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愛しさを知るほどに老いてゆく


 恋愛脳と言うわけではないが、恋愛について考えることは多い。基本的に、何もしていない時はだいたい性愛か恋愛、もしくは暴力と差別について考えている。こう書いてしまうとただの異常者だが、単純に人と人との関わりの種類の中でも、より対象への強烈な指向性を帯びたものに興味があるというだけのことだ。幼稚園の頃、七夕の短冊に「好きな子と同じクラスになれますように」と書いたのが、自分の原初の恋愛感情だったと記憶している。小学校に上がると、朝礼台の上で衆目の中キスをするカップルが現れたりした。大人は子供のこういった特質を「早熟」と表現するが、成熟が早いというよりは、憧れという形で幼さが表出していると捉えた方が、より正確だろう。子供心ながらに、自身の触れるものから無意識のうちに「恋愛」は良いものだという社会のコードを、しっかり読み取っていたのである。

 本邦では、自制のままならない未成年のうちに性的なコンテンツを閲覧することは教育上危険と見做されているが、一方で自由恋愛は手放しに称賛される傾向がある。街中には「恋愛」を称揚するラブソングが流れ、「恋愛」を扱った作品の大半においては、想い人同士が紆余曲折の果てに結ばれるという結末が「ハッピーエンド」として描かれる。こういったお約束な展開を「ご都合主義」と揶揄する向きもあるが、全てが都合よく展開すればその結末に向かうだろうと考えている時点で、無意識的に恋愛至上主義的な価値観を内面化していると言えるだろう。正直、自分には行為者の欲望が対象の肉体に向けられるか、精神に向けられるか以外の差異を両者の間に認めることができず、未成年を「自制のままならない存在」と見做すのであれば、恋愛に関しても厳しい制限を設けなければならない筈だと考えてしまうのだが、性には常に「懐妊」という不可逆の結果と責任が付き纏うという一点が、恋愛を治外法権たらしめている。しかし「セックスは愛し合う者同士で行うもの」という不文律が社会に共有されている以上、内実はどうあれ愛と性の連続性は自明だ。そんな現状において喫緊の課題となるのは「性教育」ではなく、より包括的な「愛教育」ではないかと個人的には思うのである。

 一口に「愛教育」と言っても、愛の正しい在り方を教えることを目的とするものではない。それでは単なる「矯正」でしかなく、恋愛の善性を無責任に称揚する現在と本質的には何も変わらない。ここで言うところの「教育」とは、自身にとって何が「愛」に当たるのかを分析・考察させた上で、己の愛の形との向き合い方を共に考えていくことを指す。これは性教育についても同様のことが言えるが、紋切り型の「正しいこと」さえ教えておけばいいというのは、普段「解き方」を教え慣れている教育者の陥りがちな怠慢だ。いつだって我々個人にとって真にクリティカルな問題となっていたのは「正しさ」では包摂できない感情だったし、求めていたのはその適切な処理の仕方ではなかったか。

 恋愛映画やラブソングが恋愛を「無条件で楽しいもの」「素晴らしいもの」であると喧伝するのはその性質上当然であり、そういった文化に囲まれて育った人々が恋愛の無謬性に一切の疑念を持たないであろうことは想像に難くない。実際のところ、自分も自身の先天的な性質と「恋愛」という枠組みとの噛み合わせの悪さは感覚的に感じていたものの、上記の刷り込みによって、適合できない自分の側に問題があると長い間思い込んでいた。しかし、どう取り繕ってみたところで、恋愛が他者の内面に影響を及ぼす側面を持っていることは動かしがたい事実であり、行為が招来するインパクトの重大さに対して、そこに及ぶまでのハードルがあまりにも低すぎるという印象は否めない。昨今、DVやモラハラといった行為が度々問題視されているが、愛に対する考察を放棄しながら愛の無謬性を謳うということは、常にこういった「解釈違い」を招く危険を孕んでいると個人的には思うし、そのような状況の中で個々のケースを断罪してみたところでそれは、その場凌ぎの対症療法にしかならないであろう。

 別にラブソングや恋愛映画が嫌いなわけではないし、恋愛の地位を貶めたい意図が自身の内にあるわけでもない。誰かのことを想うだけで幸せだったり、そんな瞬間が確かに存在したことは未だ自身にとっての救済としてしっかり機能している。ただ、「自由意志を持つ他者への干渉」という側面を愛の無謬性で極限まで希釈したまま「恋愛」へと臨むことは、未成年がエッチな本を読む事よりよっぽど、将来的な他害性を内包する行為だと個人的には思う。だからこそ、自分は今日も恋愛について考える。優しい暴力を発露する瞬間をできるだけ間違えないために。好きな人にちゃんと拒絶の選択肢を残せるように。


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