうか。

 いろいろ書いてきましたが、ここまで展開してきたのはあくまで理念上の話であって、実現のために具体的な行動をとかそういう話ではないです。むしろ最大多数の納得と安心のためには、死刑制度は続けていくしかないと思っています。ただ、過度なまでに抑圧に敏感な社会において「排外」は「納得」と「安心」を求める大衆の要請に応じる形で顕在化してくるでしょう。その時我々が相対することになるのは強権を振るう独裁者ではなく、ワイドショーを観ながら「死刑囚に税金で飯を食わすな」とSNSに書き込む善良で素朴な庶民感情なのかもしれません。






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