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僕らが散歩に出る理由

 自身がライフワークとしているものの一つとして「散歩」がある。

 趣味が散歩と言うと、近所を一時間くらい歩いて帰ってくる的ようなライトなものをイメージされやすいようで「老人かよ」といったツッコミを頂戴することもあるが、これについては「散歩」以外になかなか適当な言葉が見つからないため便宜上「散歩」と呼称しているだけであって、その実態は貴重な休日を丸一日使い、適当に途中下車した知らない土地を、目的地もないまま時間が許す限りただ歩き倒すという、やさしいデスマーチとでも呼ぶべき代物だ。では、なぜこんな人によっては苦行としか取れないようなことを、数年にもわたって続けているのか。一応何の理由もなくただ虚無をやっているわけではないので、ここらで少し言語化を試みてみようと思う。

 人が一生のうちに通る道はどれだけあるだろう。恐らく全く意識せずに暮らしていれば、その数はかなり限定されてくる筈だ。通学路、通勤路、小さい頃よく遊んだ公園、夕飯の買い物に寄るスーパー、学校帰りにたむろしたコンビニ、バイトしていた飲食店、かかりつけの町医者、駅前のいつもの居酒屋。人間がいればその数だけ生活圏があり、日々のルーティンの中で誰もがそこから殆どはみ出すことなく生き、死んでいく。勿論、そこから逸脱しようとするムーブの一つとして「旅行」というものもあるが、これはあくまで「日常からの離脱」と「非日常の希求」という点に主眼が置かれており、目的地とする場所も日常とは一線を画した華やいだ観光地であることが多い。

 一方で自分の言うところの「散歩」は、意図的に自身の生活圏を逸脱しながらもそこから「他者の生活圏」へと次々飛び移っていくという性質のものであり、その主たる目的のひとつは「普通に生きていたら一生通ることのなかった道を通ること」にある。例えば、有名観光地や主要都市部といった各所からのアクセスが良好なエリアであればともかく、高台に位置する閑静な住宅街や、駅からバスで20分かかる地域密着型の商店街といった、おそらくそこに住む人々以外は利用しないであろう極めてローカルかつガラパゴスなエリアについては「本来の世界線において自分がいるはずのない場所」と言っても差し支えはないだろう。

 ここで少し考えてみてほしい。たまたまこの日に自分が「歩こう」という気まぐれを起こしたことで、本来いる筈の無かった場所に自分が「いる」という状況が生まれた、ということに気が付いただろうか。そう、この瞬間、運命は分岐したのである。これまで創作の世界でしか実現し得なかった、平行世界間を移動したり、未来を改変するといったチート能力を、ただ歩くだけで手軽に行使することができる、そんなロマンが散歩には溢れているのだ。

 先ほど、人の数だけ生活圏があるという話をしたが、知らない街を散歩する、ということは自身と全く接点のない赤の他人の生活圏に侵入し、その暮らしを擬似体験することでもある。会社帰りに電車の車窓を流れる無数の灯りをボーっと眺めていると、この灯り一つ一つの下に各々の生活があって、人生があるんだよな、というようなことを考えては途方も無い気持ちに駆られることがあった。

 言葉にすればごく当たり前のことだが、自分にとっての「他者」が他者その人にとっては主体的な意思を持った「自分」であるという事実を確かな実感を伴って体験するような機会は、一生の中で意外と少ないように思う。実際、頭の中で理解はしているつもりでも、油断すると人はついつい他者が自分と同一の価値基準の中で生きていることを前提に話を進めてしまいがちだ。「ヨソはヨソ、ウチはウチ」。子供のころは両親の口から巧みに繰り出されるこの定型句の前に幾度も涙を呑んだものだが、今になって振り返ってみると実に含蓄に富んだ金言である。各所で紛糾する「ハラスメント」という言葉に括られる問題の根底にはこの「他者視点の欠如」が潜んでいると見て間違いないだろう。

 とはいえ、何から何まで他者に配慮しているようでは有益なコミュニケーションなど成立しようもないので、自身の立場や相手との関係性に配慮しながらも時には敢えてそれを無視し、絶えず変化する状況の中でタイミングを計りつつ常に最善手を打ち続けていくことが要請される。

 「HUNTER×HUNTER」のキメラアント編におけるネテロと「王」の人知を超えた攻防に魅せられた読者は多いだろうが、生来のコミュニケーション能力弱者にとって「他者との交流」というものは常にあのようなイメージである。ネテロは気の遠くなるほどの年月に及ぶ反復の果てにようやく百式観音を開眼し、個の極みへと到達したが、一方で「王」は生後間もない状態でありながら、学習能力だけでそれを凌駕してしまった。正味な話、コミュニケーションにおける弱者と強者の間にはそれほどの隔たりが横たわっている。全ての生物の頂点に立つべく生を受けた「王」に勝つことはできなくとも、一方的に蹂躙されない対等な存在として対峙するためには、定期的にこの他者視点という想像力をチューニングしておく必要がある。

 その点において、知らない街を歩き、自己を未知の生活圏と同期させていくことは、自分とは一切関係の無い赤の他人もそれぞれが自分の人生を主体的に生きているのだという実感を獲得するための一つの有効な手段といえる。それは例えば、中学生くらいの男の子に「あらまあ大きくなって」と感慨深げに声を掛けるおばちゃんだったり、住宅街に漂う夕食の匂いだったり、自転車に乗った小学生の口ずさむ安直かつ字余り気味な替え歌だったり、商店街の肉屋で買った揚げたてのハムカツの味だったり、喫茶店のアクリルのドアを開けるときの手応えだったり。どれもこれも、その場所に無関係な存在である自身にとってはどうということもない、意識していなければ見逃してしまうような現象に過ぎないが、そこで暮らす人々にとっては紛れもなく当事者的なリアルであり、その土地に染み付いた生活の柄だ。この街々に溢れる「営みのコード」を読み取り、そこに暮らす人々に思いを馳せながら歩くことで、自分は今日も人間として関係性の中で生きていくことができるのである。

最後の目的として、「幸福の閾値の拡張」が挙げられる。これが自分にとって最も重要な要素かもしれない。現在、自分はネットワークエンジニアとして働いているが、この職業に就くにあたってネットワークの基礎を勉強していく中で、最も自分にクリティカルに刺さったのがこの「冗長化」という概念だった。その心は、重要な機器は基本複数台で運用し、障害発生時は即座に切り替えることで通信断を予防するというネットワーク構築における基本思想なわけだが、これからの時代を生きていく上でこの発想は割と重要なヒントになるような気がした。

 個人的な見解だが、現状を見るにつけ、我々がこれまで信奉してきた資本主義的な「相対的幸福」というのはとっくに限界に到達しているように思う。金を稼ぎ、家を買い、車を買い、家庭を築く。これらの営為に代表される従来までの幸福の在り方は、好況の中でこそ先導者としての効用が期待されるのであって、経済的停滞に陥って久しい現在の日本社会においては分断と対立を煽るだけの扇動者にしかなり得ない。競争率の跳ね上がる中、数少ない資源を限られた者だけが勝ち取り、そこからあぶれた大多数が怨嗟の声を上げる。この徹底した実力至上主義の下に立脚する相対的幸福のみを心の拠り所とすることは、ネットワークにおける迂回路を持たない単一障害点と同様の危険性を孕んでいる。そこで「冗長化」の出番だ。市場の相場に依拠する相対的幸福と同時に、自己の価値判断のみに依拠する絶対的幸福を掛け持ちで運用することで、相対的幸福にコミットできなかった際のダメージを最小限に止め、精神状態のリカバリを限りなく早める効果が期待できる。

 一体それが散歩と何の関係があるのかという話だが、自分がこの絶対的幸福を形成する上でこの「散歩」が重要なファクターになったという話にちゃんと繋がるので安心してほしい。とはいえ勿論、ただ漫然と歩いているだけで散歩が楽しいと思うに至ったわけではない。珍奇テキストやタイポグラフィ、サイバーパンクを感じるネオン看板、エフェクターボードさながら整然と配列されたガス・電気メーターと給湯器、レトロなデザインのビル、あからさまな居抜き物件に超芸術トマソン。景色を行き過ぎる背景ではなく情報として捉え、日常に擬態した些細な違和感を自身の語彙を用いて解釈することで、一見何の変哲もないただの道に自分だけの楽しみを見出した時、散歩は初めて自分にとっての絶対的幸福となった。

 「歩いているだけで楽しい」この境地まで辿り着いたなら、予め用意された「幸福」に縋りつき、一人路頭に迷うことを恐れる必要はない。なぜなら路頭は既に、自分にとって新しい刺激に満ちたパラダイスとなっているのだから。散歩は、これからの世界をサバイブしていくための最高のソリューションだ。






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