クーデターさえなければ

2021年 2月 1日、ミャンマーで軍事クーデター発生から1年になる。

クーデターさえなければ、、、と、どれだけ多くの人が感じているだろう。

主義・主張は それぞれ あるだろうけれど
多くの人にとって「クーデターさえなければ」との想いは比較的多くの方に共有されているのではないだろうか。

クーデターが発生して以来、 非常に多くの人が犠牲になっている。
多くの人が犠牲になり、現在進行形で続いている。

亡くなられた方、逮捕・拘束されている方、家を失い避難民となっている方など、本当の多くの人が被害にあっている。
直接的な被害にあわれた方やその親族・友人の方、先が見えなくなり精神的に追い詰められている方、クーデター後の経済情勢不安定化により生活苦に陥っている方、家族としばらく会えなくなっている方、様々な理由で以前の生活に戻れなくなっている方…本当にいろんな方が犠牲になっている。

クーデターさえなければ、
学生は、家族や友達と笑顔でご飯を食べて、街で仲間と遊んでいるだろう。
クーデターさえなければ、
先生は、学校で子どもたちと触れながら、英語の授業を教えてるただろう。
クーデターさえなければ、
若者は、今日も仕事に取り組み、未来を見据えながら働いていただろう。

クーデターのせいで、
一部の若者は、山岳地帯で訓練をして、軍との武力衝突の最前線にいる。
クーデターのせいで、
恐怖に怯えながら、友人の家を転々としながら暮らしている。
クーデターのせいで、
仕事を失い、生活が苦しくなり、借金生活に追い込まれている。

クーデターのせいではない、と言う人もいるかもしれない。
クーデター直後に、別の行動を取ればよかったじゃないか、などと言う人もいるだろう。
でも、やっぱり違うと思う。

クーデターさえなければ、こうはなっていなかった人がほとんどだ。
若者達の多くは、決して好んで武器を手にしているわけではない。

クーデターさえなければ、こんな事にはなってなかったのに…。
そう思っている人がたくさんいるだろう。
でも、多くの人は そんな事を口にする事すらできな状況にもある。


1年前のクーデター直後。
現地にいる友人の話や報道等を見て不気味さ、さえも感じた。
人々は普段のように動き、抗議デモも起きることなく「クーデターとは一体なんなのか?」「ミャンマーは確かに軍事独裁政権時代が長かったけれど、こういうものなのか?」 と当時は、状況が掴めなかった。

しかし、当初、行動こそ起きなかったものの、市民の中には 強い反対の気持ちが心の奥底に眠っていたのだ。

まず はじまったのが「鍋叩き」。ミャンマーでは、悪霊退散の意味合いを持つ風習。人々は夜8時から一斉に鍋叩きを行う事で連帯感を示した。
ヤンゴンやマンダレーはもちろん、チン州やシャン州といったいわゆる地方部や山岳地帯でも鍋叩きの動きは広がっていった。
時を同じくして、CDM(市民不服従運動)が全国の公務員の間で広がっていった。医療従事者からはじまり、学校の先生、鉄道局のスタッフ、電力局のスタッフと、各方面に、そして全国に広がっていった。そして、彼らをサポートする人達も多く存在した。

その後、若者らの " 抗議活動 " をきっかけとして、ミャンマーの雰囲気が大きく変わりはじめた。
そのムーブメントは、文字通り " 瞬く間に " 全国へと広がっていった。国境を超えて、日本・タイなど、ミャンマー国外に在住するミャンマー人コミュニティやミャンマー関係者に広がっていった。

2月5日頃からは、多くの一般市民が軍のクーデターに抗議し、その意志を示すべく街に繰り出した。
1週間経っても、2週間が経っても、人々の意志は変わることなく、衰えることもなく、むしろその勢いは増していった。
2021年 2月 22日(通称:22222) には、全国各地で本当に多くの人が、家を出て、抗議活動の列に加わっていた。

しかし、今 振り返ってみると、この平和的な抗議活動が展開された期間は非常に短かった。

軍による弾圧がはじまってしまった。

2月9日、ネピドーで19歳の女性が実弾で頭を撃たれ、その10日ほど後に死亡した。この頃から、軍の態度はさらに硬化し、武力弾圧の強化がはじまった。非暴力で平和的に抗議する人々に暴力を振るい始めたのだ。

2月末頃から、ヤンゴン市内でも弾圧が強まり、ジャーナリストやレポーターが狙われはじめた。武力で押さえつけ、逮捕・拘束をしはじめた。
抗議活動を先頭で引っ張る若者のリーダー達も軍のターゲットとなった。当初の弾圧は、催涙弾の使用等 殺傷能力の高い武器の使用を控えていたようだが、そんな時期は長く続かなかった。

2月25日頃には、抗議活動に参加する若者らが次々と拘束されるようになり、道端でも殴る蹴るの暴行が加えられ、さらには実弾を発砲するようにもなっていた。
夜間外出禁止令を発動し、夜の時間帯には人々が外に出られないようにし、外に駐車してある車を破壊したり、パチンコで一般市民の窓ガラスを割るなどの横暴を始めた。
さらに軍は、逮捕状なしで拘束できるようにし、抗議の意志を示しただけで逮捕できるようにもしてしまった。
つまり、軍のご機嫌ひとつで逮捕されるようになってしまった。

市民たちは、国内での働きかけだけでは、前に進まない事を認識し、国際社会に訴えるべく、インターネットを通じた世界への情報発信も続けた。
米国や英国は、クーデター直後のかなり早いタイミングから標的型経済制裁を発動。
しかしその一方で、国連安保理は、中国・ロシアの " 拒否権の壁 " が立ちはだかり、有効な手立てには繋がらず。国際社会の中で、ミャンマーがどうなっていくのか、心配な目で見守った。

ミャンマー国連大使 Kyaw Moe Tun氏が、軍のクーデターと市民に対する暴力を強く非難すると共に「われわれは、国際社会のさらなる協力な行動を必要としている」と語った。その後、ミャンマー国民に向けても、ミャンマー語でメッセージを発信した。彼のスピーチは世界を大きく動かした、歴史的スピーチだったように思う。

しかし、その後 1年後の今日に至るまで、国際社会(特に国連)は有効な手立てを打てないままだ。
なかなか進展がない、その根本にあるのは、頑固な軍の態度によるものが大きいとは思うが、国際社会が動くことの難しさを感じもした。

2月後半から3月に入り、軍の弾圧は各方面で かなり激しくなっていき、死者数がどんどん積み上がっていった。
重火器を用いた作戦が展開されたり、小さな子供が殺されたり、軍に拘束された翌日に遺体で家族のもとに返ってきた等のケースが相次いだ。拷問の跡 と見られる 生々しい傷跡がついて返ってきた遺体の写真も幾つか SNS上に流れていた。
2−3月は日々 死者数が増えていき、情報を追っているだけでも、とても苦しい時期だった。

次第に、市民たちの中には、絶望感が漂い始めたのではないか、とも思う。

平和的に抗議を続けていたのに、軍に暴力でねじ伏せられてしまった。
抗議を続ければ、最悪の場合、仲間たちのように、逮捕され、拷問を受け、殺されることだってありうる。
SNSを通じて、軍の残虐性が白日の下に晒されており、軍の弾圧に対する恐怖心が市民の中にも植え付けられていったように思う。
とりわけ、ある程度の年齢より上の世代は、1988 や 2007 といった過去の軍による 非人道的行為 を身を持って体験している。彼らの層では、命の危険性を天秤にかけ、暴力に屈し、抗議活動を渋々 諦めた人の割合も高いだろう。(そもそも追いかけられて逃げられるか等の別要因もあるように思う。)

若者にとっても、抗議活動に参加するリスクはかなり高まっていた。
それでも クーデターに反対する想いは根強かった。
一時期ほど人が抗議活動に集まらなくなっていったが、若者たちは集まり、危険を承知の上で 抗議活動を続けていた。

しかし、意志表示さえも封じ込められはじめた。
抗議活動に参加すれば、実弾で撃たれて死ぬリスクがあり、夜中に軍に連れさられる危険性もある。だから、家を転々としながら活動する若者達がたくさんいた。
軍は民間メディアのライセンス剥奪やモバイル通信遮断など、情報統制にも力を注ぎはじめた。
軍の非道な暴力的弾圧と、情報統制により、意思表示をする事すら困難な状況に追い込まれていった。

軍に抗議する若者の多くは、目の前で仲間が命を奪われる光景を目の当たりにし、恐怖と向き合っていた。そんな若者たちを支えてきた少し上の世代の人達も、軍の弾圧に怯えるようになっていった。
※軍からすれば、武力による制圧成功、ともいえるが、非人道的な対応は世界中の " 常識ある人達 " からは徹底的に非難されている。

この頃、大きな分岐点があった。

多くの一般市民は、恐怖に怯えながら命を守り、普通に暮らす道を選んだ。
その事を責めるつもりはない。彼らにも生活があり、命を大切にしたい気持ちは痛いほどわかる。自分がその立場に置かれたら、こちらを選ぶ可能性が高いようにも思う。

一方で、一部の若者らは、軍と闘う道を選んだ。
次世代のため、自分たちの未来のため、国のため、自分の意志のため、多くの国民のため…いろんな理由があるだろう。
理由はそれぞれ異なるだろうが、彼らの多くは、軍と 独裁者と 闘う道を選んだ。彼らのうち、決して少なくない数の者は山岳地帯で武器の扱い方を学ぶべく訓練に入った。都会の地を離れ、ジャングルに向かっていった。

このままではいけない。

その強い想いの先に、とった行動が 大きな分岐点となったように思う。
正解なんてない。
それは誰も知らない。
その人にとっての " 正義 " をいかに貫くのか。
その貫き方がどのように なるのか。
各自が判断して行動した。
その結果が、今の状況だと思う。

きっと めちゃくちゃ悩んだだろう。
家族としばらく会えなくなる。
ひょっとしたら死ぬかもしれない。
そんな事も考えた上で決断したのだと思う。

クーデターさえなければ、
しなくてもよかった決断
を迫られた上で、
自ら決断したのだ。

だから、私個人としては
個人の想いを 尊重 したい。

どちらを選んだとしても
その道を選んだ 本人は
「これでよかったんだ。」と。
正当化 したくなるものだ。

だから 人の立場は尊重したい、とは思っている。
しかし、さすがに
クーデター を 起こした人の立場は支持できない。
非暴力で抗議する人を殺害する人は支持できない。

クーデターさえなければ、
起こってない事がたくさん、たくさんある。

でも、起こってしまったのだ。
時は戻せない。

私は今、ミャンマーにもいない。
できる事にはもちろん限りもある。
恐怖だってある。

でも、今 ここから
自分に できること
を考えて
できる範囲で行動する。

幾つもあるだろうけれど
「知ること」と「伝えること」
これは 自分にできること。

だから、頻度はさておき
情報発信はきっちり続けていく。

クーデターさえなければ
この記事だって生まれていない。

※  勢いだけで書いたので
 近いうちに手直しするかも。

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