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real emotion

 「エモい」という言葉が人口に膾炙するようになって久しい。おそらくその源流は音楽にあり、十年ほど前からライブハウスや終演後の居酒屋などで局地的に耳にしていた言葉ではありましたが、まさかここまで覇権を握ることになるとは想像だにしていませんでした。実際のところ、自分の中の「エモい」は未だに「eastern youthを評する時に用いられる語彙のひとつ」という認識で止まっています。「一切合切太陽みたいに輝く」とか「雨曝しなら濡れるがいいさ」とか好きです。

 とはいえ、手掛けている創作の性質上、この言葉が氾濫することによって生じ得る問題を避けて通ることができないのもまた事実でしょう。率直に言ってしまうと、俗語を用いた文語表現を個人的に好まないというだけで、口語においては割と抵抗なく流行語を使いますし、言葉とは時代を映す鏡であると考えているため「けしからん」といった保守的な感情もありません。代謝の過程で頓智の利いたものが出てくれば「なるほど、そうくるか」と楽しくなりますし、今まで表現する術を持たなかった感情にひとつの輪郭が与えられた瞬間の喜びは、他には代え難いものがあります。とはいえ、どうせ使うなら「原義」を舐め尽くした上でその言葉の効用を十全に享受した方が得だと思うんですよね。一番「エモい」であろう瞬間に万感を込めた「エモい」を発することができたら、たぶん最高に気持ちいいですよ。そんなわけで今回の記事では、「エモい」ポエムを書き続けてきた筆者が、今一度言葉としての「エモい」に向き合い、読者の皆様に「エモい」の最も効果的な使い方を提案する、そんな趣向でいってみようかなと思います。

 ではさっそく「エモい」をどのような場面で使うことが最大効用となり得るのかを考えていくわけですが、そのためにはまず「エモい」の定義を明らかにしておく必要があります。まだ新しい言葉ゆえ、辞書やウィキペディアには曖昧な定義しか記されていないため、ここではそれらを踏まえた上で自身の体感に基づく私見を述べてみようかと。思うに「エモい」というのは「既視感」なんですよね。つまりは、記憶領域にアーカイブされている物語の登場人物やプロットに、自分自身や出来事、情景を投影しているわけです。そうなれば当然、物語から過去の出来事や情景が想起されるという逆のパターンもあり得ます。一昔前には「青春」や「アオハル」と呼ばれていた概念が、感覚的には最も近いかもしれません。ゆえに、映画を観たり音楽を聴くといった体験を通して受動的に「エモい」が発される場合、それは言葉の効用を最大限享受できていると言っても差し支えはないでしょう。しかし、前者の効用を期待して能動的に「エモい」が発される場合、例えば、夜の海岸で男女混合のグループが線香花火をしている最中に内一人が「エモいね。」と言う、そんな状況を仮定するなら、この場合は残念ながら「エモい」という言葉の真価が最大限発揮されていない、と個人的には考えます。要はその場で「エモい」と言ってしまうと、それは「メタ発言」になってしまうんですよね。大前提として、何らかのエモーショナルが醸成されているような時、登場人物たちはその瞬間に没入している筈なんですよ。映画でも「エモい」と言われるシーンは大抵回想だったり、モノローグが入ったりしますよね。ここには「時制」の問題が深く関わっています。

 実は「エモい」という言葉が最も真価を発揮するシチュエーションは、「現在進行形」ではなく「過去完了形」なんですよね。そう、皆さんが高校生だった頃、誰もが一度は頭を抱えたあの「had+過去分詞」です。しばしば「〜した時、〜だった」という形で使われるこの過去完了形は、現在時点での自身と過去の間に存在する明確な断絶、即ち「不可逆性」を強調する文法であると言えるでしょう。つまり「エモさ」とはその過去完了的な性質ゆえ、出来事の発生時点から感情の発生時点までのラグが大きければ大きいほど増幅していくということになります。だから当事者がその場で「エモいね。」と会話するより、後々「あの時はエモかったね。」と回顧する方が、理論上は「エモく」なるわけです。これを自分は「神田川の法則」と呼んでいるのですが、伝わりますでしょうか。かぐや姫の楽曲「神田川」に登場する「あなた」と「私」は、回想されている過去の時点では「青春」や「若さ」を全く自覚していないんですよね。彼らはあくまでも、ただその瞬間のリアルを生きていたに過ぎない。しかし、そんな結果的な出力であったからこそ「回想」という歌詞の形式が存分に活かされ、「神田川」は歌謡史にその名を刻む名曲たり得たわけです。

 「エモいは過去完了」、何となくイメージだけでも掴んで貰えましたでしょうか。もしあなたがこの先「エモい」と言いたくなる場面に遭遇しても、その場はグッと堪えて、エモーショナルを醸成する舞台装置の一部として、それぞれの与えられた役割に徹してみてください。そして数ヶ月あるいは数年寝かせた後、満を持して「あの時はエモかったね。」と発してみてください。その瞬間、「エモい」は言葉という枠さえ逸脱し、ひとつの「経験的記憶」として、あなたの人生の血肉となるはずですから。



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