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優しさだけじゃ人は愛せないから

 「人から"優しい"と言われるような人は生きづらく、性格が悪い人ほど生きやすい世の中になっている。」時々、そういった旨のポストを目にすることがある。このような「良い人ほど損をする」的な言説は、潜在顧客である「繊細で優しい生きづらさを抱えた人々」に向けられたものであり、実際に多くの共感を呼んでいるわけだが、果たして本当にそうなのだろうか。自分も人から長所として「優しい」を挙げられることが多いタイプの人間であるが、同時に「あなたのそれは優しさではなく弱さだ」という手厳しい指摘も頂戴したことがあるし、そもそも自分自身が「優しい」という評価にピンと来ていないところもある。まずは「優しい」とはどのような状態を指しているのか、どうやらそこから再定義を図っていったほうがよさそうだ。

 「優しい」とは多義的な言葉である。遠い国で起こっている戦争や虐殺に心を痛め、世界平和を願うことも「優しさ」であるし、お年寄りや妊婦に席を譲るといった、他人に親切にすることもまた「優しさ」であろう。しかしこの「人から"優しい"と言われる人は生きづらい」という文言の中で参照されている「優しさ」は、それらの「優しさ」とは一線を画しているように思える。「生きづらさ」と結び付けられていることから考えるに、ここで言う「優しい」が指しているのは、概ね「他者に対して精神的コストを払い続けていくこと」と言ったところだろう。

 特定の事象に反応して発現する前二つの「優しさ」とは異なり、こちらの「優しさ」は人としての在り方そのものである。そしてもうひとつ言えるのは、この「在り方としての優しさ」の多くが、個々人の繊細さや脆さに由来しているということだ。この種の「優しさ」を持つ人々は、過去に受けた抑圧の経験を非常に高い解像度で内面化しており、それと同じものを他者が負ったり、自身が負わせることにも強いストレスを感じる傾向がある。つまり意志的に「優しくしている」のではなく「そうしなければいられない」と言ったような状態にあると言えるだろう。自分が人から「優しい」と言われてもいまいちピンと来ないのは、この「優しさ」に対する認識の相違によるところが大きい。

 それを前提に考えると「あなたのそれは優しさではなく弱さだ」という指摘は、ある意味では実に的を得たものだったと思う。おそらく発言者本人はメサイアコンプレックス的な傲慢を糾弾するつもりで言ったのだろうが、実は弱さに由来していることそれ自体は大した問題ではない。弱さであろうがなんだろうが、最終的に相手にとってプラスに働くならばそれはそれでひとつの「優しさ」なのであり、うまくいかなかったのならそれは言うなれば「弱さの着地点」を見誤ってしまっただけなのだ。だからこそ己の弱さを恥じ、憎むのではなく、この「弱さ」を以っていかに他人に資するかを考えていく姿勢こそが重要なのではないかと自分は思う。

 以上を踏まえた上で、この「他者に対する精神的なコストを支払い続けていくこと」によって示される在り方としての優しさは果たして本当に生きづらく、対してそのコストを踏み倒し続ける「性格の悪い人」は果たして本当に生きやすいと言えるのだろうか。否、断じて否である。なぜなら、在り方としての優しさを生きる我々にとっては、他者に対する精神的なコストを踏み倒していくことの方が断然苦痛に感じることは自明であるし、何よりこの「弱さ」があるからこそ我々は、大切な人を不用意に傷つけずに済んでいるのだから。反対にここで言うところの「性格の悪い人」に関して言えば、たしかに表面上はうまくやっているように見えるかもしれないが、実態はただ「見えていない」というだけに過ぎず、本来必要な手続きをスキップすることで生じるツケは着実に蓄積していく。見えていなければ人は、どこまでも豪胆になれるのだ。しかしそんな極度の鈍感に裏付けられた「生きやすさ」など、こちらから願い下げである。

 「優しい人は損だ」とか「身勝手な人間ばかりが得をする」とか、そう思いたくなる気持ちは理解できる。できるが、自分はそれに同調するつもりはないし、むざむざ納得してやるつもりもない。絶対に、優しいことが損なわけがないし、繊細であることが罪なわけがないのだ。しかし、それをそのまま発露するだけでは壊れやすく、与しやすいという印象を与えてしまうこともまた事実だろう。だからこそ、条件付けによる対象の厳選や意識的な互助の実践といった、自身の「優しさ」や「繊細さ」を適切に運用するためのシステムを構築することで、着地の精度を少しずつ高めていくことが肝要になるのである。それは決して「まともに」生きていくためなどではなく、自分にとって本当に大切なものを取りこぼさないようにするために。

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