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実家暮らしのトポフィリア

 自分は「帰省」を知らない。両親共に横須賀出身で、親類の殆どは神奈川に集中しており、実家は母方の祖父母との二世帯同居。そして何より自分自身が未だ実家に暮らしているということが大きいだろう。帰省に関しては門外漢でも、寄生に関してはちょっとした権威である。冗談はさておき、そういった経緯から自身の「帰省」に対する憧れは人一倍強いものがあったと思う。蝉時雨を遠くに聞きながら畦道を行くと優しい祖父母が笑顔で迎えてくれる、そんなありきたりな心象風景。しかし、自分にとって旅とはずっと、あらゆるしがらみや抑圧から自身を逃れさせてくれるものであったために、帰省そのものが持つ「受け容れられることを前提とした旅」というニュアンス自体が、そもそもイメージし辛いものであった。

 そんな自分がここ数年、毎年実家から帰省している場所がある。それが岐阜と尾道だ。本来、一度訪れた旅行先に毎年のように行くということはなかなか考えにくいことであり、実際の所どちらも最初に訪れた際には、自分の中にそんな予感は微塵もなかった。にもかかわらず、自身を取り巻く数奇な縁が巡り巡ってこの二ヶ所に収束していった結果、岐阜と尾道は自身にとって初めての「帰省先」となったのである。

岐阜

 そもそも実際に岐阜を訪れるまで、自分は「岐阜」という場所に対するイメージをひとつも持っていなかった。名古屋からたったの二十五分で行けることも、かつてアパレルの街として隆盛を極めていたことも、県庁所在地の駅前に堂々と中部地方最大の風俗街が現存していることも、ご当地ソングの元祖と名高い「柳ケ瀬ブルース」の舞台となった商店街や歓楽街のことも、何ひとつ知らなかったのである。そんな自分がなぜ岐阜を訪れることになったのか。それは七年ほど前、赤線・遊郭跡を巡る当時の趣味の延長で今は無き「丸川センター」の存在を知ったのがきっかけだった。うらぶれた横丁を煌々と照らす三色の五輪ネオン。そのあまりにもキッチュでアイコニックな光景をタイムラインで目にした瞬間に、自分の中で「岐阜」が初めて意味を持つ言葉になったのだ。あの場所を現存中、しかもネオンが灯っている間に訪れることができたことは、自分の人生の中でも屈指の僥倖だったと思う。

柳ヶ瀬・丸川センター

 次に訪れたのはその約二か月後、主に関東や東北の珍スポットを巡るバスツアー「終末オトナ遠足」のスピンオフ企画「終末オトナ遠足関西支部」のオフ会に参加するためであった。そしてこのときに集った人々が、殆どそのまま現メンバーの母体となっている。マイクロバスをチャーターして向かった先は「養老ランド」「養老天命反転地」「岐阜レトロミュージアム」「古井の天狗山」。さらに打ち上げは「パブレスト百万ドル」という盤石のラインナップ。まさご座にて自分の人生における"終身名誉ファム・ファタル"ことアキラ嬢との邂逅を果たしたことも忘れてはならない。この頃には既に、岐阜という地に秘められた底知れぬポテンシャルの虜になっていた。

 その後、自身に空前の盆踊りブームが到来。美濃加茂の盆踊りで「ダンシング・ヒーロー」や「おさかな天国」を踊ったり、郡上踊りの徹夜踊りに参加するのが恒例となり、友人が展示を柳ケ瀬のビッカフェでやるようになってからは、多い時は月イチのペースで横須賀から岐阜まで通っていたと思う。もはや自分にとっての二十代後半は岐阜と共にあったと言って差し支えないだろう。コロナ禍を経て一旦足は遠のいたものの、友人たちの展示再開をきっかけにまた集まるようになり、昨年にはその友人の代打と言う形で、自身がビッカフェでグループ展を開催するに至る。

 生まれも育ちも横須賀で、岐阜を意識さえすることなく四半世紀を生きてきた自分が、自身初の作品展をまさか岐阜で開催することになろうとは、いったい誰に予想できただろうか。そもそもクリエイターとしての実績や界隈との繋がりがあるわけでもない一介の素人である自分に展示の代打を任せてくれるのは、世の中広しと言えどビッカフェくらいのものだろう。基本的に自分にとって創作とは己を生かすためにする「私」の領域に属するものであり、だからこそ今後も物書きとして世に打って出るつもりはないのだが、そんな自分が公の場に作品を提供する時は、相手の気持ちに報いたいと心から思った時だけと決めている。実際友人たちに展示の概要を伝えた時、開催地が岐阜であることを相当訝られたが、自分にとってはビッカフェでやることにこそ意味があったのだ。

 代打を打診された時、自分は少し悩んでいた。自身の手持ちで展示に耐えうるだけのエンタメ性が期待できるのはボ性連の「ボロアパートポエム」だけだったが、せっかくの機会に既存の作品の焼き直しのような展示だったり、内容が簡単に想像できる展示になってしまうのは避けたかったし、唯一の注文であるワークショップとの噛み合わせもあまり良くないだろうと感じていたからだ。そこで思い出したのが、以前Twitterに投稿していた「CDのジャケットっぽい写真」だった。自分の撮った写真をCDのジャケットに見立て、収録曲を妄想する遊び。このテーマであれば趣旨はわかっても内容までは簡単に想像できないし、ワークショップと組み合わせることでより奥行きを持たせられそうだと思った。これならいける、そう確信し、友人の展示の打ち上げの席でその構想を話していると、突然「僕、それ収録曲じゃなくてバンドでやってました」という声が。なんと、たまたま友人の展示を観に来ていたお客さんの一人が、過去に全く同じ観点で別の角度からのアプローチを試みていたという。一瞬仕込みを疑うほど、あまりに出来すぎた流れだった。即座に展示への協力を依頼し、ワークショップの監修を買って出てくれた友人と共に「KAKUU RECORDS」というユニットを結成、かくしてグループ展「幻聴推敲展」の企画は動き出したのである。

幻聴推敲展・フライヤー

 まず写真を選定することから始まり、自分が表題をつける。そこから彼がバンドのパーソナリティや音楽性を抽出し、それらの要素を基に今度は自分が収録曲を逆算する。KAKUU RECORDSの基本制作過程はこのような感じだった。他者のアイデアを噛ませることで、自分一人の想像力では辿り着けない出力が生まれる楽しさ。これこそがグループ展の醍醐味だろう。その推進力に筆を任せ、最終的には架空のライブのフライヤー、架空の歌詞カード、架空の音楽雑誌のインタビュー記事、架空のツアー日程を作成するまでに至ったが、個人的に一番のお気に入りはインタビュー。自身に蓄積した「音楽あるある」的ナレッジの全てを詰め込んだ集成的作品になったと自負している。また、唯一の注文であったワークショップも友人の完璧な監修により、白紙の「バンド履歴書」にくじ引きで引いたキーワードを基に架空のバンドの沿革を書き込み、最後はアーティスト写真も撮影して発表するという、架空と現実を見事に交差させた珠玉のアクティビティへと仕上がり、テーマ的にも盛り上がり的にも、展示を締めくくる最後の1ピースとして申し分ないものとなった。協力してくれた友人たち、機会とスペースを提供してくれたビッカフェ、来場者の皆様には、この場を借りて改めてお礼を申し上げたい。本当にありがとう。

 そして、これはつい最近の話ではあるが一連の繋がりとは全く無関係の東京で知り合った友人が実は岐阜の出身で、ずっとビッカフェの隣の古着屋で働いていたことも明らかになった。尾道の話でも少し触れるが、とにかく自分はこういうことが本当に多い。大阪の文フリに出展した際友人に「この人面白いから見に行ってみて」と紹介された人が偶然隣のブースだったり、関西支部のメンバーで偶然遊びに行ったマイナースポットが、仲良くなった人の実家のすぐ側だったり。そしてこういった縁で結ばれた人はもれなくどこかに自分と近い波長を持っていて、他人との深い関わりが苦手な自分をして末永く付き合っていきたいと思わしめるような人ばかりなのだ。それはまるで貫いてきた生き方が共鳴しているような、自分にとって何にも代えがたい心地よい感覚である。

 そういった経験の果てに、岐阜は自分の「帰る場所」になった。岐阜駅から玉宮通りを歩き、金神社の脇を抜けて柳ケ瀬商店街に入っていく時「帰ってきたな」という実感がしみじみと湧いてくる。最初は「面白いところに行きたい」がモチベーションだった。それが今では「みんなに会いたい」というモチベーションが自分を動かしている。手段だったものは、いつの間にか目的そのものになっていたのだ。そんな繋がりもあるということを知っているから、自分はきっとこれからも人と関わることを諦めずにいられるのだろう。

尾道

 今や自分にとっては代名詞となりつつある尾道も、たったひとつのきっかけ無しでは恐らく訪れることすらなかった場所である。あれも確か七年ほど前。ちょうど自らが立ち上げた「ボロアパートで性交を!市民連合(以下:ボ性連)」という試みがある程度周知され、軌道に乗り始めていた頃、とあるポエムツイートに一つの引用コメントが付いた。「エロ司さん、阿保だなあ。この雰囲気のまま本出したら欲しい。」これが今でも一言一句違わず思い出せる、弐拾dB藤井とのファーストコンタクトであった。深夜営業の古書店の店主が、自分の出す本を「欲しい」と言っている。正直かなり舞い上がっていたと思う。当時の自分はまだSNSの承認欲求に憑りつかれており、ボ性連で本邦のサブカルチャー界を席捲しようと息巻いていたこともあって、その最中に垂れてきた「古書店店主のお墨付き」という蜘蛛の糸は、後押しとして相当に頼もしいものであった。ここは何としてもコネクションを作っておきたいところ。急いで草稿を作成し、尾道へ向かった。そう、自分が尾道を訪れることになる最初のきっかけは、極めて打算的な思惑だったのだ。

 初めて訪ねた時、弐拾dBはまだ路地裏の古書店だった。看板も今のようなスタイリッシュなものではなく、黒電話を分解して木枠に収めたような、だいぶ前衛的なデザインだったのを覚えている。土曜の訪問につき、店は日中営業。初めて会った藤井君の第一印象は「古書店店主」「中也アイコン」「癖の強い文体」に由来するある種の先入観を良い意味で裏切る好青年だったが、実際に話してみると先入観そのままどころか、その数倍もの難儀な性を抱えた偏屈店主であることが明らかになるまでそう時間は掛からなかった。よくよく考えてみれば、ボ性連のフォロワーを名乗る人物の出力が、シンプルな好青年に納まる筈がないのだ。さっそく持参した草稿を見せると、反応は上々。「完成したら是非読ませてください」という言葉まで貰い、気分はまさにこの世の春。まさかこの春が僅か数か月後に突如として終わりを迎えることになろうとは。そして帰り際、伊達男の藤井君は宿も取らずに来訪した自分のためにホテル「港屋」の一室を抑えてくれた。今でも宿無しの客に港屋を斡旋するこの定番のムーブに遭遇すると、当時のことを思い出して懐かしくなっていたりする。

弐拾dB・初代看板

 「その時」は前触れもなくやってきた。爆サイでの炎上とそれに伴う違反報告の嵐により「エロ司」はアカウント凍結の憂き目に遭い、同時にボ性連の活動も停滞を余儀なくされたのだ。本を出すという藤井君との約束も少しずつ霞み始めていたが、大勢抱えていたフォロワーを失いこれ以上コンテンツとしての拡がりを期待できないボ性連に対する自身の興味は、もはや風前の灯となっていた。とはいえ承認欲求との適切な距離の取り方を知る契機となったこの休眠期間なくして、本当の意味で自著を完成させることは叶わなかっただろう。

 時は流れ、世間がコロナ禍の真っ只中にあった2021年。「ステイホーム」と「不要不急の自粛」という自身にとって致命的な要請を突き付けられたことで方向性が鮮明になり、己のやるべきはコンテンツの普及ではなく自己の受容であったことがわかった。徹底的に己の傷に対峙し、ひとつひとつ赦していくことで編み上げた"痛みの奇書"「私家版ボ性大全」。自ら立ち上げたコンテンツの集大成として、これ以上のものはないと自信を持って断言できる出来だった。そしてもはや自身そのものとも言えるこの作品を置いて貰うのは、ただ一人自分のポエムを読んで「本が出たら欲しい」と言ってくれた、藤井君の弐拾dB以外には考えられなかった。在庫をキャリーバックに詰め、いざ再びの尾道へ。

 アカウントの凍結以来、藤井君とは一切の連絡を取っていなかった。確かにやり取りの少ないアカウントの表示回数が減るTwitterのアルゴリズム変更はあったものの、あれだけ意気揚々と構想をひけらかしておきながら、いつまでも執筆に取り掛かることができなかったことに対する後ろめたさが、疎遠に拍車をかけていたことは間違いないだろう。いくら約束があったとは言え、それはせいぜい一、二年の期間を想定したもの。「自著を取り扱ってほしい」という忌憚のない要求を再び口にするには、四年という月日は些か長すぎた。開いてしまった距離を縮めるにはもう、恥を掻き捨てて直接売り込みに行くしかない。ぶっつけ本番、あの日貰った言葉ひとつぶらさげて、以前に比べだいぶ見通しの良くなった弐拾dBの門を潜る。「久しぶり。本、できたから持ってきたんだけど…」突然の訪問にはじめは番台で呆気にとられていた藤井君だったが、拙著を一読すると二つ返事で納品を快諾してくれた。四年という月日を経ても、伊達男は伊達男のままだった。

 それからというもの、藤井君の男気に味を占めた自分は、頼まれてもいない納品を口実にたびたび尾道を訪れ在庫を押し付けていくようになるのだが、そのたびに彼は苦々しい顔で「本当にバカだよあなたは」と小言を言いながらも、渋々買い取ってくれるのだ。ここだけの話、自分は彼にその言葉を言われたいがために、喜々として迷惑を掛けに行っていた節がある。押し付けられる方からすればたまったものではないだろうが、自分にとってはそれこそが尾道と自身を繋ぐよすがだったのだ。そんな繰り返しの果てに在庫の殆どが弐拾dBの店頭に並ぶことになってしまったが、このバックグラウンドも含めての「私家版ボ性大全」であり、彼が売ってくれることで初めて、拙著は真の完成を見たと言えるだろう。だから自分はこの本を今後も、彼の店以外に卸す気は無い。

弐拾dB店主と私

 客として、あるいは友として弐拾dBに通ううちに、ここでも数奇な縁に幾度か巡り合った。お互い関東に住んでいたのにやたらと尾道で遭遇していた友人は、向島の古民家を購入、移住し、今は民泊の開業に向けて日々、DIYに勤しんでいる。彼が紹介してくれた移住同期コミュニティのメンバーも、今や帰省の際には欠かせない大切な友人たちだ。また、過去に一度ボ性連のオフ会に参加表明してくれていた方に期せずして再会したこともあった。先日の「しりとり手帖」への寄稿は、その時に紡がれた縁から実現したものである。

 こうして尾道も、自分の「帰る場所」になった。自分にとって会うために帰るのが岐阜ならば、暮らすために帰るのが尾道。さすがにこれだけの頻度で訪れていると移住を勧められることも少なくないが、決して安くない交通費を毎回払ってでも、自分はあくまで尾道に帰りたいのだ。そして全くもって図々しい話ではあるが、ゆくゆくは「男はつらいよ」の寅さんよろしく、「エロ司が来る」ということ自体が尾道にとってのひとつの風物詩になれば良いと思っている。





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