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We're lost in a "tasquerade"


 昨年秋に、軽度のADHDと診断されました。思い当たる節はいくらでもあったので、診断そのものに対して抱いた感想は「ですよね」くらいの素っ気無いものではあったものの、長年悩まされていた自身の不具合に正式な病名が付いたことで、常に張り詰めていた気を少しだけ、緩めることができるようになりました。薬はストラテラを処方して貰いましたが、あろうことか服用を始めて僅か一日で不能の兆候が表れたので怖くなって辞めました。今は何も飲んでいません。

 というわけで、今回は三十年来の悪縁であるADHDについて書いていこうと思うのですが、そうは言っても「発達障害大国」と呼ばれて久しい本邦のインターネットにおいて「ADHD患者が生きづらさを語る」という趣旨の文章には皆様も些か食傷気味のことかと思いますので、自分も今一度「でも、明るい。」のマインドを取り戻し、自己紹介くらいのテンションでざっくばらんと話せたらと考えています。

自分のADHDから見えている世界は、一言で表すとこんな感じです。

「好きなこと以外全部タスク」

 この「全部」というのは、誇張や比喩ではなく掛け値なしの「全て」を指しています。一般的に「タスク」と言った場合、ドキュメント作成など、仕事に関わることが当て嵌まるかと思います。一方で、これが自分の場合だと例えば「咀嚼」といったことが「タスク」に認定されてしまいます。にわかには信じ難いことかもしれませんが、噛むということは「仕事」なのです。食べ物の中でとりわけ麺類を好んで食べるのは、啜ることで咀嚼を最小限に抑えられるからという理由に他なりません。このように咀嚼ですらタスクと認識しているわけですから、当然、殻を剥く、骨を取り除くといった作業などもっての外です。なので世間一般のカニを有難がる風潮が、自分にはよくわかりません。温泉旅館等の広告でよく用いられる「カニ食べ放題」の惹句は、自分的には「サービス残業」とほぼ同義です。

 この世に遍在するありとあらゆる手続きがタスクです。各種公共料金の支払い、病院や美容院の予約から、アプリをダウンロードして割引クーポンを取得するといった些細なアクションまで余すことなくタスクです。自分にとっては、実行までにワンアクション以上を経由する行為の全てがタスクです。頑なにクーポンを使わないことについては、割引分の手数料を払って手続きのフェイズをスキップしていると強弁することで、無理やり整合性を取っています。メルカリで購入したものが一向に送られて来なくても、キャンセルの詳細な理由を記載することがタスクなので取引のキャンセルはしません。また、自身の中では比較的「好きなもの」の部類に当てはまるライブであっても、どうしても観たいバンドや内容のものについては頑張れますが、イープラスにログインして購入、予約番号を発行し、コンビニで発券するというあの一連の作業があまりにも煩雑すぎて、ニュートラルな状態では相当ハードルが高いです。そういった意味では、演者に直接取り置きをお願いすればそれで成立するインディーズのライブや、当日入場料を払えば観覧可能なストリップは、今考えると自分の特性に合っていたのだと思います。

 実は、本を読むことも、映画を観ることもタスクです。全く読めない、観れないというわけではないのですが、気付くといつの間にか内容ではなく、文字や画面を追ってしまっているというような状態です。意識が途切れるたびに何度も巻き戻しや読み返しが発生するため、なかなか先に進みません。同じ書籍でも漫画については絵と文章の両方で内容を補完できるためギリギリ読むことができていますが、最近はこちらも完全に新規のものは厳しくなってきました。にもかかわらず、どういうわけか文章を書くことに関しては上記のアクティビティと比較してそこまでタスクと感じてはいないようです。自分の中で、文章を書くということは「好き」というより「やめられない」という感覚に近いのですが、もしかするとここだけは例外なのかもしれません。そもそも殆ど本を読めないのに文章は書くことができる理屈についても、よくわかっていないというのが正直なところです。あえて分析するなら、これまで読んだ漫画の台詞や文章のパターンを記憶し、そこから学習・感得しているといったところでしょうか。それゆえか否かはわかりませんが、心情描写を得意とする反面、視覚を代弁する情景描写的な表現技法や語彙については貧困に由来する不自由さを抱えており、そこが自分に「詩」や「評論」は書けても「小説」は書けないと考えている最大の理由となっています。

 文章中でも何度か触れていますが、これら全てのタスクは「やろう」と意識することによって実行すること自体は可能です。しかし、もうお気づきかと思いますが、「やろう」と意識することすらも、自分にとってはタスクなのです。要はやらない/やる以前に「プリインストールされていない」と考えていただければ、イメージとしては伝わりやすいかなと思います。

 他にも細かい特性や拘りなどはありますが、この体で三十年間生きてきた自分の実感としてのADHDは概ねこんな感じです。たまに自身の状況を冷静に俯瞰するたびに「社会、無理では」という諦念が顔を出しますが、己のできること、できないことを予め詳細に分析した上で、数少ない「できること」に支えられたピーキーな性能を交渉材料に折衝し、コミュニティ内に独自のポジションを確立することで、今日まで何とかサバイブすることができました。勿論、ツイッターやここでの活動もその「できること」のうちの一つです。正直「普通」に生活を送ることができるならこんな能力など要らなかったと、腐りそうになる瞬間は眠れない夜の数だけありましたが、それも最終的に愛することができるようになったのは、そんな自分の出力を「好き」だと言ってくれる皆様がいてくれたからに他なりません。そんな大切な人たちに自分が何を返せるかといったら結局、生きて出力し続けていくことしかないんですよね。なのでこれからもこの難儀な命を、こいつまたなんかやってるな、くらいの温度感で見守っていてくれたら嬉しいです。



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