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「デリヘルなんです。」


 都心では新型コロナウィルスが猛威を振るい始めていた昨年のGW。俺は矢面に立つ覚悟ひとつぶら下げて、五日間に渡る一人旅を敢行した。春先に完成した自著を友人の営む古本屋に届けに行くついでに、瀬戸内の町々を徒然に巡ってみようと衝動的に思い立ったのだ。尾道で深夜の商店街の静謐を軽やかに乱してみたり、キャリー片手に因島を徒歩で縦断したり、古色ゆかしき今治の街並みの猥雑を堪能したり、道後で懐かしのストリップ観覧に興じてみたり、瀬戸大橋線の車窓から望む島々の湛える神秘性に恍惚としたり。このようにダイジェストだけを取っても多くの見所に恵まれ、三十路最初の旅としては上出来過ぎる記憶に仕上がったわけだが、俺の脳裏に最も深く刻まれたのは上記のどれでもなく、時系列としては「エピローグ」とでも呼ぶべきであろう最終日の夕方に起きた、とある出来事だった。

 その日、本来前日に帰途に就いていた筈の俺は、悪天候のため一日の滞在延期を余儀なくされていた。宿泊先に選んだのは倉敷駅前のアパホテル。最終日ということもあり、部屋でリサーチしておいた手近なスーパー銭湯で旅の疲れを癒すという盤石の計画を実行に移すべく、意気揚々とエレベーターに飛び乗った。乗客は自分の他に女性が一人。歳の頃は二十代後半だろうか。華奢な体にゴシック調のコーディネートが印象に残っている。ほどなくしてそんな彼女の言葉が、唐突に静寂を破った。「服、めっちゃお洒落ですね。」確かその日俺が身に着けていたのは、春画をあしらった総柄のシャツと紫のフレアパンツに、レオパードのコンバースだったか。決して自分の装いが「お洒落」などと自惚れるつもりはないが、好きで着ている服を褒められて悪い気がする筈もない。そうして束の間、俺たちは他愛もない会話に花を咲かせた。ものの数十秒で着くはずの一階が、ほんの少しだけ遠く感じるほどに。だからこそ、惜別の情を懐いたのかもしれない。旅の恥も満足にかき捨てられない小心者の分際で「よかったらこれからご飯でも」なんて言葉が、気がつくと口をついて出ていた。すると彼女は少しバツが悪そうに、






「デリヘルなんです。」





 刹那、時が止まった。勿論それはセックスワーカーに対する安易な偏見に由来するものではない。状況から十分にその可能性を想定することができたにもかかわらず、彼女に「その言葉」を言わせてしまった無力感と自責の念が思考を支配し、言語野を硬直させたのだ。彼女もまた、その言葉の流れに身を任せるかのようにそそくさと迎えの車に乗り込んだかと思うと、あっという間に見えなくなってしまっていた。店の名前くらい聞いておけばよかったか、彼女には俺の硬直が浅薄な偏見に基づくものとして映ってしまわなかっただろうか、そんな思案が今更追いついてきた所で、周回遅れもいいところである。取り敢えず朧げながらに記憶していた身体的特徴だけを頼りに、片っ端からウェブサイトをあたってみたものの、彼女のプライバシーは「当店にそのような女性は在籍しておりません」と、譫言のように繰り返すばかりだった。

 全ては泡沫の夢。俺たち二人にとっては一階までのあの刹那こそが全てで、きっとこの先死ぬまで、再び交わることはないのだろう。ただ、求められる振る舞いを演じることが常なる商売を生業とする日々の中で、俺の装いを「お洒落」と言った彼女の言葉は紛れもない「彼女自身の言葉」であったという確かな事実が、明日からも俺を生かしてくれるような気がした。そんな諦めと喜びを心に忍ばせ、彼女が消えた方向とは真逆に歩みを進める。もう二度と重なることのない道の先にある、スーパー銭湯をまっすぐ見据えながら。

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