10/19追伸

じぶんにとって「書く」ってなんだろうと思って。
これ結構、小さい頃からたまーに考える。

小説家になりたいわけでもないし、仕事にしたいとも思ってなくて、でも、幼少期からじぶんが書いた何かが世に出る機会はいくつかあって、結局この歳になっても、書くという行為だけは文字通り「夢中」になる。ゾーンに入るみたいに。でね、結構そのあとあの時何書いたかはスッと忘れちゃう。知り合いとかに、『あの時のあの記事であぁ言ってたじゃん』と言われても「そうだっけ」となる。

わかってもらいたくて書いているかというと、それに関しては若干の抵抗のような感情があるという点においてはじぶん、まだまだ子どもです。

なんというかその、少しだけ「暗号化」させたくなってしまう。

わかんない、例えば簡単に分かられたら困るというようなしょうもないプライドがあるのか、それとも、少し探って欲しいというわがままか。んー、かくれんぼ、に近いかも?。でもほんとにわかんないんだけどそういう類の気持ちがあって、特にXのつぶやきにおいてはその140文字を本来の表現より最終的にはぼかすような形に書き換えてしまう。

それでいて「なんかわかる」みたいな感じになってもらえる人やわかる人にわかればいい、という表現も違う。

なんなんだろうなぁ、書くって。

そう考えていたとき、限りなく近い表現を見つけたみたいです。

夜寝る前に、わざわざ(消化に悪い)柿をゴリゴリ剥いてる最中のこと。

【うんこのようなもの】

例えば、歯磨きとか洗顔とかだとちょっと違う。
それには少なくとも、他人を意識した他者評価としての身だしなみの要素が漂う。

一方でうんこは、そうせずにはいられないという要素、強く感じて。

そうせずにはいられない上にそうせずには生きられない。苦しくなってくるし、出したい。それは生きていく中で自然にじぶんの体の中にコツコツ蓄積されていくもので、まあ無理やり出そうとして出ないこともないし、出さないようにしてそうできるものでもないようなもの。誰かに「みてみて!」と迫る必要もない、誰からの評価対象でもない(医者は例外)、最も、他者への理解の身代金には値しないほどごくごく自然なもの。

あんまり何回も言いたくないからこれ以上は割愛しますね。

だから、読了ツイートにしたってnoteにしたって、何十、何百といいねのつくものなんてワシには書けまへん、「ただ、してるだけ」。

おいらにとって「書く」というのは生理現象で、排泄で、生きるのに不可欠で。でもそれは、金にもならなければ理解に値するようなものでもない、とても個人的で重要なもの。

一方でね。
言葉を取得・習得していくほどに書くことの不自由さみたいなものも日々感じていて。

何がいいたいかというと
せっかくインターネット繋いだし、プライベートの時間も増えたんでね、

何かこう、暇つぶしをね
見つけるのが楽しい今日この頃なのです。

ちょっと明日8時までに出さなくちゃならない粗大ゴミの準備してないの思い出して、当然あのシールも買っていないし、でも今から買いに行けるような見た目でもないので早起きします。4時に起きれば間に合いますか。

物干し竿、2つに折らねばならんし
シールも買いに行かねばならんのです

近くのコンビニ
歩いて5分くらい。

休日の朝の徒歩5分は、とおいんだよなあ‥


P.S.
やっぱり文字にしてしまうとなんでも、思ってたんと違う。
安っぽいとも違うけど、なんか違うんだよなぁ

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