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暴力にくちづけを


 女性が好きだ。そう口にすると大抵「女好き」というニュアンスで理解されてしまうが、この「女好き」に含まれる「女」とは基本的に「自身に利益をもたらす者」とニアイコールであり、自身にとって無価値もしくは害を及ぼすという判断が下された瞬間、「女好き」は容易く「女性嫌悪」へと変貌し得る。勿論それはこのケースに限った話ではなく、「女」の部分に何を当て嵌めても成立し得ることではあるが、利益によってのみ担保される関係であればそれは「好き」ではなく「価値がある」と表現するのが筋だと考えている自分が敢えて「好き」という表現を用いる場合、それは自身に害が及ぶ可能性まで考慮した上で、在り方そのものを好ましく思っていることを示している。ゆえに自分は「女好き」ではなく「女性が好き」という言葉を使うわけだが、いわゆる「フェミニスト」なのかといえば、厳密にはそれも違う。我々はそろそろ「属性」の代理戦争から降りて、個人対個人の関係に回帰する必要があるのではないかというのが、ここ最近の自分のスタンスである。

 以上を前置きとした上で、今記事では「暴力的な男はモテる」という男女論における永遠のテーマとも言える命題についていくらか反駁を試みてみようと思うわけだが、このテーマについて語るには、まず「暴力」という言葉の示す範囲と「モテる」の定義について明らかにする必要がある。「暴力」は元々のワードパワーの強さゆえに、そして「モテる」はあまりにも慣用的に使われ過ぎているがゆえに、自分と同じ前提を相手も当然共有しているものと誤認されやすい概念である。例えばこの「暴力的な男がモテる」という言葉を額面で直訳すれば、「女は本能的に力で屈服させられることを望んでいる」と読み取れてしまう。それは女性からすれば、所詮お前の本性は野蛮だと罵声を浴びせられているようなものであるし、男性からすれば力にものを言わせるような人間が得をするのがこの世界の常だと諭されているようなものであろう。このような相互認識を前提に議論が交わされれば、両者の分断が加速度的に進行していくことは明白だ。というわけで、今回はこの前提を切り崩していくことにする。

 まずは「暴力」について。この言葉に対してポジティブなイメージを抱く人はまずいないだろう。「暴力団」「家庭内暴力」など、用例だけを見ても度を越した逸脱を象徴するような言葉であり、主に対象のイメージを低下させる意図のもと使用されることが多いが、このように、単語自体に強力なネガティブイメージが付与されている場合、その単語が使用されることそのものに対する反射的な拒否反応が起こりやすい。

 その最たる例が「暴力装置」という表現だ。以前、自衛隊を暴力装置と表現したことで批判の的となった政治家がいたが、本来「暴力装置」とは「強制力を持つ公権力すべて」を指す言葉であり、フラットな視点で見てもその存在意義から大幅に逸脱した表現ではない。個人的に自衛隊の存在について明確な思想があるわけではないが、さすがに国家によって組織され少なからず軍事力を行使することができる以上「強制力を持つ公権力」という性質を否定することには無理があるし、もしその存在を擁護するのであればその用途を以って、というのが筋であろう。しかし、やはり「暴力」という言葉そのものの持つインパクトが、その言葉の意味する所を隠してしまっていた側面があったことは間違いない。これが「暴力装置」ではなく「強制力を持つ公権力」と表現されていれば、あそこまで批判が加熱することはなかったのではないか。「暴力」だけではなく基本的にワードパワーの強すぎる単語が扱われる時にこそ、その使われる文脈とニュアンスを慎重に考察することが肝要となる。では、そもそも暴力とはどういう意味の言葉なのか、そこから調べてみることにしよう。

 狭義としての「暴力」はだいたい以下のような意味になる。

1 乱暴な力・行為。不当に使う腕力。「暴力を振るう」

2 合法性や正当性を欠いた物理的な強制力。

(goo国語辞書より)

「暴力 意味」で検索すると一番上に出てくることを考えても、一般的に捉えられている「暴力」のイメージは大体このようなものだろう。ここで重要になるのは「物理的な強制力」という名詞ではなく「乱暴な」「不当に」「合法性や正当性を欠いた」といった副詞や形容詞であり、これらの言葉によって非日常的でありかつ不道徳的な印象が殊更強調されている。このようなニュアンスの下、我々の間では「暴力を扱う人間は明確な悪意を以ってそれを行使するものである」という暗黙知が共有されてきたわけだが、広義における「暴力」は、このパブリックイメージとは少し趣が異なってくる。

全ての人間の身体には現実の世界に具体的にはたらきかける能力があり、この能力が他者の意志に対して強制的にくわえられると暴力となる。

(wikipedia「暴力」より)

 以上が、広義における「暴力」の概要である。ここで重きが置かれるのは、行為自体の正当性ではない。「現実の世界に具体的に働きかける能力が他者の意志に対して強制的に加えられること」そのものが「暴力」であり、この意味において「暴力」は、その特権的な地位を完全に喪失することになる。

 我々は他者の意志に強制的に加えることのできる力なくして他者と関わることはできない。二人以上の独立した人間が同一空間上に存在する時点で、各々の意志を全く変化させることなく各々が貫徹することは原理的に不可能だ。関係を維持するために当事者たちに迫られるのは、自ら意志を変化させるか、あるいは他者に変化を促すかの二択であり、後者を選択した場合、それは広義における「暴力」を行使することと同義になる。この事実は、悪意の有無にかかわらず他者と関係する限りにおいて広義の「暴力」と無縁でいることは何人にも不可能であるということを端的に示している。そこには個々の行為の粒度と、行為者が自覚しているかどうかという差異があるだけに過ぎない。

 そのような前提を共有すれば、「暴力的な男」という言葉は単に「不当な暴力を行使するような男」という限定的な意味ではなく「能動的な性質が強く顕れている者」という、より包括的な意味で捉えることができる。この調子で、次は「モテる」の定義を咀嚼していこう。

 まず「モテる」という言葉は、慣用的に使われるうちに意味のずれが起こったものと個人的には考えている。「モテる」は元々「モテモテ」から派生した言葉で、不特定多数の異性に明確に好意を寄せられている状態を示すものであった。正確な転換の時期については定かではないが、少なくとも二十年前にはまだそのような使われ方をしていたと記憶している。しかし、現在において「モテる」とは、「異性獲得能力およびそれに付随するデリカシーの有無」を表す言葉として使われている。同時に複数の異性に求愛されるのではなく、相手に困らないことが「モテる」の条件になった。そしてこの意味のずれが起こり始めた頃から、「非モテ」という言葉も使われるようになっていく。

 「非モテ」とはモテに非ずという意味で要するに「モテない人間」ということだ。しかし不特定多数の人間から求愛されない、という意味ではなく、単に対象のデリカシーの不在を揶揄する意図を以って用いられるケースが多い。また、これを自称する場合は単に「異性のパートナーがいない」状態を示すものとなる。このように、見事なほど「モテる」の意味のずれと連動した造語であると言えるが、「モテる」の定義について考えていくのであれば、少なくともこの「非モテ」の意味についても併せて考えていく必要があるだろう。

 思えば、自身の人生の初期段階における自認は圧倒的に「モテない」だった。異性からは「キモい」だの「メガネ」だのそんな言葉を日常的に浴びせられていたし、誰かから告白されるというような甘酸っぱいイベントとも無縁の日々を送っていたからだ。しかし、ある時点から急に「モテるよね」と言われるようになった。確かに彼女ができたりしたことはあったが、自分が「モテる」というのは何か違うという思いを今日までずっと抱えて過ごしてきた。そして今でも、自分は自分のことを「非モテ」であると認識している。ただそれは、先ほど述べたデリカシーの有無に依るものではない。なぜなら「デリカシーの欠如」とは単純に個人対個人の関係を疎かにした結果に過ぎず、性別という属性とはまた別の領域にあるものだと個人的には考えているからだ。

 自分の考える「非モテ」とは即ち「受動的性質」である。否定されたり拒絶されたりする経験が積み重なっていくうちに、他者に働きかけるということそれ自体に対する恐怖心が定着し、相手に自身の要望を伝えるということが困難になってしまった状態を意味する。相手が自分のことを好きだとわかれば動くことはできるため、側から見ればとても異性獲得能力が欠如しているようには見えないのが特徴だ。「モテる」の対義語というよりも、先述した広義の「暴力的」の対義語に近い。自分は明らかにこのタイプの「非モテ」であったし、今現在もその状態は続いている。

 個人的にはデリカシーの欠如という個人対個人の問題を「モテ」という性別の問題の俎上に載せてしまう現在の「非モテ」の用法はあまりよろしくないと考えている。もちろん特定の性別に付与された権力性がデリカシーの欠如を少なからず誘発している側面を考慮した上でも、である。権力の問題は権力のレイヤー、性別の問題は性別のレイヤー、そして個人の問題は個人のレイヤーで語るという住み分けが行われない限り、双方の妥協点が見えることは永遠に無い。議論において当事者の経験談は、傾向を知る上での素材にはなっても、自説の正当性を決定づける論拠にはならないということを我々は常に意識しておく必要があり、現在の「非モテ」の用例はその境界を意図的に曖昧にしているように思えてならない。

 ここまでの分析を元に「暴力的な男がモテる」を翻訳すると、「能動的性質が強く顕れている男は能動的である」という、ただの頭痛が痛い構文であることがわかる。それはそうだろう、としか言いようがない。冒頭で反駁を試みると書いた手前、むしろ是認する結果になってしまったと思われるかもしれないが、自分が反駁するのはこの言葉の背景に潜むイデオロギーであり、そのイデオロギーとは即ち「女は誠実な自分たちではなく粗暴なDQNばかりを好む」という、ルサンチマンに起因する僻みだ。自身が誠実であるという揺るがない自認を拠り所にしている人をこれまで多く見てきたが、大抵は、ただ粗暴を実行するだけの権力を所持していないというだけの話でしかなかった。少なからず相手の意志に介入する「恋愛」という営みに対する指向性を内包している限りは、万人に対して誠実でいられることなどできないのであり、その事実に向き合わずして誠実を僭称することは、むしろ何にも勝る不誠実ではないだろうか。もし仮に誠実へ続く道があるとするなら、それは「男」「女」という性別ではなく「私」と「あなた」として、今目の前にいる一人の人に自分は何ができるのかをただただ考えていく、その地道な積み重ねを置いて他には無いのである。

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