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「生きる才能」

 THE BACK HORNが好きだ。自分にとってその感情は「好き」という言葉では足りないくらいで、敢えて陳腐な表現を使うなら「彼らの音楽に救われた」と言って差し支えないだろう。かれこれ十年以上使い続け、殆ど自身のペルソナと化しつつあるこの「エロ司」というHNも、元を辿ればVo.山田将司の名前から拝借したものであるし、所謂邦楽ロックと呼ばれるジャンルの中で、明確に箱単位で好きだと言えるバンドはバックホーンだけだ。俺にとってはナンバーガールもエルレガーデンもミッシェルもブランキーもシロップもアートスクールもイースタンユースでさえ、ただバックホーンの後に知ったという一点だけで、そこまでハマることができなかった。単純に曲が良いというだけではない、バックホーンがバックホーンであったがゆえに感じられる繋がりが、そこには確かにあったのだ。だからこそ、今月頭にリリースされた新曲の内容とそれに纏わるプロモーションのやり方に抱いたこの違和感を、ただの「炎上」や賛否両論の「否」、ましてや「お気持ち表明」といったような軽い言葉で矮小化されるのは絶対に違うと思ったし、ここだけは軽々しい否定を良しとせず、自由を何よりも重視する俺が、敢えて強い言葉で否定する必要があると思った。それは決して、彼らに考えを改めてほしいからではなく、あくまで彼らの作品に対して違和感を覚えてしまう自分に罪悪感を抱いている人たちの孤独を肯定するために。

 THE BACK HORNというバンドを語る上でどうしても付き纏うのは「初期のほうが良かった」という懐古的な視線だろう。社会のどこにも居場所を見出せないはぐれものの鬱屈を、獣のような剥き出しの荒々しさと、それとは対照的な繊細な言葉で表現する初期の彼らは、この二律背反性という点において、無二の輝きを放つバンドだった。「腐って死ね」とか「やらせろよあばずれ」のような一見無体に思える言葉たちも、彼らが表現することでまともに生きたくても生きられない人間の「異物の慟哭」という象徴的な意味を帯びるのだ。そして俺も、そんな彼らの表現によって自身の抱えてきた孤独の輪郭を知覚したファンのひとりだった。彼らの音楽に出会うまで、自分の世界には「失恋」「失敗」「裏切り」のような表層的な出来事に対して反応し生じる相対的孤独を表現した作品こそ存在していたものの、もっと根本的な世界との不和に基づく絶対的な孤独について言及するような作品は存在していなかった。その入口は人によって純文学であったり詩であったりと様々だが、俺にとってはそれがバックホーンの音楽だったのである。同じ孤独を抱えている人間が、自分以外にもいた。俺はひとりじゃない。ただ存在しているという事実そのものがここまで心強いとは思わなかった。

 また、名実ともに彼らの代表曲である「コバルトブルー」。この曲の存在も、俺が彼らに信を置いている理由のひとつだった。この曲のテーマは「特攻隊」。ハッキリ言ってしまうと、俺は基本政治的なテーマを掲げた曲が嫌いで、それは大抵曲に込められたメッセージ性が「〇〇反対」という大きなドグマのみに回収されてしまい、個人に向ける視点を欠いているように自分の目には映ってしまうからなのだが、この作品の凄いところは、特攻隊という本来であれば政治的にならざるを得ない題材を用いていながら、最後まで彼らの内面にだけフォーカスを当てているというところで、少なくともこの人たちは自らの主張のために、実際にそこに生きていた彼らの戦いを「無駄死に」や「犬死に」呼ばわりして無かったことにするような不誠実はしないのだと、心から安心したのを覚えている。

 そんなバックホーンの音楽も長いキャリアの中で変化し、初期の荒々しさや危うさは徐々に鳴りを潜め、反転した希望や普遍的な日常を奏でるようになっていった。そして同時に、そんな彼らを「日和った」と見做して失望し、離れていくファンも多かった。確かに俺も、好きな曲を問われれば初期に偏りこそするものの、「荒々しさ」や「初期衝動」という要素は表現者として明確に克服するべきものであるし、どんなに生きづらかろうと結局俺たちは生きていかなければならないという現実を考えると、いつまでも鬱屈した孤独を吐き散らしているのもやっぱり違う。だから彼らの音楽が前向きに変化していることは、少なくとも俺にとっては間違いなく喜ばしいことだった。そう、かつては「ひとり言」のような切迫感と焦燥感に塗れた内省的な曲を書いていた栄純が「クリオネ」で"もっと何気なく生きていける そんな気分なんだ"というフレーズを提示してきた時には、この先の人生に希望すら感じられたのだから。

 その後も、英語を使うようになったり、俗寄りの表現を使うようになるといった変化はあったが、彼らの音楽、表現に惹かれた理由の核である「異物感に基づく孤独」と「内面的な葛藤を無かったことにしない誠実さ」はずっと、彼らの作品の中に残っていた。特にそれは後年の山田が手掛けた楽曲に顕著で、「カナリア」の"俺は俺のままでいつでもお前のそばにいる"というフレーズや、「孤独を繋いで」という表題の秀逸さはまさしくバックホーンのバックホーン性を体現するものであったし、俗っぽい表現が多少耳につくようにはなったものの、栄純が手掛けた「金輪際」や「希望を鳴らせ」、「最後に残るもの」といった楽曲からもそれを少なからず感じ取ることができていた。だから、好む好まざるとにかかわらずこの先彼らがどんな作品を提示してきても漠然と受け容れられると思っていたし、THE BACK HORNは自分がいつでも帰ってこれる居場所だと、そう思っていたのだ。

 そんな矢先に発表された新曲「修羅場」。彼らの表現活動に一貫して通底する「光と影」をコンセプトに据えた企画の下に作られた「影」の部分を担う楽曲ということで、まさに彼らの描く「光と影」に惹かれた自分にとって否が応にも期待の高まる触れ込みであった。しかし、いざ配信が解禁されて聴いてみると、とてもあのバックホーンが表現する「影」とは思えない内容に呆然としてしまった。勿論、不倫というテーマで曲を書くことが倫理的に問題だとかそんな野暮なことを言うつもりはない。ただ、それを差し引いても、タイムラインに毎日流れてくる男女の口汚い罵り合いをそのままコピペしたかのような卑俗な会話劇を見せて、それをあたかも「人間の闇」であるかのように騙る欺瞞、ネットミームを使って嘲笑的に煽るような「頭だいじょぶそ?」のリフレイン、内面の葛藤を無かったことにする「メンヘラ野郎」という言葉、反転した前向きさも、救いも、目新しさもない無理心中という結末。なにもかもが自分が好きになり、希望を見出していた彼らの表現とはあまりに乖離したものであった。とうとうこの作品の中にはただの一つも、自分との繋がりを見つけることはできなかったのである。

 こんなことは初めてだった。この俺が、あのバックホーンの楽曲に対して「唾棄すべき駄曲」という気持ちすら抱いているのだ。信じたくないが、彼らが新曲として出してきた曲は、自分たちがこれまで発信してきたメッセージが掴んできたリスナーの心に背を向けるようなものだった。にもかかわらず、周囲の評判は概ね上々だった。さすがバックホーンとか、初期を彷彿とさせるダークな世界観みたいなことを書いているファンもそれなりに見たし、公式から出されたライナーノーツも「人間の心の闇を~」的なそんな論調だった。もちろん彼らの音楽の何に惹かれるかは個人差があるし、それについてどうこう言うつもりはさらさら無いが、十年以上聴いた上で全てを受け容れられると漠然と思っていた俺がそう受け取っている以上、きっと可視化されていない孤独がたくさんあるだろうとは踏んでいた。だってそうだろう。俺たちの心の葛藤を「メンヘラ」という言葉で片づけてきた奴らは決まって、上手に人込みを歩く靴を履いた、生きる才能に溢れた人たちだったのだから。

 果たしてその予感は、公式が投下したとあるプロモーションによって的中することとなる。そのプロモーションとは、Xで「あなたの修羅場体験」を募集するというものだった。いよいよもって違和感は確信へと変わる。当該企画のこのクローズドなやりとりをわざわざ表に引きずり出しネタとして消費するという趣旨は、俺の最も忌み嫌うインターネットの露悪性をそのままトレースしたような意図的な狂気の演出であり、かつての彼らの象徴でもあった、どうしようもない世界との不和に対する足掻きの末に結果的に表出される「狂気」とは似ても似つかないものだった。巷ではこれを公式の暴走と見做す意見も多く、俺もそうだと思いたいが、「修羅場」の歌詞やコンセプトを踏まえた上で公式がこのようなキャンペーンを打つことには寧ろ一定の合理性があり、そう考えると、やはりそもそもの作品に問題があったとしか俺には思えないのだ。

 繰り返すが、俺は彼らを炎上させたり、自分の思い通りに軌道修正させようとしてこの記事を書いているわけではない。別にこれから先も彼らを応援したいと思ったり、この曲を好きだと思う人がいるのも自由だと思う。しかし彼らがこの曲を発表し、あのプロモーション企画を打ったことで、かつて彼らが払拭してくれたはずの「異物感に基づく孤独」を、他ならぬ彼らのことで味わわされている人たちがいるという事実だけは、どうしても看過することができなかった。それは彼らの音楽に救われ、彼らのような表現活動をしていきたいと思った俺の気持ちをも裏切ることと同義だからだ。できればこんな形で叶えたくはなかったが、俺は俺の一番大切にしている言葉と文章で、あなたたちの違和感を肯定する。それが俺にできる最大限のTHE BACK HORNへの恩返しだ。






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