「天、共に在り」 その2


中村哲さんの「天、共に在り」を読んでから、彼の覚悟と実績が凄すぎて、「自分が書いている事なんて、どうでもいいことだな」と思って、何だかしばらく、文が書けませんでした。
以下、もし間違えていたらごめんなさい。

改めて、中村哲さんは1946年福岡県に生まれ、医者になって日本で数年働いた後、38歳の時にJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)から声がかかり、7年間ペシャワール・ミッション病院で働く。中村哲さんの赴任が決まった時に、ペシャワール会が発足。

ペシャワール会。聞いたことはある。かつて海外ボランティアを目指していろいろな団体を調べていた時、ペシャワール会という名前は何度も見た。でも私は、自分をアフリカにボランティア派遣してくれる団体を探していたので、誰かの活動を支援する団体には興味がなかった。だからこの団体について調べることもなく、通り過ぎただけだった。
そうか、あの団体は中村哲さんの活動を支えるものだったのか。

彼はただ、医療活動をするだけではなかった。その病院で7年間勤めた後もアフガニスタンで医師を続けた。医療だけではなく、雨やダムのこと、灌漑のことを一から学んだ。
頭も良かったのだろうけれど、それだけではない。現地のことをとことん考え、学び、行動した。
広大な砂漠に水を引こう、ダムを作ろうと思い立った時には、ペシャワール会が集めてくれた膨大な寄付のおかげで、大工事が出来たのだった。

”出来たのだった”なんて、一言では片づけられない。その間にアメリカ同時多発テロ事件が起き(私は九州労災病院に入院、リハビリ中だった)、戦争があった。何度も工事を中断したし、建設員が誘拐されたこともあったそうだ。

水路関連の工事は何年にもわたり、負傷者は重傷7名、軽傷多数、熱中症数百名、作業中の死亡者1名、時間外では誘拐殺人2名、溺死3名。
多くの作業員がいた中で負傷者がこれだけいるのは仕方がないというか、むしろ少ないのかは分からないけれど、これだけ大きなプロジェクトで現地の多くの人が中村哲さんのもとに集まったのは、ダムが出来ることで恩恵を被ることが出来る期待感があっただけではなく、中村哲さんの人柄や統率力があったからだろうと思う。

ダム建設がひと段落ついた後に集中豪雨で洪水が起き、ダムが決壊しそうになったことがある。その時は躊躇する現地の人を押しのけ、中村哲さん自らブルトーザーに乗り込んで、村に被害が及ばないように水路を切ったそうだ。
壮絶、まさに命がけだ。

”終章”に書かれている事は、どれも、全文が心を打たれる。アフガニスタンで30年間、死に物狂いで突っ走った中村哲さんの心の声が詰まっている。

世の流れは相変わらず「経済成長」を語り、それが唯一の解決法であるかのような錯覚を刷り込み続けている。経済力さえつけば被災者が救われ、それを守るため国是たる平和の理想も見直すのだと言う。これは戦を頭上でしか知らぬものの危険な空想だ。(239ページ)

極言すれば、私たちの「技術文明」そのものが、自然との隔壁を作る巨大な営みである。時間や自然現象さえ支配下に置けるような錯覚の中で私たちは暮らしている・・・情報伝達や交通手段が発達すればするほど、どうでも良いことに振り回され・・・(241ページ)

「天、共に在り」
本書を貫くこの縦糸は、我々を根底から支える不動の事実である。(246ページ)

あと、どこに書いてあったか見つからないけど、
相手が裏切ったからと言って、自分も裏切り返さないこと。そういう誠実さを繰り返すうちに、だんだんと信頼関係が生まれてくる
というようなことが書いてあった。

ああ、もう、書ききれない!!
この本を読んで、中村哲さんの想いを是非味わってみてください。

このエッセイを書いたことで、止まっていた足をようやく前に踏み出せそうです。中村哲さんのように大きなことは出来ないだろうけれど、私の人生を歩き出そう!


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